第五章 第13話 一方、学校では……

「校長先生、お加減如何いかがですか? 入ってもいいですか?」


 カーテンの向こうで丸い光が動き、声が掛けられる。


 黒瀬くろせさん、だろう。


 ……何やら醤油しょうゆらしきにおいがほんのりとかおってくる。


「はい、どうぞ」


 私が答えると「失礼します」とカーテンがひかえめに開けられ、そこには黒瀬さんと花園はなぞのさんが立っていた。


 黒瀬さんはランタンを、花園さんはどんぶりの乗ったおぼんを手にしている。


「お夕飯ゆうはん、持ってきましたよー」


 花園さんがお盆をかかげてみせる。

 匂いの正体はこれだったか。


 ベッドをぐるりと囲むカーテンのせいで外の様子が全く分からないが、いつの間にかそんな時間帯になっていたようだ。


「夕ご飯の前に、ちょっとだけ検温けんおんさせてくださいね」

 黒瀬さんが体温計を取り出す。


 私はうなずいて、棒状のそれを受け取ると腋下えきかはさんだ。

「すみません、お手数お掛けします」


「いえいえ、それより具合はどうですか? 何か自覚症状はあります?」

「……特にないようですね。頭痛もしませんし、他にも特に異状は」

「そうですか。食欲はどうですか?」


 正直言うと、ない。


 胃腸の調子が悪いわけではないが、どうにも食べる気が起こらないのだ。

 しかし……それをそのまま伝えてしまえば、余計な心配をかけてしまうだろう。


「大丈夫ですよ。美味しそうな匂いですね」


「それじゃあこれ、ここに置いておきますねえ。おうどん、くたくたにてありますからお腹にも優しいですよ」


 そう言うと花園さんは、ベッドサイドテーブル代わりに設置された枕元まくらもとの段ボールの上にお盆を静かに置いた。


 どんぶりの横で、私専用のLEDランタンがうすぼんやりと光をはなっている。


「本当はあれがあるといいんですけどねえ、ほら、あの病院でよく見るあれ。ベッドの上でお食事とか出来るテーブルみたいなの」


「オーバーテーブルは、さすがに小学校の保健室には……」


 花園さんの言葉に微苦笑びくしょうする黒瀬さん。

 ピピ、と服の下から音がする。


「熱は……ありませんね、うん」

「そうですか。よかったです」


「でも校長先生、いきなり倒れるなんて普通じゃないですよ。ここのところあまりお元気がないようだって聞きましたけど」


 黒瀬さんの言う通り、風呂の件で打ち合わせている最中さいちゅうに、不覚ふかくにも意識を失ってしまったようなのだ。


 ――こちらの世界に来て以来、入浴施設のことは常に懸案けんあんとなっていた。


 備蓄物資の中には、水を使わない全身洗浄液やシャンプー、そして保健室に備蓄してあった固形石鹼せっけんなどがあったが、当然その数は有限であり、二十三人が使い続けるには心許こころもとない量しかなかった。


 よっぽど汗をかいた時以外は水で清拭せいしきし、一週間に一回か二回程度、前述ぜんじゅつの物資を使うにとどめた結果、今のところ最低限の衛生状況をたもてているのだ。


 関係物資も聞くところによると、節約のおかげでまだ四分の三近く残っているらしい。


 それでもやはり、日本人の血のせいなのか分からないが、湯船に沈めるお風呂を待ち望む気持ちは、潜在せんざい的に高まっていた。


 そして、ザハドの人々にあるものの製作を依頼し、それが届いたことによってとうとう実現の目処めどが立った。


 そんな中での、何回目かの風呂に関する打ち合わせだったのだ。


「そうですね。確かにちょっと、疲れ気味だったかも知れません」

「やっぱり……あんまり無理しちゃダメですよ」


 ……少し前にも、誰かに同じことを言われた気がする。


 そうか、あれは……八乙女さんだった。

 あの時から一ヶ月以上経つのに、状況は何も変わっていない、か……。


 食欲不振の原因は、自分でも分かっている。

 こうか不幸か、何かの病気や怪我けがのせいではない。


 ――ザハド。


 そう言えば、今っている第二陣が帰ってくるのは明日だったか。

 今頃は、きっと宿屋の食堂で盛り上がっているんだろう。


 今回の訪問の眼目がんもく魔法ギームとやらの使い方についてのことらしい。


 ただ……盛り上がっている魔法班の面々めんめんには悪いが、正直なところあまりいい予感がしていないのだ。


 前回訪問して、サブリナの宿屋でみんなで魔法を試したさい、誰一人として成功しなかったことに私はひそかな安堵あんどおぼえていた。


 興味がない、と言えば嘘になる。

 むしろ、非常に興味深い現象だと思っている。


 しかしそれ以上に、未知の、しかも我々の常識を根底からくつがえすような概念の侵入に、言いようのない恐怖を感じてしまったのだ。


 私を、今この瞬間も煩悶はんもんさせ続けている事柄ことがらと同じくらい、厄介やっかいな問題のたねになりそうな気がしてどうにも止められない。


「校長先生……?」

「……あ、はい」


 黒瀬さんが怪訝けげんそうな顔で私を見ている。

 いかんな、考え込んでしまった。


「それじゃあ私たちは失礼します。今夜は一応、このベッドで休んでくださいね」


「おうどんも煮込んだからのびちゃってるようなものだけど、めないうちに召し上がってくださいねえ」


「分かりました。いろいろありがとうございます。ほかかたたちにも、ご心配をおかけして申し訳ないと伝えてください」


 私の言葉に黒瀬さんは、


「はい。でも気にしないでくださいね。お互い様なんですから」


 にっこり笑って答えると、二人で保健室を退出していった。


 ――しん、と静寂せいじゃくが室内を満たす。


 少しして、廊下を歩く音が聞こえてきた。

 保健室のドアの外で止まる。


 ……黒瀬さんだろうか。


 保健室で何か忘れ物でもしたとか?


 ――しかし、足音のぬし一向いっこうに部屋へ入ってこようとしない。


「……?」


 たっぷり十秒はった頃だろうか、れて誰何すいかしようとした瞬間、その人物は再び歩き始めた。


 足音が少しずつ遠ざかっていき、階段をのぼるリズムに変わる。

 そして上り切ったとおぼしき頃、再び無音が場を支配した。


 ……まだ就寝しゅうしんするには早すぎる時間帯だ。


 あちこち移動する人がいたとて、何もおかしいことはない。


 そう結論付けると、私は少し明るくしようとLEDランタンに手を伸ばそうとして、お盆の存在に気が付いた。


「せっかく作っていただいたうどん、食べないわけにはいきませんね」


 私はどんぶりとはしを手に取った。


 ――そして、再び終わりなき懊悩おうのうとりこになってしまう前に、まだかろうじて湯気ゆげの立つめんをゆっくりとすすり始めるのだった。

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