第一章 第12話 天方さくら

 天方あまかた聖斗せいとの妹、理世りせは、自慢の兄としたっていた聖斗がある日突然行方不明になり、深い悲しみに暮れていた。


 その原因となった今岡いまおか小消失事件から半月はんつきほどったある日の晩、もう日課となったかのように、理世は自室で静かにべそをかいていた。


 そして、部屋の窓からぼんやりと外を見ていた彼女は暗闇くらやみの中、現場の一部が動いているに気付いた。


 目をらしてよく見ると、黒いかたまりが動いているのが分かった。


 理世は母親であるさくらを呼び、二人で大急ぎでその場に駆け付けたのだった。


    ◇


「り、理世……それ、一体何?」

「お母さん! これ、人だよ……女の人みたい」

「ええっ!?」


 さくらは周りをきょろきょろと見回した。

 人影は…………さいわい、ない。

 道路に面した民家の窓にも、誰かがこちらを見ている様子は見受けられない。


(ええい、しょうがない!)


 さくらは意を決して、黄色と黒のバリケードテープをくぐった。


 何か強烈な罪悪感にちくちく心を刺激されながらも、理世のもとに小走りで辿たどり着くと――――




 ――――黒い何かのかたまりと思ったそれは、理世の言う通り確かに人だった。


 ぼさぼさの長いレッドブラウンの髪、同じ色の長い睫毛まつげ、あまり見たことのないような衣服――どこもかしこも泥汚れがひどいが、さくらの目にもそれは成人女性に見えた。


 その横に、草に囲まれて土がき出しになっているところがある。

 よくよく見ると……穴がいているらしい。


「ちょっとあなた! 大丈夫?」


 思わず駆け寄って、さくらは声を掛けた。


「う……」


 泥色どろいろの女性はかすかにうめき、うすく目をけた。

 彼女は倒れたまま、さくらに向かって手を伸ばした。


「ト……トロア……イム、ルテーム……」

「えっ?」


 その女性はささやくようにそれだけ口にすると、再び倒れ込んでしまった。


「ちょっと! あなた!」

「お母さん、この人、何て言ったの?」

「え?」


(トロア? ルテーム? ジュテームじゃなくて? うーん……)


「よく分かんないけど、何となくフランス語っぽいわね」

「うん、見た目も外国の人みたい」


「えーと、エスクサヴァ(大丈夫ですか)?」

「……」


 女性から反応はない。


「通じてないのかしら……」

「わわっ!」


 突然、理世が叫び声をあげ、尻もちをついた。


「どうしたの――ひぃっ!」


 見ると、すぐそばの草むらから黒い腕が一本、にゅうっと上に伸びている。


「なになにっ!?」


 危うくさくらまで腰を抜かしそうになる。


 そして腕がもう一本増えたかと思うと――――――ずずずっと誰かの頭のようなものがゆっくりと現れ始めた。


 倒れている女性と同じ色の髪。


「もう一人いたのね……」


 い上がろうとしている人物に手を貸そうと、さくらが近付いたその時。


「!……」

「あっ!」


 音もなく穴のふちが崩れた。


 気が付くとさくらは、穴の底に消えそうになった腕を、両腕でがっしりとかかえ込んでいた。


「ううっ……重い……」


 自分も泥だらけになってしまっているのだが、そんなことを意に介する余裕など彼女さくらにはなかった。


「理世、手伝って!」

「う、うん!」

「よいしょっ!!」

「うーーーっ!」


 地上に現れたもう片方の腕を理世はつかみ、両手で力いっぱい引っ張る。


 決して力持ちとは言えないはずの天方母子おやこだが――こういうのを火事場のバカぢからと言うのだろう――二人はみるみるうちに、その腕の持ち主の身体を引き上げていった。


    ◇


「疲れた~」


 リビングのソファにばふりと、さくらと理世りせは大の字になって身体を沈めた。

 既に二人ともパジャマに着替えている。


 時刻はもう午後十一時に近い。

 小三の女子にとっては、かなりの夜更かしだ。

 父親はまだ帰って来ていない。


「ご苦労さま。あとはお母さんに任せて、もう寝たら?」

「や。お父さんが帰るまで起きてる」

「そう? 明日が休みで、よかったわね」

「うん」


 起きてるとは言いつつも、すでにうつらうつらしている理世を横目に、さくらは考えた。


(問題は、ここからね)


