第13話 過去の思い出
浴衣を着て、私は家を出た。蝉が激しく鳴いていて、太陽は容赦なく熱い日差しを照り付けていた。アスファルトの地面からもわもわとした熱気が立ち昇っていた。青く燃える夏空が広がっていて、花火大会は予定通り開催されるだろうと思い、私は安心した。今日という日を、ずっと待っていたのだから。私は駅へと向かう中で、すれ違う人が私を見て、「今日は花火大会か……」とつぶやくのを聞き、なんだか恥ずかしくなった。花火大会の会場以外では、浴衣という恰好はとても目立つ。私は足早に駅へと歩いた。下駄がアスファルトとぶつかり、かたかたと甲高い音を鳴らした。
線路沿いの道を歩く中、電車が私の左を通り過ぎて行った。電車の音が遠ざかり、燃える夏空に溶けてゆく。静寂が訪れ、その静かな世界に、蝉の鳴き声が響き渡る。私は、たまらなく寂しくなり、悲しくなった。あの電車の音が消えてゆくのを聞いただけなのに、私はどうしてこんなにも悲しいのだろう。私は電車が走っていった方向を眺めていた。恋焦がれるような苦しさが、私の心臓を襲った。
振り返り、歩き出そうとすると、目の前に、蝉の死骸が落ちていた。蝉の死骸の静けさが、電車が通り過ぎた後の静けさと重なり、私は命の儚さを全身に浴びた。鮮やかな銀色の腹を上に向け、ぎらつく太陽の光を浴び、きらきらと光り輝いている。蝉の死骸はまだ生きているかのように美しかった。私は蝉の死骸をよけて駅へと歩いて行った。歩いている中で、さっき見た美しい蝉の死骸が、頭から離れなかった。脳細胞に焼き付いたかのように、私の頭に蝉の死骸がこびりついていた。
電車に揺られながら、私は桜のことを考えていた。桜のことを考えるとき、私はかすかな罪悪感を抱いていた。私が桜に持っている恋心は、悲しいほど真っすぐで、純粋な桜にとって、穢れのように感じられたのだ。私は後ろめたかった。きっと向こうはどこまでも友達だと思っているだろうに、私は桜に恋をしてしまった。初恋だった。でも、これは仕方のないことなのだ。恋の力には、誰も抗うことができない。恋に対して、人は、屈するしかない。恋とは、そういうものだ。
電車の窓に映る浴衣姿の私を見て、浴衣姿の桜を想像した。早く桜に会いたかった。電車に揺られることしか出来ないのがもどかしかった。全力で走り、桜のもとに向かいたかった。胸の中でうずうずとする会いたいという気持ちは、今にも溢れてしまいそうだった。
新宿駅には人があふれていた。いくつもの路線への入り口があり、頭がくらくらとしてしまった。私はどこに進めばいいのか分からず、途方に暮れてしまった。上にある案内を何度も確認しながら、私は駅を歩いた。乗り換えの路線の位置を確認し、集合時間よりも早く着きすぎてしまった私は、一旦改札を出た。
そこにはまさに、都会の風景が広がっていた。大勢の人々、背の高いビル、ガラス張りの建造物。違う世界に足を踏み入れたような気がして、私はなんだかうきうきした。美術館に行ったときよりも、あまりにも都会すぎる風景に、私は圧倒された。太陽の日差しと人々の熱気で、新宿は驚くほど暑かった。私の体から汗がにじみ出ているのを感じた。私は扇子を広げてばたばたと扇いでいた。扇子の風は涼しいものの、それだけで新宿の息苦しい蒸し暑さはしのぐことはできなかった。私は都会の狭い青空を見上げた。青空は、都会でも、美しかった。見慣れない光景の中で、変わらない青空の美しさは、私を安心させた。
しばらくして、私は集合場所である駅のホームに行き、桜のことを待っていた。駅のホームには強いオレンジの日差しが差し込んでいた。日差しが私を焼くようで、立っているだけで汗があふれた。桜を待っている時間が、永遠のように感じられた。ずっと気持ちが落ち着かなくて、そわそわと胸騒ぎがして、気が気でなかった。早く、早く桜の顔が見たかった。
