第一章 第13話 天方陸

 天方あまかた聖斗せいとを含めた二十三人が消失した現場に、謎の人物が現れた。


 彼らを発見した天方母子おやこは、さくらの判断で衰弱すいじゃくしている二人を家に連れ帰り、身体をき、食事を与え、寝床を用意した。


 午後十一時を過ぎた辺りで、夫であり父親である天方りくが帰ってきた。


    ◇


「お帰りなさい、あなた」


 さくらは、夫を出迎えに玄関に向かった。

 見ると彼の髪や顔にしずくれている。


「あらあら、雨?」

「ああ、家に着くほんのちょっと前から、突然ざーっとね」

「そうだったの。タオル取ってくるわね」

「頼むよ、このままだと床をべしゃべしゃにらしちまう」


 彼はとりあえず玄関の上がりかまちに浅く腰かけ、濡れた靴を脱ぎ始めた。


 ――天方あまかたりく、三十八歳。


 二歳年下のさくらの夫であり、聖斗と理世りせの父親である。

 市内のIT企業に勤める技術者で、趣味は料理。

 週末や休日には、さくらの許可を得てたまに腕を振るっている。


 特にオリジナルカレー作りにっており、しばしばキッチンをスパイスまみれにしては妻にしかられているらしい。


「はい、どうぞ」

「お、サンキュー」


 渡されたタオルで頭や顔をがしがしとく陸に、さくらがたずねる。


「どうします? 先にお風呂の方がよさそうだけど」

「そうするよ。シャワーだけさっと浴びるから、ご飯用意してもらっていい?」

「はいはい」


 そう言ってキッチンに行きかけたさくらが、くるりと振り向いて言った。


「あとで、ちょっとお話があるから」

「え……話?」


 何となくぎくりとして陸は聞き返したが、さくらは気づかなかったらしく、何も答えずにキッチンに消えてしまった。


「お父さーん、おかえりー」

「あれ、まだ起きてたの?」


 リビングから娘の声が聞こえてきて、陸は少し驚いた。


 理世は割と早寝で、平日は彼女が起きているうちに帰宅できることはなかなかないからだ。


 それなのに……こんな夜遅くに起きているとは。


「うん、あたしもあとで話があるから」

「は?」

「後でねー」


 何か変だな、と陸は思った。

 ――あんまりいい予感がしない。


 首をひねりつつも、かばんを玄関に置いたまま彼は脱衣所に入った。


「おや?」


 珍しいことに、こんな時間に洗濯機が回っている。

 よく見ると、壁に泥のようなものが……。


「なあさくらー」

「はーい?」


 キッチンから返事が聞こえてくる。


「今頃洗濯してんの?」

「……そう。ちょっとねー」


 怪しい。


(まあいい。とりあえずシャワーだ)


