籠に残されていたのは、つるりとした厚手の四角い紙だった。広げて見ると、黒っぽい一本の線がのたくっていた。

 線は紙の端に沿ってしばらくまっすぐ続いたあと、ちょっと迷走して、今度は今までの直線とは垂直にぎざぎざと下りていく。そこからまた、何度か垂直方向に折れ曲がりつつ、最初の直線と平行になるように、紙の中心部に向かっていく。最初黒いと思った線の色は、角度やまばたきのごとにゆらゆらと変化した。

 何となく、線の表しているものを直感する。再び丸めて籠に戻し、元のように布で覆う。

 だんだんとあたりは闇に沈み、ただ白く剥き出しになった道がぼんやりと浮かんで見えた。せめて月でも出ないかと顔を上げるが、まだ明るさの残る空には、星らしき小さな光が点々と明滅しているだけだ。

 足もとに目を戻した瞬間、さっと自分の影が黒く前方に伸びた。うしろをふりむく。大きなランプ――ではない、金色にひかる大きな何かが、宙に浮かんで、こちらにずんずん近づいてくる。

 頭の上を悠々と泳ぎ越していくのは、金の光で出来た鯨だった。

 鯨はまっすぐ道を辿って去っていく。わたしは胸に籠を抱えて、導かれるようにそのあとを追いかけて走り出した。

 からだを受けとめて土を踏む足裏が痛い。不自然な格好で走っているから、すぐに息が切れる。それでも、光る鯨の尾からひたすら目を逸らさないで、走りつづけた。

 急に木立が途切れ、森の中の広間のような空間に出る。ぼんやりと視界が白く染まる。鯨はそこで高度を上げ、きらきら無数の星が瞬いている紫の空の中へ泳ぎ去っていった。わたしはそれを、肩で息をしながら、広間の入り口に立ちつくして見送った。

 ふと、視界のそこここのきらめきが、さっきまでくるくるとたちのぼっていた泡とは変わっていることに気づく。反対に、何かちいさなものがゆっくり舞い降りてくる。白い地面の上に積もってゆく。細かな雪が、降り積もっていた。

 広間をとり囲む木々までも、粉砂糖をまぶしたように白く雪化粧している。いや、それだけではなくて、白い花を満開に咲かせている。そのことに気づくと、広間に積もっている白も、雪なのか花びらなのかわからなくなる。

 白い広間のまんなかには、ぽつんと何かの影があった。息を鎮めながら、痛いくらいつめたい花弁を踏んで、一歩ずつ、近づいていく。ちいさなまるいシルエット。

 こちらに顔を向けている、まりのようにまんまるの、ひつじのぬいぐるみだった。

 『   』、と声をかけようとして、わたしは、やっぱりその名前が思い出せないことに気づく。ぬいぐるみの正面で足を止める。ふたつの黒いビーズの目が見上げている。ぬいぐるみのような羊ではなくて、ひつじのぬいぐるみ。まるい瞳はひらいたまま眠っている。生きてはいない。

 わたしは、かれの名前も、どうやってかれと出会ったのかも、もう思い出せないことを、認めなければならなかった。もしかしたら、いつかかれの存在すら思い出せなくなることを、鋭い氷のくさびを打ち込まれるように、受け入れなければならなかった。

 だから。

 抱えていた籠を下ろして、中のクッションにぬいぐるみをのせ、上から白布を掛ける。

「おやすみ」

 わたしは残された地図を握りしめて立ち上がる。

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