そして、少し遠くにいた桜と目が合った。嬉しさが私の胸を満たした。私は手を振った。すると、浴衣を着た桜は、私をめがけて走ってきた。短い黒髪がサラサラと揺れ、赤い花の髪飾りが揺れていた。普段の凛とした雰囲気とは違い、浴衣を着て走る桜の姿はかわいかった。
桜が私のそばに来た。浴衣の桜は本当に美しかった。浴衣を着ると女性は綺麗に見えるというが、あれは本当だった。本当に、綺麗だった。蒸し暑い世界の中で、桜のいるところだけが涼しげに感じた。桜の浴衣は、白、紺の模様の中で、赤い花が咲いていた。赤い花は、桜のようだと思った。真っ直ぐで、美しい。浴衣の色に合わせるように、爪には赤いネイルが塗られ、赤い小さな鞄を手首に下げていた。そして、白い足袋で包まれた足は、黒い下駄をはいていた。赤い髪飾りから黒い下駄までを見て、なんて美しいのだろうと思った。今まで見てきた桜よりも、この日の桜はひときわ美しく、私は見惚れずにはいられなかった。
「ごめん千雪、待ったかな?」
「うんうん。全然だよ」
「そっか、よかった……」
桜の綺麗な声が、私の鼓膜に透き通る。本当に、会えたんだ。やっと、会えたんだ。桜の声を聞くと、そうした実感が湧いてきて、私は幸福だった。
「桜、浴衣、綺麗だね。似合ってる」
私は、そっと消えてしまいそうな声で、そう言ったとき、桜の顔を見れなかった。桜の膝元をちらちらと見ながら、私はそう言った。きっと、顔は真っ赤だろう。耳まで熱くなっているのを感じた。
「ほんと? ありがとう……千雪。千雪も、浴衣、素敵だよ」
「あ、ありがとう。桜が褒めてくれると、すっごくうれしいよ」
「そっか……ならよかった」
そう言って、桜は素敵な笑顔を浮かべた。この、綺麗で、周りの空気を浄化してしまうような笑顔を見るのも、とても久しぶりなように感じた。ほんとうに、笑っているときの桜は、なによりも美しかった。
花火大会の会場に向かう電車の中には、私たちと同じように浴衣を着た人々や、甚平を着た人々がたくさんいた。そして、おそらく恋人同士と思われる男女の姿もたくさんあった。私はそれを見て、改めて桜のことを意識しないではいられなかった。そのとき、つり革をもって桜と肩を並べ、私は体の側面で桜の体温を感じていた。ずっと、こんな風に、電車にゆられていられるのなら、どんなに幸せなのだろう。この電車が、どこまでも続く銀河鉄道だったらいいのに。
「千雪の浴衣さ、水色の花が、なんか千雪みたいだと思ったよ。千雪みたいな浴衣で、ほんとうに千雪にぴったりだと思う」
「私もね、桜の浴衣の赤い花が、桜みたいだと思ったの。その浴衣を着ている桜は、その、すごく、綺麗だよ……」
ふふ、と桜は綺麗な微笑み浮かべて
「同じこと、考えてたんだね」
と言った。
「うん。なんか、嬉しい」
思わず、私の口元も緩んだ。
電車の中で、桜は飼っている猫の写真を見せてくれた。桜が飼っていたのは美しい黒猫だった。凛とした佇まいが桜にそっくりだと思った。私も猫が好きだから、猫をかわいく眺める反面、猫に対する嫉妬もかすかにあった。猫は桜とずっと一緒にいられて羨ましいな、と思ってしまった。
そして、桜が幼いころの写真も見せてくれた。優しそうな父親に肩車をしてもらっている写真だった。肌は真っ白で、瞳はつぶらで、頬がふっくらとしていて、人形のようだった。このころから、桜は美しかった。
懐かしい思い出を辿る中で、私はなんだか寂しい気持ちになった。今日の思い出も、いずれは過去の思い出になるのだろうか。そう思うと、私は切なくなった。いつか、この日を思い出すときに、桜が隣にいてくれればいいのにと、私は思った。
<第三章完>
花びらをつかみたくて 文学少女 @asao22
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