八
一切合切引っ越し業者が運び出していった部屋の中を、最後にもう一度点検して回る。とはいえ、一人暮らしの学生向けの、狭いアパートだ。見おとすような余地がそもそもない。手荷物をまとめた鞄を肩に掛ける。
流しの横の空き瓶に、花を生けたままだった。濃い赤茶の斑点の入った、薄紅色のらっぱみたいな花が三輪、細長い葉とともに、茎のてっぺんで枝分かれして咲いている。改めて見ると小さなゆりにも似ているが、花びらは一枚ずつ裂けているから、違う花なのだろう。同じゼミに所属していた、でもほとんど個人的に話したことはなかったはずの子が、昨日くれた。かれが式典で賞状とともに貰った花束から、ひと枝抜き取って。古い木のような、しんと静かなところのある女の子だった。
わたしは在学中、かれの聡明さにひそかに感心していたものだが、かれのほうがわたしに対して特別な関心を寄せていたとは思えない。もしかしたら、花束が立派すぎてやりように困っていたのかもしれない。それで、誰でもいいからちょっとずつ配って、減らそうとしていたのかも。
荷物は全てまとめおえていたから、わたしもわたしでその花をもてあましてしまい、昨晩は、たまたま残してしまってどこかで処分するつもりだった空き瓶にひとまず生けた。そうしてそのまま、この部屋を出る時間になってしまった。とりあえず水は流してしまおうと、花を手に取る。
不意に、何か忘れていたことを思い出しそうな気がして、思わず動きを止めた。こころのなかを、よくよく注意ぶかく見てみる。けれど、やっぱり、思い出せない。
手を放してしまったのだ。それが良いのか悪いのか、決めるのはわたしだった。三輪の花は、それぞればらばらなほうを向いている。
瓶の中の水を流しにあける。カーテンのない窓から差しこむ午前中の陽光を、透明な広口瓶がきらきらと反射する。手紙でも地図でもないけれど、その代わりに、わたしは花を一輪ずつ摘みとって、瓶の中に入れた。きゅっと蓋を締める。
アパートを出る。道路を挟んだ向かいには、水路のようなちいさな川が流れている。はだかになった長い茎は歩道の植え込みにやってしまって、手すりから、川面を覗きこんだ。きらきら、白く日差しにひかっている。その上に手をさしだす。
小さく水の音がして、無数の光のかけらの中を、瓶は流れ去っていった。
スプリング・ブルー 音崎 琳 @otosakilin
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