 洗面所では洗濯機がごんごんと回っている。

 キッチンのシンクには、新たな汚れものが積まれている。


 泥だらけだった玄関や廊下は、理世がお風呂に入る前にきれいにいてくれた。


 ――そうなのだ。


 家の中はようやく落ち着いてきたが、さっきまで二人はてんてこ舞いだったのだ。


 まず、謎の二人を何とか引き上げてから、さくらは最初の悩みを悩みに悩んだ。


 ……このあとどうすべきなのか、と。


 普通に考えるのなら、110番通報だろう。


 必要なら救急車も呼ぶべきだろうが、警察が来ればその辺の判断も期待できる。

 あとは専門家に任せればいい。


 まあちょっと服は汚れてしまったが、洗濯物が少し増えるだけだ。


 人助けらしきことも出来て、ちょっとだけ気分よく、いつもの日常に戻ることが出来る。


 ――しかし。


 目の前で泥にまみれて虫の息になっている人間を、事務的な手続きだけして「あとはよろしく」とばかりにその場を去るという選択肢を、さくらはどうしても取れなかった。


 もしかりにネットで相談をしたら「気持ちは分かるけれど警察にまかせた方が」という意見が多数を占めるかもしれない。


 法律的にはその方が正しいのかも知れないし、効率的なのかも知れない。


 ……それでもさくらは、この二人を見捨てる――そうすることは見捨てると同義どうぎだと彼女には思えた――ことは、人倫じんりんもとる行為だとしか思えなかった。


 何より……この二人を放置するような姿を、娘に見せたくなかったのだ。


「お母さーん」

「ん? なに?」

「あの人たちの様子、もっかい見てきていい?」

「いいけど、起こしちゃダメよ」

「うん」


 目をくしくしとこすりながら客間きゃくまに向かう理世の背中を、さくらは何となく見遣みやる。


 そして、ふすまの向こうで泥のように眠っているだろう二人のこと、助けた時の様子について思い返していた――――


    ※※※


 ――あのあとさくらと理世りせは、相当に苦労して二人を自宅へ運び込んだ。


 恐らく誰にも見られてはない。


 取りあえず意識はあり、覚束おぼつかない足取りではあっても、二人が自分の足で歩いてくれたことは助かった。


 家の中に入れてまず、さくらたちは二人の服を脱がせ、身体を大雑把おおざっぱいた。

 先に風呂に、とも考えたが、体力を消耗しょうもうさせない方がいいと判断したのだ。


 その時に分かったのは、女性がさくらと同年代くらいの容姿ようしであり、男性の方がギリギリ未成年くらいの年の頃だということと、二人が紺碧色こんぺきいろの瞳をしていることだった。


 清拭せいしきと着替えを理世にまかせると、さくらはキッチンに向かい、卵を割り入れた醤油しょうゆ味のおじやを作り始めた。


 ほどなく出来上がると二人を理世に連れてこさせ、ダイニングの椅子に座らせた。


 目の前に置かれたおじやとコップの水を見て、二人がごくりとのどを鳴らすのをさくらは見逃さなかった。


 さくらが身振り手振りですすめると、二人は木のさじを手に取り、おずおずとおじやに取り組み始めた。


 熱いから気を付けて、というさくらの言葉はやはり通じなかったのか、がっついた男性のほうが目を白黒させるのを見て、理世が声を立てて笑った。


 そんな娘の久しぶりの笑顔をながめながら、自分の選択はやはり間違っていなかったと、さくらは安堵あんどした。


    ※※※


 ――そうして身体を多少なりともさっぱりとさせ、食事をとって落ち着いた二人は、客間きゃくまに敷いた寝具で眠っているというわけだ。


 布団ふとんの使い方が分からなかったようだが、理世の実演で理解したらしい。

 中にもぐり込むと、二人はものの数秒で寝息を立て始めた。


「よっぽど疲れていたのね……」


 洗い物をしながら、さくらはつぶやいた。


 その時、玄関の扉がく音がした。


「ただいまー、やあ降られちゃったよー」


 夫の声が響いてきた。


(さてと、何とか説得しなくちゃね)


 ――さくらは、心の中でこぶしをにぎり締め、決意を新たにするのだった。

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