 どんな話か知らんが、一応心の準備だけはしておこう。


 そう思いながら、陸は浴室の扉をひらいた。


    ◇


「……マジでか?」

「マジです」


 シャワーを浴び終わった夫と、彼の晩御飯を並べ終わった妻、そして舟をいでいる娘がダイニングテーブルを囲んで座っている。


 さくらは、怪訝けげんそうな顔をしているりくに座るよううながした後、事の次第しだいを彼に話して聞かせた。


 ……時々覚醒かくせいする理世りせの解説付きで。


「じゃあその人たちは、今、客間で寝てるってこと?」

「そうね」

「……ちょっと見てきていいか?」

「ええ」


 椅子いすから立ち上がり、ダイニングから客間に続くふすまを、そろそろとける陸。


 ――四畳半の和室を、ナツメきゅうあかりがぼんやりと照らしている。


 客用布団が二組かれ、それぞれに一人ずつ寝ているのが見て取れた。


 あいにく二人とも反対側を向いているので顔は分からないが、さくらが言うように確かに赤髪に……見える。


 陸は小さく溜息ためいきいて、かぶりを振ると椅子いすに座り直した。


「マジでしたね……」

「ええ」


 ずずずとお茶をすすってから答えるさくら。


「腹減ってるから、メシ食いながら話すけど、いい?」

「ええ、もちろん」


 さくらの答えを聞くやいなや、陸は目の前で湯気ゆげを立てているスパゲッティ・アマトリチャーナにフォークを伸ばした。


 中の肉はグァンチャーレではなく普通のベーコンだが、陸としてはその辺はどうでもいい。


「もぐもぐ……一応、話は分かったけどさ、さくらはどうしたいの?」

「そうねえ……正直言うと、まだちゃんと考えてないの」

「やっぱりね、そんなこったろうとは思った……もぐもぐ」

「だって」


 さくらは湯呑ゆのみをテーブルの上にことりと置いた。


「ほんの二時間前のことなのよ! 目の前にあんなぼろぼろの人がいて……ほっとけるわけないじゃない……」


「ああ、うん、分かってるよ。君ならそうするだろうね。別に責めてるわけじゃないし、保護するなって言いたいわけでもないから」


「そう?」

「うん……もぐもぐ」


 さくらの世話好きは、はっきり言っていまさらのことだ。

 説明されたような状況なら、彼女は間違いなく手を差し伸べるだろう。


「それで……えーと、何て呼べばいいんだ? あの人たちは」

「名前は――」

「お父さんあのね、アルカサンドラと、えーと、エ、エ、エル――」

「エルヴァリウスね」

「そう、そのヴァリウス!」


 小三女子には、少し覚えにくい名前だったようだ。


「へえ……もぐもぐ、何か古代ギリシャとかローマの人たちっぽいね」

「そうなの?」


「いやまあ、アレクサンドラとかなら欧米じゃあよくある名前らしいし……エルヴァリウスってのは聞いたことないけど」


「名前、カッコイイよね!」

「理世だって、いい名前さ」

「えへへ」


 眠気でとろけそうな目をしながら、はにかむ理世。


苗字みょうじとか聞けた?」

「そこまではまだ……。何しろ言葉が全然通じないのよ」

「英語も?」

「ええ」


 陸は少し考え込んだ。


「他の言葉だと……」


「最初にフランス語かなと思ったから、『エスクサヴァ大丈夫ですか?』って聞いてみたけど、通じてなかったと思う」


「え、さくらってフランス語話せたの?」

「んーん」


 さくらが首を横に振る。


「昔、トラベルふつ会話みたいな本でちょっと勉強しただけよ」

「なるほど……もぐもぐ、ご馳走様」

「おそまつさまでした」


 陸が手を合わせる。


 からになった食器を受け取ると、さくらは席を立って洗い始めた。

 理世はすでに、テーブルに突っ伏して寝てしまっている。


「食べながら考えたんだけど、僕の考えを言うよ」

「はい」

「まず、明日になったら二人と話をする」

「そうね」


 背中越しにさくらが答える。


「まあ言葉の問題があるけど、どうにかするしかない。ジェスチャーでも筆談でも何でもして、出来るだけ情報を集めないと」


「まだ名前しか知らないものね」


「で、この先は話をしないと分からない部分もあるけど……あの二人の健康状態みたいなのはどうなの?」


「怪我とか病気とかってこと?」

「そうだね」


 そう言うと陸は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出した。

 からのコップにとぷとぷとそそぐ。


「君も飲む?」

「わたしはお茶をいただくから、ありがと」

「それで、どうなの?」

「そうねえ……」


 さくらは水道の蛇口じゃぐちをきゅっと閉めると、タオルで手を拭いてから再び席についた。


「ものすごく衰弱すいじゃくしているみたい。疲労困憊こんぱいというか、飲まず食わずで何日も働き続けて動けなくなったような感じかな。あなたが時々いう『デスマーチ』ってのと似てるのかしらね」


「う……」


 陸は、なんだか急に身につまされる思いがしてきた。


 彼の勤める会社は、いわゆるブラック企業などでは決してないが、それでもプロジェクトの進行具合によっては無理することがないとも言えないからだ。


 実際、今日の帰宅時刻からしてなかなかのものなのである。


「ぱっと見ではあるけど、大きな怪我はないみたい。男の子の手指てゆびの爪が何枚かひび割れてたから、簡単に手当てをしといたわ」


「爪か……」

「病気のほうは正直分かんないわね。とりあえず熱はないと思う」

「ふーむ……」


 しばらく腕を組んで考えていた陸だが、「よし」とつぶやいて顔を上げた。


「じゃあこうしよう。彼らがある程度回復するまで、うちで面倒を見る」

「ある程度ってどのくらい?」

「普通に動けて話せる感じかな。病気じゃなければ一週間くらいで回復するだろ」

「そうかも」

「そのあとのことは、さっきも言ったけど話をしながら決めていくしかない」

「わたしもそう思う」


 さくらの顔が、少しだけ明るくなった。

 陸が自分の気持ちをおもんばかってくれているのが分かるからだ。


「ただ、当面は家から出さない方がいい。僕は頭しか見えなかったけど、君の言う通りの容姿なら相当目立つだろ?」


「そうね……きっとその方がいいわ」


 さくらがうなずく。


「今決められるのはこのくらいだろうな。理世もそれでいいか?」

「…………」

「無理もないわね。この子、ものすごく頑張ってたから」

「そうか。君もご苦労さん。大変だったろ?」

「そうね。でも、あなたが許してくれてよかったわ。ありがとうね」

「まあ、君がそう言う人ってのは分かってるからね」


    ☆


 そのあと理世りせは寝室に運ばれ、さくらは風呂に入っている。


 りくは一人、ダイニングで考えていた。


(事件現場の草むらから現れた、外国人の男女……しかもさくらの話だと、地面の穴からのぼってきたと言う)


 麦茶を一口、ぐびりと飲む。


(正直、あんまりいい予感はしない。聖斗せいとの事件と関係ないとは思うが、別の面倒ごとに巻き込まれそうな気がするな……)


 幸い、明日は休日だ。


(僕は僕で、打てる手は打っておくか……最悪、通報する覚悟も)

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