第五章 第29話 学校訪問 二日目 その9

 校舎から西に少し離れた、いわゆる「湯殿ゆどの」のもう少し西。

 某時刻。


 少なくとも、子どもたちが楽しく語らっていた時間はとうに過ぎている。


 その者たちが顔を合わせるのは、これが最初ではない。

 ……男は以前、その人物に呼び出されていたのだ。


 今回はその逆であり、男の方からその人物をこの場に呼び出した。


 ――男はまず、静かな、しかし大いなる苦悩を秘めた声音こわねでその人物に話しかけた。


 呼び出された人物は、この状況を予期していたかのように冷静であり、男の言葉に黙って耳を傾けていた。


 ――いわく、あれ以来懊悩おうのうさいなまれる日々であると。

 ――曰く、どうしたらいいのか自分には答えを見出みいだせそうにないと。

 ――曰く、あなたに回答を求めるのは筋違すじちがいであることは承知の上で、正解に辿たどり着けるための手がかりを求めたいと。


 思いのたけをようやくき出すと、男は押し黙った。


 しばらくの沈黙のあと、呼び出された人物はゆっくりと口を開いた。


 ――自分があなたに伝えたことは全て事実である。

 ――そして、あなた方が求めていたもの・・・・・・・・・・・・でもあるはずだ。

 ――あなたをそれほど苦しめることは本意ではないし、責任を感じる部分もなくはない。


 ――しかし、そこから目をらしていては、恐らくあなた方の大きな目標を達成することはかなわないことも、また事実であろう。


 ――あなた自身理解しているように、あなたの求める答えを私は持たない。


 ――ただ、一つだけ助言できるとすれば、あなた一人ではきっと解決できる話ではないのだから、共に悩み、歩む同志が必要なのではないか。


 ――そのような人物に心当たりはないのか?


 呼び出された者からの真摯しんしな助言を咀嚼そしゃくするかのように、口唇こうしんゆがめたり、引き締めたりすることを何度か繰り返したのち、男は顔を上げた。


 男は感謝のげんを述べ、あなたの進言に従ってみようと言った。


 それに対して、呼び出された人物は助力は惜しまない、少なくともあなた方がここで生活を続けられるための措置そちは、必要とされるうちは途絶とだえることはないと答えた。


 そして、呼び出された人物は何かをもう一言ひとこと二言ふたこと話すと、静かに歩き去っていった。

 その姿を見送る男の脳裏のうりに、先ほどの言葉がよみがえる。


 ――同志。


「なぜ私は、八乙女やおとめさんの顔を思い浮かべたのだろうな……」


 自嘲じちょう気味にひとつぶやくと、男も校舎に向けてきびすを返した。


    ※※※


 その男は、湯殿ゆどのひそんでいた。


 彼らがその場所で秘密裡ひみつりに会うことを何らかの方法で知った男は、隠れていることをさとられないために、ずいぶん前からここで待っていた。


 男の仲間たちは、それぞれのプライバシーを尊重そんちょうしていたため、夜夜中よるよなかに彼がどこに行こうと詮索せんさくすることはなかったし、そもそも不在に気付いてすらいなかった。


 彼らが到着し、話を始める。


 ――男は一つの懸念けねんいだいていた。


 それは、あのザハドの夜からずっと、彼の心にとげのように突きさったまま、男の精神的安定をかき乱し続けているものだった。


 今、湯殿の壁の向こうで会話をする二人のうち一方いっぽうの、自分に対する姿勢が微妙に、そうとうたがってかからなければ気付かぬほどわずかに変化した、と感じられてからは特に。


 耳をそばだて、話を聞き取ることに集中する。


 ごく控えめに虫の声が響く中、途切とぎれ途切れにれ聞こえてくる内容は、あれだとかそのだとかの指示語が多く、まとまった形で把握はあくするのが難しい。


 ただ、一方いっぽうがもう一方に何かを切実せつじつに訴えていることは伝わってきた。


 そして、


 ――全て事実?

 ――同志に相談?

 ――八乙女?


 その言葉は、男の警戒レベルを更に一段階上げることになる。

 しばらくすると会話は終了し、彼らはそれぞれの寝床へと戻っていった。


 男の中で、ある疑念が極大きょくだいにまでふくらんだ。

 そして、それは男にある決意をもたらすことになった。


 ――確かめなければならぬ。

 ――どうしても。

 ――必要なら……排除はいじょも。


 男はそのも用心の為に十分じっぷんほどその場所にとどまったあと、湯殿を静かに出て行った。


 ――そして。


 そんな男の様子を興味深きょうみぶかげに見つめる、別の一対いっついまなこがあった。


 ――更に、その者を遠くから見つめる、もう一対の眼も。

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