第二部 テリウス

第一章 残された者たち

第一章 第01話 黒瀬和馬

 ――時は、八乙女やおとめ涼介りょうすけの追放からおよそ九ヶ月ほどさかのぼる。


    ◇


 それは、小さな違和感だった。


 壁の時計ホロラルによれば、夕方ヴェセールと呼ぶにもまだ早い頃。


 部屋ルマすみでは、息子ファロスが寝転がってリブロを読んでいる。


 どうやら彼も何かを感じたようで、本を手にしたままきょろきょろと周囲を見回している。


 ――――――

 ――――

 ――


 ……それからしばらくして、何ともおかしな感覚はすっと消え去った。


 息子もいつの間にか読書に戻っている。


 ――しかし、彼女は思った。


 調べなくては、と。


    ◇


 現場は騒然そうぜんとしていた。


 ……何しろ、小学校校舎の西側がまるっとなくなっていたからである。


 当日出張から戻った事務職員の話を総合すると、消えていたのは職員室を中心にした、半径十五メートル程度の球状の範囲に存在した物体全て。


 東側は中央昇降しょうこう口辺りから、西は正門周辺まで。

 南側はグラウンドの一部、北側は駐車場のほとんどに至るまで。


 そして上は、一階と二階はもちろんのこと、三階に存在したはずの六年生の教室や家庭科室、多目的室まで綺麗さっぱり消え去ってしていたのだ。


 そして、更に不可解だったのは……職員室があったとおぼしき場所を中心にして――


 ――――一面いちめん草原そうげんが広がっていたことである。


 当時、学校周辺にいた人は相当数いたため、消失時の様子については容易よういに証言が取れている。


 いわく、校舎の西側――一階いっかいを中心に突如とつじょとしてまばゆい光がしょうじ、辺りに広がった。

 曰く、時間にして十秒ほど、その白い光は輝きをはなち続けた。

 曰く、突然光が収まり、今見えているような景色にさま変わりしていた、と。


 多くの目撃者たちは、眼前がんぜんで起きたことを理解できず、口をけたままその場に棒立ちだったと言う。


 我に返ったその中の一人が、あわてて110通報したということである。


 当然のことながら、目撃した人たちは現場に殺到さっとうした。


 一部の冷静な者たちは、危険だから近寄らない方いいと声を上げていたが、目の前で起きたあまりにも現実離れした現象という誘惑には、ほとんどの者が無力であった。


 学校の敷地しきちはフェンスや石塀いしべいで囲まれてはいたものの、謎の草原は西側を走る道路をも浸食していたのだ。


 中に入るのは、簡単だった。


 異変のあった場所に集まった人たちは、ある者は恐る恐る、ある者は大胆に校舎にまで近づいた。


 足下あしもとに広がる草を何度も踏んで、不思議そうに首をひねる少年。


 通常では決して見ることのない、廊下の向こうのはしまで見通せるようになった校舎の断面にスマホを向けるママたち。


 そこで撮影された静画や動画はすぐにSNSを通じて拡散され、またたく間に多くの者の目にまることになった。


    ◇


「ただいまー」


 ………………。


 ――こたえる声は、ない。


「ふん……知ってるさ、くそ……」


 背中でかちゃりとドアが閉まる音が聞こえる。

 男はくつを乱暴にぎ、そのまま中に入ろうとした。


(ちょっと和馬かずまくん! 靴はちゃんとそろえてって、いつも言ってるでしょ?)


