第11話 苦痛の夏休み

 夏休みが始まってからの日々は、苦痛だった。

 十時ごろ、目が覚める。カーテンから白い陽の光がほのかに漏れ出ていて、灰色の薄暗い部屋の中で神々しく光っている。段々と意識がはっきりしてくるにつれ、蝉の声が聞こえてくる。蝉の声は止むことなく、私の耳を通って頭に入り込んでくる。私はかなり汗をかいていて、喉が渇いていた。しかし、起き上がる気力のない私は、そのままベッドに寝っ転がっていた。薄暗い灰色の壁を見つめる。蝉の声が、ずっと聞こえる。空っぽの私の体で、蝉の声は鳴り響いているように感じた。

 私は、無心で、枕元に置いてあった太宰治の「斜陽」を読み始めた。空っぽな気持ちのとき、太宰の文章を読むのは心地が良かった。文章のリズムに身を任せて、されるがまま、海の波に流されるように、私は太宰の文章に流される。ゆら、ゆら。ゆらり、ゆらり。私の心は宙をさまよう。つかみどころのない不安を忘れることができる。こうして物語に逃げていれば、私は辛い現実から離れることができた。だから私は、読書が好きだった。本は私を慰めてくれる。本は私を包んでくれる。私はそうして、「斜陽」を読み続けていた。

 そのとき、ある一文が、私の目に留まった。


『人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。』


 恋。人を好きなること。人を愛すること。その人とずっと一緒にいたいと思うこと。桜、という字が、私の頭に浮かび上がってくる。恋。人々はみな、いとも簡単に、恋、という。いとも簡単に、恋をする。物語の登場人物たちは、当たり前のように恋をする。「ニュー・シネマ・パラダイス」の最後、キスシーンがただ流され続けるあの瞬間、私はきっと、いつか恋に落ちただれかと、こんな風にキスをするのだと思った。でも、私には、恋はとても不可解なもので、その輪郭が捉えられなかった。いや、どうだろう。私はとっくに、恋をしているのだろうか。私の桜に抱く感情は、なんて名前が付くのだろう。この感情は、なんと呼べばいいのだろう。これがもし、異性に向けた感情なら、恋、というのであれば、この感情は、一体なんなのだろう。桜は、悲しいほどまっすぐで、優しくて、綺麗で。私は、そんな桜を、好きにならないはずがなかった。家族を大切に思い、好きという気持ち。友人を大切に思い、好きという気持ち。異性を大切に思い、好きという気持ち。それは、一体何が違うのだろう。

 好き、という言葉には、あまりにもたくさんの種類があって、私は、その言葉一つでは、人の感情を表すには足りないんじゃないかと思うのだった。好きって、なに。恋って、なに。それはとても単純なようで、複雑なようで、結局のところ、よくわからない。友人が好きなことと、異性が好きなことの境目って、あるのだろうか。ただ異性だから、恋っていうの? でも、私は、天川君のことが、好きだと思う。いい人だと思う。けれど、それは恋ではないと、私にはわかる。「Like」と「love」の違い、と考えると、私の桜に対する気持ちは「love」だ。日本語にすれば、「愛」。私は、桜を愛している。ずっと、一緒にいたいと思う。これは、恋とは違うのだろうか。もうこれは、恋なのだろうか。恋と言って、いいのだろうか。恋をしたことがなかった私には、この気持ちを恋と言い切る勇気がなかった。桜は、同性だ。ただそれだけが、私の心に引っかかる。


 私は、考えるのを一旦やめ、本を閉じ、ベッドから起き上がった。体はまだなんだか重く、半分寝ているようだった。私は重たい体を動かし、下の階に降りた。父も母も仕事でもういなかった。私は適当にご飯を食べ、私の部屋に戻った。

 学校も、部活もなく、桜に会うことのできない日々は、空っぽで、虚しくて、寂しかった。毎日のように桜に会っていた日々は、とても幸せなことなんだと、私はようやく気が付くことができた。失って初めて大切なものに気がつくとはよく言うが、本当にそうだなと私は実感した。失ったときには、もう遅いのに。

 大人になった今、思えば、私はもっと、そのことを重く受け取るべきだったのだ。時間の流れは不可逆で、失ったものは、もう、手に入らない。それはごく当たり前の事実で、残酷な事実だった。

 私はカーテンを開けて、窓から外の景色を眺めていた。景色は力強い日光に照らされて、白く輝いていた。深緑の木々が陽の光を浴び、ぎらぎらと、緑の炎を燃やしていた。その木々の上、目がくらむような、青々と燃える夏空が広がっていた。その青々とした夏空を眺めていると、あの青空が近いのか、遠いのか、わからなくなってきた。その青空には、大きな入道雲が浮かんでいた。日光を浴び、白く光り輝く、大きく膨らんだ入道雲は、白く燃える炎のようだった。太陽が燃え、緑が燃え、青空が燃え、雲が燃えている。蝉の声は絶えず聞こえてくる。いくつもの蝉の声が重なる。蝉の合唱が、夏の世界に響き渡る。

 そんな景色を眺める中、私の胸の中で、一刻も早く桜に会いたいという焦燥感が燃えていた。早く、早く会いたい。桜に会いたい。桜の声が聴きたい。桜の顔を見たい。桜の肌に触れたい。桜の匂いを嗅ぎたい。花火大会までの時間が、途方もなく長い時間のように思えた。私は今にも家を飛び出して。桜のところに走っていきたかった。私と桜の間にある時間と空間の隔たりが、もどかしくて、気が狂いそうだった。

 やけに近い蝉の声が聞こえた。その蝉の声の音の振動が私に伝わってくる。近くの電柱に止まって鳴いているのだと思った。


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