第一章 第04話 朝霧暁

 男が、夜の国道一号線を西に向かって車を走らせていた。


 カーラジオからは、いつものFM局のにぎやかなパーソナリティの声が流れている。

 助手席には、これまたいつもの退勤後のおやつが置かれている。


 ――彼の名は、朝霧あさぎりあきら


 N市にある不動産会社に勤めている、二十四歳独身の男だ。


「♪~」


 赤信号で停車すると、彼は鼻歌をうたいながら助手席に手を伸ばし、おやつの一つをつかむ。


 包み紙を点線にそって破ると、中から湯気と油の匂いが立ちのぼった。


 そして、ひと口がぶり。


「ん~~、やっぱりアゲアゲどりは美味いわ~」


 ――あきらには、悪癖あくへきと言うべきものがある。


 それがこの、仕事終わりのおやつ食いだ。


 しかも、おやつと言うにはかたよりがあり過ぎる。

 食べるのは必ず、とり肉のげ物とシュークリームだからだ。


 ――会社からの帰り道、普段から彼はロードサイドにある二つのコンビニを日によって使い分けている。


 今日の暁は、コンビニ「スヴァン・エルヴァン」の気分だったらしい。


 この店の場合だと、買うのは今彼が咀嚼そしゃくしている「アゲアゲ鶏」と「牛乳いっぱいとろとろシュークリーム」になる。


 他にも鶏肉を揚げたホットスナックはあるが、彼はこの「アゲアゲ鶏」の皮のパリパリ具合がたまらなく好きなのだ。


 もうひとつの「牛乳いっぱいとろとろシュークリーム」についてだが、暁は初めてこれをほおばった時の衝撃を今でも忘れていない。


 その味を、彼は言葉で表現しきれないので、「とにかく美味い」としか言わない。


 そして恐怖しているのだ。


 ……リニューアルと称して、レシピが変わってしまうことを。


「もぐもぐ……ごくん」


 ひとしきりみに噛み倒して、鶏の肉とあぶらと塩の味を十分に堪能たんのうしてから、一緒に買ってあったブラックアイスコーヒーでぐいと飲みくだす。


 こののどごしがまた、至福なのである。


 彼は思うのだ。


 恐らく口の中で味を楽しめても、飲み込むことを許されないとしたら――ぺっと吐かなければならないとしたら、ものを食べる幸せは半減するだろうな、と。


 ――実際にやったことはないが。


「それにしても、ホント鶏肉って美味いよなあ」


 暁の鶏肉好きはかなりのものだ。


 もちろん牛肉も豚肉も好物なのだが、もし「今後一生いっしょう、一種類の動物の肉しか食べられないとしたらどれを選ぶ?」と聞かれれば、「鶏肉」と即答するくらいに好きなのだ。


