第七章 第16話 陥穽

   星暦アスタリア12511年 始まりの月トゥセルナ 第一旬カウ・サーヴ 第八日目ビスガディーナ


   ――グレゴリオ暦20XX年 四月十一日 水曜日

   ――八乙女、療養九日目・帰校


   ―5―


    ◇


 俺は、目の前のドアをノックした。


 時刻は、もう少しで午後八時になろうというところ。


 ほんの数分前に瑠奈るなから渡されたメモにあった約束の時刻には、何とか間に合った。

 眼前がんぜんのドアは、保健室に通じている。


 今日は風呂の日なので、例によって女性陣の多くは湯殿ゆどのに向かっている。

 職員室の方から水の音や話し声が響いてくるから、仕事をしている人も多少いるようだ。


 ドアについているガラスの向こうは、どうやら真っ暗だ。

 校長先生はあかりをつけていないらしい。

 それもいつものことなので、俺は構わず静かにドアを開けた。


 この時刻に保健室に来て欲しいというメッセージを、俺は朝霧校長から受け取った。


 ザハドから帰って来て早々そうそうに呼び出すということは、多分相当に深刻な用件――恐らく校長先生をずっと悩ませていたこと――に関することだろう。


 俺がここで相談に乗ることで校長先生あのひとの体調が少しでも良くなるのなら、拒否すると言う選択肢はない。


 夕方に、帰還の報告をした時も結構つらそうだったしな。

 今思えば、その時に話がなかったのは、きっと内密にしたかったんだと思う。


 ランタンをかざす。

 光に合わせて、影がれる。


 俺は校長先生が休んでいるベッドのカーテンを静かに開けた。


 ――その途端とたんぎ慣れないにおいが鼻をついた。


 身体が強張こわばる。

 何の匂いだろうか。

 何だろう……鉄臭てつくさい気がする。


 目の前には、掛け布団を頭までかぶった校長先生が寝ているだけだ。

 ほかあやしげなものはない。

 他に何もないからこそ――


 心臓をぎゅっとつかまれたような、ついぞ感じたことのない悪寒おかんが全身を駆けめぐった。


 嫌な予感の中でも特大の嫌な予感が、拍動はくどうに合わせて俺の脳髄のうずいを繰り返し突き刺す。


 頭髪とうはつが掛け布団から少しだけはみ出て見える。


 微動びどうだにしないそれを見て、俺は思った。


 ――めくりたくない。


 ――この掛け布団を、絶対にめくりたくない、と。


「こ、校長、先生?」


 自分でも驚くほどかすれた声が出た。


 俺の呼びかけに、身動みじろぎする気配すらない。

 ふるえる手をゆっくりと掛け布団にかける。


「ひぅっ!」


 思わず左手のランタンを落としそうになる。


 そこには、苦悶くもんにひきゆが朝霧あさぎり校長の顔があった。


 右目が半分だけいている。


 そして、布団を更にいで現れたのは、胸の中央少し左側に突き立つ包丁ほうちょう

 そこからみ出て衣服を赤くめる――血液。


 目の前の現実離れした光景を見て、俺は妙に冷静になっていく自分を感じた。


 逃げ出したい気持ちもまだ残っていたけれど、それ以上に「なぜ?」という強い疑問が俺の足をい付けていた。


 まずは、右目をそっと閉じさせる。


 れた右手にかすかな熱が伝わる。


 まだ、温かい……つまりは、校長先生がこの災厄さいやくに見舞われてそれほど時間がっていないということか。


 そう――災厄だ。


 これは、殺人。


 朝霧校長は殺されたのだ・・・・・・・・・・・


 一体誰に?

 何のために?


 今は何も分からないけど、とにかくみんなに知らせ――


 ガララッ。


 突然、何の前触れもなく保健室の扉がいた。


 そこには、ランタンを手にした女性が一人、立っていた。

 彼女はそのまま中に入ってきた。


英美里えみりさん!」

「校長先生、食器を――」


 次の瞬間、英美里さんの口からこの世のものと思えない叫び声が上がった。


 キャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!


「え、英美里さん、落ち着いて!」


 取り乱すのも無理はない。


 無理もないけど、錯乱さくらんされても困る。


 俺は、しゃがみこんで奇声きせいはっしている彼女に駆け寄った。


「何だ一体!」

「どうした!」


 その時、恐らく英美里さんの声を聞いてだろう、男が二人駆け込んできた。


 声からして――かがみ先生と壬生みぶ先生か。


「どうしました、久我さん!」

「あ、あ、あ、こ、校長先生が……」

「こ、これは!」


 二人とも校長先生の姿に驚愕きょうがくしている。


 鏡先生が英美里さんに問い掛ける。


「一体、誰がこんなことを!」

「分からない……分からないけど、八乙女先生が……」


 二人の男が、俺を物凄い目でにらむ。


「ちょっと待ってくれ! 俺が来た時にはもう」

「あんたがやったのか!」


 壬生先生――いや、もう壬生でいいか――が鬼のような形相ぎょうそうで俺につかみかかってきた。


「違う! 俺じゃない!」


 またかよこいつと思いながらも、俺は必死にこの男の腕をはじく。


「八乙女さん、あんたがやったのかね」


 鏡先生までがとがめるような冷たい視線を俺に投げつけてくる。


「俺じゃないって言ってるでしょうが!」


 さらに、さわぎを聞きつけた他の人たちがどんどん集まってきた。


 お風呂から戻ってきた女性たち。

 二階でくつろいでいた人たち。


 彼らが中に入ってきては惑乱わくらん悲鳴ひめいを上げることで、現場は文字通り阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄と化した。


「おい、諏訪すわさん! ロープか何か、拘束こうそくできるものを持ってきてくれ!」


「え? は、はい!」


「貴様は大人しくしろ!」


「俺じゃないって何度も言わせるな!」


椎奈しいなさん! この男を大人しくさせるんだ!」


「え、で、でも……」


「いいから! 早くやれ!!」


「ごめん! 八乙女さん!」


 次の瞬間、ぷんといい香りがしたかと思うと、水月すいげつくいでも打ち込まれたかのような衝撃を受け、俺はその場にくずれ落ちた。


 諏訪さんが持ってきたであろう縄跳なわとびの縄でうししばられ、足もかた拘束こうそくされた俺は、脂汗あぶらあせまみれながら芋虫いもむしのようにころがるしかなかった。

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