第三章 夏の大三角形
第10話 蝉の声
終業式を終えた後のHRのさなか、頬杖をして、窓の外を眺めていた。爽やかな青空が遥か彼方へと広がっていて、壮大な入道雲がどっしりと横たわっていた。校庭を囲む緑の木々は、鮮やかに照らされていた。いくつもの蝉の声が重なり合って、絡まって、騒々しく鳴り響いていた。蝉の声は、きりきりと頭の中に入ってきて、不快だった。冷房は効いていたが、じめじめとした湿気が体にまとわりついているようで、煩わしかった。
夏は、嫌いだ。密閉されているかのような蒸し暑さも、盛んな虫も、刺さるように冷たくて汚いプールも、みんな嫌いだ。夏なんて、なければいいのに。私は、そんな夏の中で、桜のことを考えていた。私は異常なのかもしれないという考えが、不快な蝉の声の中で、私をますます憂鬱にして、無気力にさせた。なんで、同性の桜なんだろう。一時の気の迷いなのだろうか。そんなことを考えながら、私は、自分で自分を否定し続けていた。HRで話していた平田先生の声は、私の耳には届いていなかった。
※※※
学校が終わり、私は桜と並んで河川敷を歩いていた。燃えるような日差しが降り注ぎ、景色は白く光っていた。川の桜並木は、太陽の強い光に照らされて深緑の葉をぎらぎらと輝かせ、砂利道に涼しい影を作っていた。桜の木々から、ざらついた蝉の鳴き声が響いていた。
「明日から夏休みだね」
と、桜が言った。
「もう夏休みかぁ。一学期、本当にあっという間だったなぁ」
「ね」
桜は微笑んだ。色白のきれいな頬の上を、汗のしずくが滑った。私も、汗が溢れるように流れた。汗で制服のシャツは濡れ、肌にベトベトと張り付いた。蝉も汗も、鬱陶しかった。
「あのさ、一緒にコンビニに行ってアイス買わない?」
と、桜が言った。
「お、いいね。行こう行こう」
「うん。じゃあ、決まりね」
河川敷の道を抜け、駅前のコンビニを目指して、アスファルトの坂を上ってゆく。日光に熱されたアスファルトは、むんむんとした熱気を放ち、坂の上のほうを眺めると陽炎がゆらゆらと揺れていた。力を振り絞りながら、一歩一歩坂を上って行った。この間も、蝉は騒々しく鳴き続け、燃えるような日差しは容赦なく地上に振り注ぐ。自然は、私たちのことなんか気にせずに、活動し続ける。
駅前の広場にあるベンチに腰掛けながら、私たちはアイスを食べていた。桜は、バニラ味のアイスクリームを食べていた。真っ白のバニラアイスを、桜の赤い舌がゆっくりと舐める。私はその光景に見惚れ、呆然と眺めていた。
視線に気づいた桜は、
「早く食べなきゃ、溶けちゃうよ」
と言って微笑んだ。私は我に返り、あわててアイスを食べ始めた。燃えるような夏の青空の下、桜の白い横顔は美しかった。なんで、あなたはそんなにきれいなの? なんで、あなたはそんなに私の心を惹きつけるの? やり場のない気持ちが悶々と私の胸の中をさまよう。
「夏休みになると、学校も部活もなくなっちゃうね」
「そう、だね」
「少し、寂しいね」
「うん。寂しい、ね」
溶けたアイスが、私の指を伝って手首まで流れてくる。私は、桜に会えない日々を思うと、たまらなく寂しくなった。夏休みは、私たちを隔てる大きな壁のように思えた。私はアイスを食べ終え、アイスの棒を咥えながら、駅前の人々を眺めていた。人々は、さんさんと照り付ける夏の日差しに焼かれ、生気が失われているように思えた。そんな人々とは対照に、蝉は鳴き声を響かせ続ける。私は、憂鬱になってしまった。
「帰ろっか」
と桜は立ち上がった。こちらを見る桜の黒い瞳は涼しかった。
「そうだね」
私も立ち上がり、桜と顔が近くなった。私はごまかすようにアイスの棒をコンビニのゴミ箱に捨てに行った。桜も後からついてきてアイスのゴミを捨てた。駅に向かって歩く中、私は立ち止まりたかった。あと少しでも、桜と一緒にいたかった。夏休みなんて、嫌だ。でも、私は歩くことしか出来なかった。立ち止まって、桜になんていえばいいのか、私にはわからなかった。改札を抜け、昇りと下りのホームに分かれる、その時。
「ねぇ、千雪。来週の花火大会、一緒に行かない?」
駅の人々の足音、話し声。改札の音。蝉の鳴き声。この世界にある音が、一気に姿を消した。時間がとてつもなくゆっくり流れた。すべての意識は桜に注がれていた。やがて時間が進みだし、世界に音が戻ってきた。私の返事は、決まり切っていた。
「うん、行こう」
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