 特に「唐揚げ」を食べられなくなることに我慢がならないらしい。


 それなら牛でも豚でも揚げればいいじゃんと言われたこともあるが、実際その二つの肉は唐揚げには不向きなのだ。


 一説いっせつには、肉に含まれている水分の量が違うからだと言う。


「さーて、次はシュークリームちゃんをっとっと――」


 信号が青に変わり、前の車両が動き出した。


 さすがに運転しながら袋を開けるのは危ないので、暁は次の赤信号に期待することにした。


『さて、次は先日起きた、不思議な事件についてですね!』


 ――ラジオから流れる声に、暁の顔が強張こわばる。


「……」


 彼は手を伸ばしてカーオーディオのボタンを押した。


 彼を一瞬にして現実へと引き戻した声の代わりに、落ち着いたジャズピアノがスピーカーから聞こえてきた。


 ――六日ほど前、暁の父親が校長を務めている小学校で、原因不明の消失事件が起きた。


 父親以下ほぼ全職員と、たまたまそこに居合わせた何人かの人たちが、校舎とその周辺の敷地と共にどこかへ消えてしまうという、とても現実とは思えない現象が起きたらしい。


 昨日の夜に、その事件についての説明会があり、暁は一人で参加してきた。


 父親――朝霧あさぎり彰吾しょうご――がいなくなった。


 彼の妻であり、暁の母親である静子しずこは、その報に接した途端とたん、その場に崩れ落ちてしまった。


 以来、ずっととこせったままなのだ。


 家の中のことは、暁の妹である朝霧くるみが頑張っている。


 ――暁も母親や妹のことが気にならないわけではない。


 職場には三日ほど休みが欲しいと伝え、気持ちよく了承してもらってから妹とこれからのことを話し合った。


 くるみも大きなショックを受けていたが、先に倒れた母親を見て自分が何とかしなきゃと思ったらしく、気丈きじょうに振舞っている。


 あれこれ話し合い、周りとも相談した結果、母親が一人になってしまう時間帯は静子の実姉じっしである伯母おばが来てくれることになった。


 くるみも当分の間、休部することに決めた。


 おかげで暁は、何とか仕事を続けられるような体制を作ることが出来たのだが――


(何だか、いまだに現実感がないんだよな……)


 昨日の説明会によれば、血痕けっこん等は見つかっていないし、爆発が起きたわけでもないらしい。


 仮に――嫌な想像ではあるが――遺体を突きつけられるようなことがあったら、否応いやおうなしに現実を思い知らされたことだろう。


 しかし実際は、他の二十人以上の人たちと一緒に、ただ消えてしまったというのだ。


 ……何も残すことなく。


 世界にはこれまでにも同じような、原因の分からない失踪事件がいくつもある。


 出掛けたまま行方ゆくえが分からないとか、乗組員が忽然こつぜんと消えた船とか、住民が丸ごといなくなった村みたいなケースまである。


 しかし、今回の事件はそれらとは決定的な違いがある。


 それは――人々の目の前で起きたということだ。


 しかもその瞬間の映像まである。


 一時いちじはフェイク動画の可能性も疑われたが、そもそも複数の人間がその場で目撃しているのだ。

 その疑いは、すぐに晴れることになった。


(今日にも「ただいま」とか言って、帰って来そうな気がする……)


 ――F市に入った。


 しばらく田んぼの中を走るようだった道は、もう少しで高架になる。


 製紙業の盛んなまちらしく、原料のパルプが十メートル以上の山となって工場のライトに照らされている。


 ――暁は父親と同じように実家があるこのF市から、隣のN市に通勤している。


 三十分きょうほどの車通勤の時間は、運転が苦にならない彼にとって何てことのないものだった。


 しかし今回のようなことが起こると、ちょっと考えてしまう。

 もっと近い職場に変えた方がいいのかな、と。

 父親の不在がどのくらいになるのか、見当がつかないからである。


(でもなあ……今の会社は結構気に入ってるし、転職ったってそう簡単に出来るもんでもないだろうし……)


 などと悩んでいるうちに、彼の家が前方に見えてきた。


    ☆


「ただいまー」


 ドアを開けた途端とたん、インコたちの鳴き声が飛び込んできた。

 ぱたぱたぱたと、スリッパの音も聞こえてくる。


「お帰りー、おにい」


 玄関スペースとリビングをへだてるドアが開き、妹のくるみが姿を現した。


 自然なロブスタイルの黒髪に、十七歳にしてはちょっと幼い顔立ち。

 県立富士翠緑すいりょく高校に通う二年生である。


「おつかれさ――あーっ、揚げ物くさい!」

「あ、やべ」

「もーっ、食べてくるなら教えてって、何度も言ってるじゃん!」

「いやいや、いつものおやつだからさ。あ、そうそう、これ、食うか?」


 と言って、食べずじまいだったシュークリームを目の前でぷらぷらと振る。


「食べる」


 にゅっと出されたてのひら餌付えづけの品をぽんと置く。


 暁は、靴を脱ぎながら妹に尋ねた。


「母さんの様子、どう?」

「うん……あんま変わんない、かな」

「そうか」

「起きてはいると思うから、見に行ったら?」

「そうする」

「ご飯、食べるでしょ?」

「うん、今日は何?」

「……唐揚げだけど?」

「うお、とりがダブってしまった!」

「だから言ったじゃん」

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