「あ……」


 思わず彼はしゃがみ込み、お互い明後日あさっての方向を向いてしまった自分の靴を丁寧ていねいに並べた。


「くっ……」


 ぽたりと、靴の中敷きインソールに涙がこぼれて、あわみを作る。


 それは、足が疲れやすいとぼやく彼の為に、彼の妻がいつの間にかいてくれていたものだった。


 そのまま、男――黒瀬くろせ和馬かずま――は玄関に座り込み、五分ほど肩をふるわせ続けるのだった。


    ☆


「ふう……」


 あの後シャワーを浴び、好物の冷えたグレープフルーツジュースをコップ一杯、一気にのどに流し込んで、ようやく和馬の気分は落ち着いた。


 と言っても、彼はここ一週間ほど毎日似たような生活をしている。


 ここは和馬と、彼の妻である黒瀬真白ましろが住む、3LDKのアパートの一室。

 結婚と同時に、新居として借りた部屋である。


 和馬はDKダイニングキッチンに続くリビングのソファに腰を沈め、目の前のローテーブルにあったリモコンを手に取った。


 ピッ。


 しばらくすると、エアコンから涼しい風がすべり出してくる。


 朝から夜まで無人の部屋にまっていた、暑苦しくも重苦しい空気のかたまりが足元からかき回されるにつれて、温度だけは快適になっていく。


 彼は別のリモコンに手を伸ばし、正面の液晶テレビに向かってボタンを押した。


「それでは、次のトピックです」


 見慣れたニュースキャスターの生真面目きまじめな顔が画面に広がる。

 ぼんやりとそれを見遣みやる和馬。


「今、日本中、いえ、世界中の注目を集めている、不可思議な事件。今岡小学校消失事件についてです。本日午後六時、静岡県N市の〇〇〇〇〇〇において、事件の関係者のご家族たちに対する説明会が行われました」


「はっ」


 思わずかわいた笑いが口をく。


(何つータイミングだよ……。オレはそこから帰ってきたんだってのに)


 和馬は今日、職場である三原小学校を定時で上がり、今まさに言及げんきゅうされている説明会とやらに足を運んできたのだ。


 学校で何らかの事件や不祥事が起こると、たいていの場合はその学校で保護者会なんかが開かれるものだ。


 そこで事件のあらましや今後の対応、質疑応答とかがされるわけだが、今回の事件の場合はそもそも学校側のほぼ全員が行方不明。


 わずかに二人だけ、事件発生時に他校へ出張していた事務職員だけが残ったらしい。

 彼らだって、当然のことながら事件については何も知らない。


 聞けばその事務職員は、出張後に理由は分からないが直帰せず、学校に戻って呆然ぼうぜんとしていたとのことだ。


(そりゃそうだろうさ……)


 自分だって、今でも信じられないでいるのだから。


(建物がぴかーって光って、その部分がごっそりなくなってたとか、何だそりゃって感じだよな。馬鹿馬鹿しいにもほどがある)


 しかし実際、いつものように一緒に食卓を囲んだり、食後のDVD鑑賞を楽しんだりしているはずの真白はいない。


「説明会では、今回事件に巻き込まれたと思われる方々の実名が公表されました」

「公開捜査ということでしょうかね」

「事件性があり、緊急性も高いと判断されたものと思われます」


(事件、ね……)


 番組の中でも視聴者提供とされる動画が何度も何度も、しつこいぐらいに繰り返し再生されている。


 確かに、これを見ればどれだけ荒唐無稽こうとうむけいだと言われても「光ったら消えてた」と説明するしかないだろう。


 しかも。


 この番組で紹介されている動画はこの一種類だけのようだが、SNS上では違う人物が撮影したいくつもの動画や写真がアップされているのだ。


 もう、現実を認めるしかない。

 少なくとも、最愛の妻がいないと言う現実だけは。


(そんなことは……分かってるんだけどさ)


「小学校の一部が、何かにぱくりと食べられたように消失しているという、この不可思議な事件について、いろいろな考察がされているようです」


「よく分からないことの一つが、地面の様子なんですね。草が一面に生えているとのことですが……」


「それについては、こちらの動画をご覧ください」


 画面が切り替わり、くだんの小学校を空から撮影したとおぼしき動画が映った。


 視聴者提供とまたしてもテロップが出ているので、ドローンか何かから空撮したものだろうか。


 現場にはバリケードテープが張りめぐらされてはいるが、空から来られたらどうしようもない。


「こうして上空から見るとよく分かりますね。消えた校舎の部分の地面が、きれいな緑の円をえがいています」


「何だか、こんなことを言うと『お前バカか?』とお𠮟しかりを受けそうなんですが……」


 コメンテイターの一人の男性が、おずおずとした感じで口を開いた。


「校舎の一部とその地面の部分が、まるっとどこかと入れ替わったように見えませんか?」


「今お叱りを、とおっしゃいましたが、実際にそのように考えている方々が相当数いらっしゃるようなんですよ」


「その辺りのことについて、今日開かれた説明会で何か言及があったんですかね」


「事実には触れたようですが、説明などはなかったようです」


(説明なんて、しようがないだろうよ)


 和馬は、ほんの一時間前に終わった説明会の様子を思い出す――

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