第一章 第05話 朝霧くるみ

 ――一家いっかの大黒柱である彰吾しょうごが行方不明になった朝霧あさぎり家。


 衝撃を受ける家族。

 しらせを受けた母親である静子しずこは、ショックのあまり寝込んでしまう。


 仕事から戻ったあきらは、妹のくるみと少し話したあと、母親の様子を見に二階の寝室に向かった。


    ◇


 こんこんこん。


「母さん、オレだけど入るよ?」

あきら? おかえり」


 かちゃりと扉をけると、ベッドの上で身体を起こそうとしている静子しずこの姿が見えた。


「わざわざ起きなくていいから、横になっててよ」

「うん……」


 それでも起き上がろうとする母親の肩に手をかけて、彼は柔らかく押しとどめる。


「それよりちゃんとめしは食ったの?」

「ごめんね……食べたわよ、ちゃんと」

「ならいいけど」


 体調を崩して以来、なかなか食事が静子ののどを通らないことを暁は心配していた。

 目立って衰弱しているというようなことはまだないが、顔色は相変わらずよくないままだ。


「自分でもおかしいくらい、力が入らないのよ……」

「無理もないって。家のことはオレとくるみで大丈夫だから。伯母おばさんも来てくれてるしさ」

「そうね……」

「大体、調子が悪い時は休めって、母さんがいつも言ってることだろ?」

「そうよね……」


 そうつぶやくと、静子の眼に涙があふれ出した。


(結構重症だよな……)


 暁は、両親が職場結婚であることを知っている。

 かつて夫と同じ小学校教諭だった静子は、結婚を機に家庭に入ることを選んだ。


 以来、かげになり日向ひなたになって朝霧家を切り盛りしてきた彼女と彰吾の関係は、子どもの目から見てもむつまじいものだった。

 だから、突然夫がいなくなったと言われた母親がここまで弱々しくなってしまったことも、暁たちには十分に理解できることだったのだ。


「それじゃオレ、飯食ってくるからさ、何か用があったら呼んでよ」

「うん……」


 心配ではあるが、今の段階で暁に出来ることはあまりない。

 寝室の扉をそっと閉めると、彼は食欲を刺激する匂いを追って、階段を下りていった。


    ☆


「ふー。ごっそさん」

「お粗末様でした。食器、水につけといてね」


 ゴミの分別をしながら、くるみがこたえる。

 その背中に、暁は声を掛ける。


「くるみ」

「なに?」

「家事、あと何が残ってる?」

「洗濯もの、あと一回まわしたいけど、そっちはボクがやっとくからいいよ」

「そうか?」

「とりあえずおにいはお風呂に入って、出る時にバスタブを洗っといて」

「おう」


 何と……くるみはボクっだった。


 そのことは今では全く気にならない暁だが、昔は何がどうなって女子が自分を「ボク」呼びするようになるのか分からなかった。

 本人に尋ねても「何となく」としか返ってこないし、両親も別にたしなめるようなことはしない。

 他人に聞いて回ってまで知りたいことでもないしで、いつの間にか考えなくなっていた。


(別に悪いことじゃないしな……)


