第9話 恋の定義

 桜が二人分の注文をしに行き、私は席に座って待っていた。握った桜の手の感触が、ほのかに私の手に残っていた。私は、自分の手のひらを見つめていた。手を握ったときに溢れ出た、幸せな感情を思い出していた。この感情の根源を、掴みたかった。

 あの美術館に行った雨の日からずっと掴めない、私の心の奥底に潜む何か。掴もうとしても、空を切って、何も掴めない。あともう少しで、届きそうなのに。恋なのかという考えは、同性であるという事実にはばまれる。私のこの思いは、いわゆる人を大切に思う気持ちの高ぶりなのだろうか。

 まだ恋をしたことがなかった私には、分からなかった。どこまでが恋で、どこからが恋なのか、私は手のひらを見つめて、考えていた。

「注文してきたよー」

 と言って、桜が戻ってきた。私は、握っていた手を見ていたことが後ろめたくて、咄嗟とっさに手を後ろに隠した。なにか、見られたくないものを持っているわけじゃないのに。

「ありがとう桜。何円だった?」

「一人七百円だったよ」

 私は財布を開いた。しかし、小銭はあまりなくて七百円はちょうど出せなかった。

「あー、千円でいい?桜、三百円あるかな」

「ちょっと待ってね」

 と言って、桜は財布を開き、小銭を確認した。

「三百円あるから千円で大丈夫だよ」

「ありがと〜、助かる」

 と言って、私は千円を渡した。桜はそれを受け取って、私に三百円を渡した。手を繋いだせいで、こんなときでも、私は妙に桜の手を意識してしまっていた。

 昼ご飯を食べ終え、食器をお店に返して、時刻は一時になっていた。私たちが見る映画は二時からの上映だった。

「とりあえず、映画館に行ってチケット買おうか」

 と言って、桜はバックを持って立ち上がった。

「そうだね」

 と、バック肩にかけて、私も立ち上がった。桜は自然に、私に手を差し伸べた。私は、その手そっと握った。そして、桜はこちらに振り向き

「映画館って、三階だよね?」

 と聞いた。

「そうだよ」

 と私は答えた。どこかぎこちない、変な声が出た。

 手を繋いで、桜がこちらを見てくると、私は体が強ばるほど緊張した。桜は微笑んで、映画館へと歩き始めた。桜は、私と手を繋いで、どんな気持ちを抱いているのだろうと、考えていた。

 真っ黒な床の映画館は、周りとは違う雰囲気をかもし出していた。券売機にあまり人は並んでおらず、お互い千円を券売機に入れ、すんなりとチケットは買えた。

 ポップコーンや飲み物は買わなかった。月3000円のお小遣いを、無闇に使いたくなかったからだ。

「桜はポップコーンとか飲み物買わなくていいの?」

「うーん、いいかな。飲み物は終わってから飲めば大丈夫。映画館の高いし」

「だよね。私、トイレ行ってくる」

「あ、私も一応行く」

 私は桜と一緒にトイレに行った。

 トイレから戻ると、まだ桜はいなかった。色んなパンフレットが積まれた棚の上に、大きなモニターがあって、そこに流れていた映画の予告を見ていた。恋愛映画のようだった。男子と女子の恋愛ストーリーだった。

「同性ではないのか」と、ふと思った。当たり前と言えば、当たり前だった。本当に当たり前?と自分に聞いてみると、当たり前がよく分からなくなった。桜がトイレから戻ってきたら、ちょうどその恋愛映画の予告は終わった。

 色んなパンフレットを二人で見ては、これ面白そうだとか、今度はこれ見ようだとか、そんなことを話していた。そして、ロビーの椅子に座ってたわいもない会話をしていた。

 桜と話していると、時間はあっという間に過ぎていって、一時四十五分、私達が見る映画の開場のアナウンスが流れた。

「あ、開場したみたい。行こっか」

 と私は立ち上がった。

「よし、行こう」

 と言って、桜も立ち上がった。私達以外にも、開場を待っていた人がぞろぞろと列を作った。私達はその後ろに並んだ。

 楽しみだね、なんて言いながら私達は入場して、3番スクリーンに行き、椅子に座った。後ろ側の、右端二席だった。桜が端に座り、私はその左に座った。

 二時に近づくにつれ、どんどん人が入ってきた。座席はほとんど、埋まっていた。しばらくすると、照明の光がわずかになり、薄暗くなって、様々な映画の予告や注意喚起の映像が流れた。

 そして、そのわずかな光も消え、景色は真っ暗になってから、「天気の子」が、始まった。


 家出した少年と少女が出会い、恋に落ちる。雨が降り続ける東京で、少女は祈れば天気を晴れにすることができる晴れ女だった。しかし、その能力を使い続けた代償として、少女は空へと消えていく。

 雨が続いた東京は、晴れた。少年は、その少女追って彼女が能力を得た場所である鳥居をくぐり、空の世界へと飛び立つ。少女を引き戻せば、また東京に雨は降り続ける。しかし、少年は少女を選んだ。

 その後、東京には雨が降り続けた。


 エンドロールになり、ふと桜を見た。

 桜は、泣いていた。

 スクリーンのかすかな光に照らされて、美しい一筋の涙が見えた。

 泣いている桜は、悲しいほど美しかった。純潔で、純粋で、清純な涙に、見とれていた。

 桜を想うと、こんなに胸が締め付けられて、苦しくて、胸が張り裂けそうなのに、桜は私と同じ女の子だった。

 桜に、そばにいて欲しかった。ただ、桜と、時間を共にしたかった。私は、世界よりも、桜を選ぶ。桜は、そう思える人だった。人が異性にこんな気持ちを寄せることを恋と言うのなら、同性の桜に向けたこの気持ちは恋じゃないのだろうか。

 それでも私は、桜に恋をしたのだろうか。もしそうなら、私は異常なのだろうか。桜の端正な横顔に魅入られて、胸が高ぶる私は異常なのだろうか。恋って、何なのだろうか。

 絡まった毛糸の様に、私の頭の中はぐちゃぐちゃになっていて、いくら解こうとしてもダメだった。

 私は、桜の横顔から、目が離せなかった。

 


「恋」

『新明解国語辞典』は、第5版で「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」とした。第6・7版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」と記している。第8版では「特定の異性」が「特定の相手」に変更され、同性愛も包括するものとなった。

────Wikipediaより




<第二章完>



 

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