第七章 第05話 黒瀬真白の懸念

   星暦アスタリア12511年 始まりの月トゥセルナ 第一旬カウ・サーヴ 第二日目ウスガディーナ


   ――グレゴリオ暦20XX年 四月五日 木曜日

   ――八乙女、療養三日目


   ―1―


    ◇


 久我くが瑠奈るなは、お盆を持っていた。


 注意深く持って、廊下ろうかを歩いていた。

 朝霧あさぎり校長の昼食である。


 最早もはや昼の定番ともなっている、煮込みうどんとお新香しんこだ。

 甘辛あまからく、ほろほろに柔らかくなった肉も乗っているうどんだ。

 瑠奈の大好物でもある。


 彼女は現在外交班に所属しているので、食事に関わる仕事は彼女の本来の領分りょうぶんではない。


 しかし、以前は食料物資班だったこと、星祭り開催期間中も毎日彼女が運んでいたこともあって、引き続き瑠奈がその係のようになっている。


 彼女一人の時もあれば、黒瀬たちによる簡単なバイタルチェックに付きって運ぶこともある。


 今日は休日であるため、学校のメンバーたちは自分の好きなタイミングで食事を取っている。


 しかし、朝霧の分だけは朝昼晩と、三食決まった時刻に提供されていた。

 それはもちろん、朝霧の体調をおもんばかってのことである。


 ここ数日は少し回復したようで、彼が校長室で簡単な仕事をしている姿が見られることもあった。

 それでも基本的に、朝霧の定位置は保健室のベッドである。


 食欲はあまりないようだが、それでも横になりながら昼食の到着を待っているであろう彼の元へ、瑠奈は食事を運んでいた。


 大人にとっては然程さほどでなくとも、身体つきの幼い瑠奈にとっては落としてはいけないという緊張感もあいまって、いつもの事ながらなかなかの重労働であった。


 そして、ようやく保健室の扉に到着しようという時に、室内から声が響いてきた。


 校長先生以外に、誰かいる、と瑠奈は思った。


 とは言え、別に初めてのことでも珍しいことでもない。


 いつものようにお盆を一旦いったん廊下に置いて、扉をノックをしようとした瞬間、おだやかとは言いがたい空気がれてくるのを瑠奈は感じ取って手を止めた。


「お願いですから話してくれませんかね」


「何をでしょうか」


「とぼけてらっしゃるのでしょうが、一応こちらにも確証かくしょうがありましてな」


「何のでしょうか」


「なかなかのたぬきっぷりじゃあないですか。そういう駆け引きがお得意なかたとは、ついぞ知りませんでしたよ」


「そうおっしゃられても、知らないものは何とも」


「私は知ってるんですよ、校長先生。あなたが以前ザハドの宿屋にまった時、ある人物と秘密裡ひみつりに会談を持ったということは」


「……」


「そこであなたが、何かしらの重要な情報を得たとも聞いていますな」


「では、鏡さんはどなたかからか、そのようなうわさを聞いたと?」


「私のことはよいのですよ、朝霧さん・・・・。それに……あいにく噂などという胡乱うろんなものじゃない。何しろ、私自身が見ていた・・・・・・・・んですからな」


「……あなた自身が?」


「まあそういうことです。これ以上しらばっくれる意味などないことが、ご理解いただけたでしょう」


「……」


「さあ、もうくだらん問答は時間の無駄です。話してください。そこであなたが聞いたことを」


「……仮に私が誰かと何か話したとして、その内容をあなたに伝えなければならない義務に心当たりがありませんね」


「強情なかただ。そちらがそう出られるのなら――」


「どうしたの? 瑠奈ちゃん」


 ――瑠奈ののどからひゅっという音がれた。


 彼女は室内の音声に集中するあまり、近づく足音に全く気付いていなかったのだ。

 恐る恐る横を向くと、瑠奈の目の前には黒瀬くろせ微笑ほほんで立っていた。


「もしかして、中に誰かいるの?」


 それこそ心臓が口から飛び出る程驚いた瑠奈だが、相手が黒瀬と知ると安心してこくこくとうなずいた。


 黒瀬はとびらに軽く耳を寄せると、

「ノックすれば大丈夫よ。ほら」

 と言って、中の様子に構わず扉を軽く叩き、そのまま開けた。


 そこにはベッドの上で身を起こしている朝霧あさぎりと、その横に立つ鏡の姿があった。

 二人の表情は、逆光ぎゃっこう気味でよく見えない。