 暁は脱衣所で、久しぶりにそんなことを思い出した。


 ――今日、職場で似たようなことを聞かれたからだ。


    ※※※


「ねえ、あきらくん」

「はい?」

「参考までに聞くんだけどさ~、キミ、ご両親のことを何て呼んでる?」


 唐突な質問をしてきたのは、暁の職場の先輩の一人である銀月ぎんげつ真夜まよ


 えらくみやびな名前だなと、二年ほど前、しょ対面の挨拶あいさつわした時に暁は思った。

 そう言えば社名も「(株)銀河ぎんが不動産」とか、やたらと壮大だな、とも。


「何ですか突然」

「いいから。ね、何て呼んでるの?」

「普通ですよ」

「普通って?」

「……父さんとか、母さんです」


 真夜の顔がぱあっと輝く。


「へ~、何かかっこいいね」

「ええ? 別に普通じゃないですか?」

「そうなのかな」

「って言うか、突然どうしたんです?」

「いやね、実はおいっ子にちょっと相談されてさ~」


 頬杖ほおづえをついて、ペン回しをしながら言う真夜。

 一応、仕事中のはずなのだが。


「相談、ですか?」

「うん。甥っ子がね、あ、その甥っ子ってうちの母親がたの甥っ子なんだけどね」

「甥っ子甥っ子って、何か『甥っ子』が多いですよ」


「で、その甥っ子がうちに聞くのよ~。『俺、いつ親のことを、親父おやじとかおふくろって呼び変えればええんやろ』って」


「はあ?」


 親の呼び変えと言う、新しい概念に暁は固まった。

 しかし……確かに考えてみれば、今現在自分の両親を親父だとかお袋だとか呼んでいる人たちも、まさか三歳児の頃からってことはあるまい。

 と言うことは、確実にどこかで「呼び変え」をしているはずなのだ。


「言われてみると、オレは子どもの頃から今と同じように呼んでましたからね……実際いつ頃なんでしょう」

「なるほど~、そう言う人もいるんだね。かく言ううちも、ずっとパパママだし」

「え? 真夜さんのご実家ってお寺ですよね。住職さんをパパ呼びってアリなんですか?」

「いやいや」


 そう言って真夜は、頬杖をついていた手を左右に振った。


「確かにうちんとこは宗教法人だけど、仏教とは何の関係もないから」

「あれ、そうだったんですね。新興宗教とかですか?」

「ん~ん」


 今度は首を横に振る真夜。


「うちんとこはずっとず~っと古いかな」


    ※※※


 後半は一人称代名詞の話ではなくなったが、結局答えの出なかった真夜の質問は、暁の頭に妙に残っていた。


「ふう~~……」


 ――浴槽よくそうあごまでかりながら、あきらは考える。


 彼の伯母おばである水無瀬みなせ蛍子けいこは、今のところ二つ返事で彼女の妹である静子しずこの世話をしてくれている。

 しかし……父親がいつ戻って来るのか全く分からない状態で、日中の家のことをずっと彼女に頼むのは申し訳なさ過ぎると暁は思っている。


(水臭いとか言われそうだけど、伯母さんにだって自分の家のことがあるんだし、甘えてばっか――)


「おにい!」

「!」


 突然、浴室の扉の向こうから呼びかけられて、驚く暁。


「な、何だよ……びっくりさせるなっての」

「今おにいが脱いだ服も、洗濯しちゃうからね」


 暁の抗議を一顧いっこだにせず、くるみが告げる。


「お、おお、頼むわ。でも、着替えのTシャツとトランクスまで洗うなよ?」

「分かってるよ」


 ピピピ、と洗濯機を操作する音と一緒に、くるみの鼻歌が聞こえてくる。


(こいつにも負担がかかってるだろうしな……。本人は大丈夫とは言ってるけど)


 ――高校二年生のくるみは、料理家政部という部活に入っている。


 むかしから母親の家事を嬉々ききとして手伝い、飼っている動物や庭の草木くさきの世話を進んでしていたくるみ。

 そっち方面の才能があったのか、掃除洗濯料理はもちろん、いわゆる「名もなき家事」に至るまでその腕前をめきめきと上げ、何を思ったかその手の部活にまで入ってしまった。


 ……だからと言って、高校生である彼女に家事全般を押し付けていいわけがない。


 父親である彰吾が行方不明になったと分かった時、珍しく涙まで見せて狼狽ろうばいしたくるみはひとしきり泣いた後、高校を休学すると言い出したのだ。

 さすがにそこまでさせられない、自分がしばらく面倒を見るからとくるみを説得したのが、伯母おば蛍子けいこだった。


(こりゃ真剣に、お手伝いさんとか家政婦さんとか考えた方がいいかも……今度相談してみるか)


 土日はいいとしても、平日毎日であれば金銭的な負担も馬鹿にならないだろうが、背に腹は代えられない。


「よしっ」


 ざばり、とバスタブから上がり、浴室から出る。


「あれ?」


 着替えと一緒に置いておいたはずのバスタオルが、見当たらない。

 着替えはちゃんと置かれている。


 ごうんごうんと回る洗濯機をにらみながら、暁は毒づいた。


「あいつ……またかよ」

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