第一章 第11話 天方理世

 兄が行方不明になってから、約半月。


 天方あまかた理世りせは、今日も泣いていた。


    ◇


 三つ年上――小学六年生――の天方聖斗せいとは、理世にとって自慢の兄だった。


 ――勉強を教えてくれる兄。

 ――一緒いっしょに遊んでくれる兄。

 ――よく分からないけれど、児童会会長とかになった兄。

 ――時々友達を連れてきては、はしゃぐ兄。

 ――理世が混ざろうとしても決して邪険じゃけんにしない兄。


 おかげで自分は、兄の友達にも可愛がられている。


 とは言っても、理世は最初から兄のことを好きなわけではなかった。

 むしろ昔は、少し乱暴な口調で話す兄が怖かった。


 聖斗の方でも、自分と距離を取りたがっているように感じる妹のことを、積極的に構おうとはしなかった。


 ――理世が幼稚園の年長組だった頃。


 その日はどういう経緯いきさつでか、珍しく兄妹きょうだいふたりで近所の公園に出掛け、さんざん遊んだその帰り道。


 側溝そっこうのふたの上を歩いていた理世が、段差につまづいて転んでしまったことがある。


 ひざひどりむいて大泣きする妹を、兄である聖斗はあやしながらおぶって帰った。


 母親の手当てを受けてやっと泣きんだ理世だったが、ふと違和感を覚えて髪を触ると、お気に入りの髪留かみどめがないことに気付いた。


 再びべそをかき始める理世を尻目にそっと出掛けて行った兄は、一時間後、泥まみれのり傷だらけになって帰ってきた。


 ――その手に、理世の大事な髪留めを持って。


 恐らく転んだ時に、何かのはずみではずれて、グレーチングの隙間すきまから落ちてしまったのだろう。

 それに気付いてひろいに行き、思った通り水に流されずに沈んでいた髪留めを見つけたまではよかった。


 しかし、いくら男とは言えさすがに小学三年生の子どもが、泥やら何やらで固着こちゃくしているグレーチングを持ち上げることは不可能だった。


 周囲を見回して、三十メートルほど先にふたのない部分があるのを見つけた聖斗は、そこから側溝そっこうに入り、中をいずって行ったのだった。


 ――ありがちな話、なのかも知れない。


 しかし他人事ひとごととしては量産タイプの出来事でも、理世にそんなことは関係ない。

 彼女にとっては、オンリーワンのエピソードなのだ。


 理世が兄になつくようになったのは、それからだった。


    ◇


「お兄ちゃん……」


 午後九時を少し過ぎた頃。

 理世りせは二階にある東側かどの自室にいた。


 天鵞絨ビロードを張り付けたようにつややかな黒髪を、鎖骨付近まで真っ直ぐ伸ばしている。

 前髪は右斜めに流し、お気に入りの髪留かみどめでとめている左サイド。

 清潔感を感じさせる容姿ようしである。


 そして天方あまかた家は、今岡小学校の西側の通りに面している。


 通学時間三十秒。

 聖斗せいとと理世は、彼らの友達から羨望せんぼうの的だった。





 ――――半月ほど前、天方家は大事な息子を失った。


 当日は集団下校の日だった。


 その日、通学区つうがっくで集まった理世は、聖斗の姿を確認していた。


 何しろ兄は児童会会長でもあり、通学区リーダーでもあるのだ。

 注意事項を話したり、挨拶あいさつの号令を出したりするのも、自慢の兄の役目。


 彼は間違いなく、そこにいた。


 さようなら――と、通学区担当教師である加藤かとう七瀬ななせと帰りの挨拶あいさつわして、通学区班は歩き出した。


 聖斗と理世の家はすぐそこなので、二人はいつものように早々そうそうに集団下校の列を抜け、玄関をくぐった。


 ただいまー、という聖斗の元気な声を聞いたところまでは、理世も覚えている。


 まさかそれが、兄の声を聞いた最後になってしまうとは――――。


「お兄ちゃん……」


 ――天方理世は、泣いていた。


 部屋の窓をからからとける。


 真夏の生温なまあたたかい風と、彼女の母校である今岡小の無残な姿が、黒いシルエットになって飛び込んできた。


 学校がこんなになってしまったので、今は隣の学区にある三原小学校に通っている理世。


 そう。


 昼間はまだいいのだ。

 新しい環境と新しい友達の存在が、わずかながらも彼女の心をいやしてくれる。


 でも、夜になるとどうしても思い出してしまう。


 実際、理世ばかりでなく、彼女の両親も憔悴しょうすいしきっている。


 二週間以上って、さすがに見た目は気丈きじょうに振舞っているようでも、かなしみが全くえていないのは幼い理世の目から見ても明らかだった。


 ――そう言えば、と理世は思い出した。


 同じクラスに、途中から転入してきたクラスメイトがいたことを。


 詳しいことは彼女にも分からなかったが、とにかく人前で話すことが一切出来ないという子だった。


 そんなわけで理世は一度も話した事がなく、一緒に何かした記憶もない。


(何だっけ……瑠奈るなちゃん、だったかな)


 聞くところによると、兄だけではなくその子も行方不明だと言う。


秋月あきづき先生も、お兄ちゃんの友達の朝陽あさひ君も……どこ行っちゃったの?)


