第12話 夏の大三角形
花火大会前日の夜がやってきた。私は『明日楽しみだね』という桜からのメッセージを、ずっと眺めていた。ようやく明日、桜に会うことができると思うと、胸の高鳴りが止まらなかった。やっと、会えるんだ。桜に、会えるんだ。会えなかったのは、たった、一週間。その一週間が、桜に会えなかったというだけで、私には、永遠のような長さに思えた。
私は、おととい買った浴衣を自分の体に当てて、鏡を見る。真っ白の生地に、淡い水色の花が美しく咲いている。この浴衣を着て花火大会に出かけること、そして、桜の浴衣姿を見ることが、楽しみで仕方なかった。大きく脈打つ心臓が、飛び出してしまいそうだ。私の弾む気持ちは、私をじっとさせてくれなかった。私は階段を駆け下りて
「散歩してくる!」
とだけ言い残し、家を飛び出した。優しい夜の空気が私を包んだ。私をそっと撫でてくれるような、そんな夜の空気。昼間の暑さの残滓が、温もりとして夜に姿を現していた。街灯の光は、暗い夜の中で、寂しく光を道に投げかけていた。街灯に止まっていた蝉だけが、静かな夜の世界に、ジー、と懸命に鳴き声を響かせていた。
私は閑静な住宅街を歩いていた。私の止むことのない胸の高鳴りが、どんどん私を歩かせた。明日、桜に会えるんだという事実を、何度も味わいながら、私は歩いた。空を見上げると、満月が浮かんでいた。美しい満月だった。しんと冴え、眩しい月光を降り注いでいた。黒い電線が、満月を切っていた。燃えるようにきらめく星々が、清らかに流れる、透明な川のように澄み渡った、藍色の夜空一面に散らばっていた。ある星はオレンジに燃え、ある星は青に燃え、ある星は赤に燃えていた。そんな煌めく星々の中、夏の大三角形は、他の星々よりも強く、ぎらぎらと輝いていた。私は、夏の大三角形を、ずっと眺めていた。
ベガは、二十五年前の光。アルタイルは十七年前。デネブは千四百年前。一度に色んな過去の姿を見ているというのは、なんだか不思議で、素敵なことだと私は思う。夏の大三角形を眺めていると、あまりにも大きい宇宙というものに圧倒されそうになる。地球からすれば、私は点で。太陽系からすれば、地球は点で。銀河系からすれば、太陽系は点で。宇宙からすれば、銀河系は点で。そう考えると、私という存在が、とても、とても小さなものに思えた。私は、なんて小さな存在なのだろう。とっても、ちっぽけだ。
すると、どうだろう。私の心の引っ掛かりである、桜が同性ということが、なんでもないことに思えてきた。何で私は、そんなことを、ずっと気にしていたんだろうと思った。私の桜に向ける感情。特別な愛。これを、恋と言わず、何というのだ。性別なんてものは、関係なかった。それは、とても大きな壁のようでありながら、とても小さくて、なんてことないものだった。
私にとって、桜は一人の素敵な人間で、そこに性別は関係ない。私はただ、春川桜という人間が好きになっただけなのだ。それ以上でも、以下でもない。好きなった人が、女の人であっただけなのだ。この感情は、自分のものだ。私が桜に向けるこの感情を、私は、「恋」と呼ぶ。私は、恋をしたのだ。桜に、恋をしたのだ。やっと、わかった。やっと、認められた。やっと、気づけた。私は桜が好きだ。他の誰よりも、何よりも、好きだ。私は、あの眩しい大きな満月に向かって、「好き」と叫びたくなった。私は、恋をした。恋を、したのだ。私の心に引っかかっていたものがするりと抜け落ち、私は清々しい気持ちになった。私の胸の中で、満開の桜の花が咲いた気分だった。私は、暗く狭い住宅街の道を走った。
私は家に帰り、ベッドに潜り込んだ。恋をしたという実感が、じわじわと、私の胸に込みあがる。恋をした、ということに気が付いてから、桜の顔を思い浮かべると、私の顔は燃えるように熱くなった。きっと、真っ赤になっているだろう。ずっといなかった、ラブソングの「君」。桜、桜、桜。と、心の中で桜の名前を呼び続ける。
私の気持ちは分かった。けれど、桜の気持ちはわからない。それが、新たな悩みの種だった。これまで、私の気持ちについて考えを巡らせてきたけれど、桜の気持ちは、わからない。きっと、友達だと思ってるんじゃないかと考えてしまう。そう思うと、私は切なくなってしまった。ねぇ、桜。桜は、私のこと、どう思っているの? それは知りたいし、知りたくないことだった。私のこの気持ちは、どうすればいいんだろう。桜は私のことを、どう思っているんだろう。
やはり、冷静になって考えてみれば、同性に恋をするなんて、普通じゃない。桜が私と同じような気持ちであることは、考えにくいことだった。私はこれから、どうやって桜に接していけばよいのだろうか。
カーテンを開けて夜空を見る。夏の大三角形は、相変わらず澄んだ夜空で煌めいている。こんなにうじうじと悩み続ける私と違って、星は、ただ悠然と、夜空で美しく輝いている。私はカーテンを閉めて、布団に潜り込み、目を瞑った。明日、どんな顔をして、桜に会えばいいのだろう。
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