「失礼します。校長先生、お昼ご飯ですよ。のびちゃうといけないのでお話し中でも入らせていただきました」


 ずかずかと入っていく黒瀬の後ろを、瑠奈はお盆を改めて持ち、黒瀬の陰に隠れながらあわててついて行く。


 こんなに無遠慮ぶえんりょで大丈夫なのだろうかと、瑠奈は不安でいっぱいだった。


「おお、もうそんな時間でしたか。これは気付かなくて失礼。では校長先生、お話はまた後程のちほどと言うことで」

「え、ええ。分かりました」


 鏡はそう言って、ゆったりと部屋を出て行った。

 保健室の空気が目に見えてやわらいでいくのを、瑠奈は感じた。


「お加減はどうですか? 校長先生」

「ええ、それほど悪くはないですよ」

「でも、いいと言うほどでもなさそうですね……」

「まあ……そうかも知れません」


 黒瀬は鏡のことには一切触れようとせずに、会話を続ける


「校長先生の体調不良の原因は、前も言ったと思いますが、病気や怪我じゃありませんよね。何か心をひどく悩ませることがあるように思えます。その心配のたねは、まだ無くなりませんか?」


「ご心配おかけして、本当にすみません。まあ黒瀬さんには隠せないと思いますので話してしまいますが、ご賢察けんさつ通り悩んでいることはありますね」


「それが食欲をそこまで減退げんたいさせてしまうほどのことなんですね……」


「ええ……まあ」


「私では解決のお力になれませんか?」


 黒瀬の申し出に、朝霧は軽く微笑ほほえむ。


「お心づかい、感謝します。しかし、これは私の心の問題ですので、自分で何とかすべきことなんです。そのために皆さんの手をいろいろとわずらわせてしまうのは、心底申し訳なく思っていますが……」


「そうですか……まあお世話の手間なんて大したことないんですから、気にしないでくださいね」


 明るくそう言うと、黒瀬は瑠奈に話しかけた。


「瑠奈ちゃん、お盆をいつものところに置いてあげてね。校長先生、瑠奈ちゃんがお盆を運んでくれたんですけど、入り口ではいりにくそうにしてたのでお節介せっかい焼いちゃいました」


「そうでしたか。瑠奈さんすみません。いつもありがとう」


 瑠奈はこく、と小さくうなずいて、枕元まくらもと近くの段ボールの上にお盆を置いた。


「それじゃあ私たちは失礼しますので、ごゆっくり召し上がってください。何かありましたら、遠慮なく呼んでくださいね」


「分かりました。ありがとうございます」


 保健室を出ると、黒瀬は瑠奈に「ちょっとこっちに来て」と手をにぎり、彼女を昇降しょうこう口の方へ連れて行った。

 軽く周囲を見回して、誰もいないことを確かめると黒瀬が口を開いた。


「瑠奈ちゃん、校長先生と鏡先生のお話、聞こえた?」


 黒瀬の真剣な表情に、瑠奈は躊躇ためらいがちに首をたてに振る。


「どんなお話していたか、分かった?」


 少し考えるようにしてから、わずかにうなずく瑠奈。

 黒瀬は瑠奈の頭を優しくでながら言った。


「もしかしたら、校長先生にご飯を届けるの、しばらくめておいた方がいいかも知れないの。どうする?」


 瑠奈はきっぱりと首を横に振る。


「それは……これからも運びたいってこと?」


 こくり、と力強いひとみで瑠奈は頷いた。


「そう……」


 どうしたものか――黒瀬はまだおのれうちだけにとどめている不安を思い出す。


 それは、班が再編さいへんされて少しだけ新しい体制で動くことになって以来、黒瀬が感じるようになったものだ。


 以前は割と頻繁ひんぱんに開かれていた情報委員会が、今ではほとんどなくなってしまっている。


 何か問題が起きているわけではないはず――それなのに、何故かつのる不安感。


「わかった。でももし、何か困ったこととか、どうしたらいいのか分からないことなんかがあったら、遠慮えんりょしないで教えてね」


 こくり。

 瑠奈はにっこりと笑うと、そのままどこかへけて行った。


 黒瀬の脳裏のうりに、今ザハドの代官屋敷で療養中だと言う男の顔がふと、思い浮かぶ。


 どういうわけだろう。

 彼女はその男に早く帰ってきて欲しいと、いつのにか願っていた。


(八乙女さん……)

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