「どこ行っちゃったの……」


 窓辺にもたれかかりながら、理世はつぶやいた。


「…………ん?」


 何かが……視界のはしで動いたような気がした。


 学校の敷地は、もちろん普段からへいに囲まれている。


 しかし、今回の事件で異変が西側の道路――つまり理世の家の前の通りにまで広がっており、そこにはくいが打たれ、黄色と黒のバリケードテープが張りめぐらされているのだ。


 現場は民家のあかりに多少照らされてはいるが、ほとんどがやみに飲まれていてよく見えない。


 ――理世は窓から身体を乗り出した。


(あの辺だったと思うけど……あっ!)


 何か黒いものが現れたように見えた。


「お母さん、お母さーーん!」


 大あわての理世は、部屋を飛び出すと母親を呼びながら階段を駆け下りた。

 ここのところずっと静かだった天方家の夜は、急に騒がしいものになり始める。


「お母さん! お母さん!」

「なーにー? どうしたのー?」


 若干間延まのびしたような声がキッチンから聞こえてきた。


 洗い物をしていたのか、まだ帰宅しない夫の晩御飯の用意をしていたのか、エプロンで手をきながら出てきたのは、理世の母親だ。


 ――天方さくら。


 専業主婦として、この家の家事一切を取り仕切っている。


 長い髪を後ろで無造作にたばねているが、理世のつややかな黒髪くろかみはこの母親ゆずりのものだ。


 非常におっとりとした性格の彼女は、滅多に声をあららげることはない。

 実際、理世も母親が激昂げきこうするところなど、つい最近まで見た記憶がなかった。


 そう――つい最近までは。


 一週間ほど前、消失事件の現場である、目の前の小学校。

 そこに花束や飲み物などが置かれていたのだ。


 悲惨な死亡事故などが起こった場所で、たまに見かける光景である。


 恐らく置いた人に悪気はなかっただろう。


 しかし、さくらはそれを見て「ブチ・・」た。


 彼女は家の中に大股おおまたで戻るやいなやゴミ袋を手に戻り、置かれていたもの一切合切がっさいをその中にめ込み始めた。


 そして再び家の中に戻ると、無言のままそれらを分別ぶんべつし出したのだ。


 花束をし折り、紙箱かみばこにぎりつぶす母親の姿を、理世は震え上がって見ていた。


 ――しかし彼女は、さくらが時折肩を大きくふるわせるのに気付いた。


 その瞬間、怖いなどという気持ちは吹き飛んでしまい、理世は声を上げて泣き出した。


 そのままさくらに駆け寄り、彼女の足に取りすがる理世。

 驚いて振り向くさくら。


 そして、わんわんと泣き声を上げ続ける娘の頭を、母親は優しくでたのだった。


 ――と言っても今、ぱたぱたとスリッパの音を立てる彼女からは、そのような激情の片鱗へんりんすらうかがうことは出来ないのだが。


「お母さん!」


 階段をりたところでちょうど母親の姿を見つけた理世。

 さくらは、首をかしげて娘を見下ろす。


「ちょっと来て! ちょっと!」


 理世はさくらの手を引き、玄関へと向かおうとする。


「ちょっと待って理世、お母さんこんな格好かっこうなんだけど――」

「いいから! 早く来て!」


 さっさと靴をいて玄関の戸を開ける理世を見て、取りえずさくらもサンダルを突っかけて外に出た。


 ぬるい夜風が二人にまとわりつく。


 事件から半月経った今でも、昼の間は現場周辺を訪れる人があとたない。


 なかば観光地化している現状を、少しだけ苦々にがにがしく思っているさくらだが、午後九時を過ぎた今ではさすがに人通りは絶えている。


 自分の姿を誰かに見られる心配はなさそう――歩きながらほっとする彼女の視線の先を、理世は駆けていく。


 そして、何ら躊躇ためらうことなく彼女はバリケードテープをくぐったのだ。


「ちょっと、理世――ひっ!」


 暗闇の中、突然しゃがんだ娘を見たさくらは、息をんだ。


 ――――理世の足下あしもとに、黒いかたまりがひとつ、ごろりと転がっていた。

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