全力で両足を底につっぱり、船縁をかたく握りしめる。からだが宙に投げ出される、ぞっとするような浮遊感。籠の上に身をかがめて、舟の中を凝視する。声は出ない。古びた木目が、妙にくっきりと目に残った。

 けれど、予期していたような激しい回転や衝撃は、幾ら待っても襲ってこなかった。それどころか、崖から落ちたにしては勢いもない。舟は上下を保ったまま、ゆるやかに落下しつづけている。

 慎重に頭を上げてみる。視界にきらきらと虹が散る。

 あの透明な魚の群れが、舟を乗せたまま、空を泳いでいた。

 舟はそのまま、落ちるというよりも、前に向かってなだらかに高度を下げながら宙を走っていく。風が髪を後ろに運んで、むきだしの首もとと二の腕がすうすうする。

 舟の行く先に目を凝らす。まだ遠くにある地面は、全体が白っぽくひかっている。いや、地面じゃない。海だ。海面が空を反射してひかっている。その光がみるみる視界いっぱいに広がる。舟の勢いが衰える気配はない。舳先はまだ下を向いたままだ。

 歯を食いしばって再び頭を伏せる。ものすごい水音とともに舟は頭から海につっこんで、四方から波がなだれかかった。

 籠を抱えたまま目をつむる。息を止めた直後、頭まで波に呑まれた。

 舟縁ふなべりを掴んだままの左手がひっぱられている。舟が、なお下に向かっているのだとわかる。思わず目を開ける。

「えっ」

 だめだと自制する前に声が出ていた。ぷかりと大きな泡が口から出ていって、けれども、水を飲んで窒息することはなかった。海の中なのに息ができると気づいた瞬間、舟に置いていかれそうだったからだまで重力をとりもどした。

 眼下には、さっきまで下っていた川べりとほとんど違わない、緑の森の景色が広がっていた。木々の間をまっすぐ縫って、川が流れているのが見える。

 舟は魚の群れに乗ったまま、その川にゆっくり着水して、何事もなかったようにまた進みはじめた。けれど、視界がどことなく明るい。先ほどの川辺は緑一色の下生えに覆われていたが、ここには、色も形も様々な花が咲きみだれていた。その花々からも、上にかぶさる木々からも、ふつりふつりと小さな泡が昇っていく。無数の泡が、きらきらと小さくひかっている。ずっと白っぽかった日射しも、ほんのり金色に変わっていた。

 泡が昇っていくということは、ここはやっぱりまだ水の中なのだ。けれど、舟縁の向こうに視線を落とすと、そこにもやはり揺らめくガラスか、あるいは固めた光のように、きらきらと透明な水面があって、虹色にきらめく魚が群れをなしていた。

 急に川岸が遠のいたように感じて、あたりを見わたすと、川は湖に流れこんでいた。舟は湖の中央へ進んでゆく。降りそそぐ光はもう、すっかり黄金だ。きらきら、ちらちら、泡が昇っていく。

 舟はだんだん、河口の向かいの岸に近づいていた。その先に、湖をぐるりと囲む森を割って、一本の道が伸びているのが見えた。

 澄んだ小さな水音とともに、それまですべるようだった舟がゆらりと揺れた。視界に虹色の光がひらめく。揺れと水音は次々と続き、それまで舟を運んでいた魚たちが、どんどん水面から飛び上がってきた。膝にのせていたことも忘れかけていた籠にもぐりこんでは、宙へと泳ぎ去っていく。魚の波に、籠の中身を覆っていた布が落ちる。中にはあの、最初の花畑に咲いていた薄紅色の花がいっぱいに入っていた。魚たちはめいめい一輪ずつ、口にその花をくわえてゆくのだった。

 こうべをめぐらせて、魚たちのうしろ姿を見守る。次第に赤みを帯びていく光のなか、魚たちは小さな光の粒になり、やがてそれも見えなくなった。魚たちが飛び立った勢いに押されて、岸にうちよせられた舟の底がざりりと砂をこすった。

 籠の底には白いクッションが敷いてあり、その上に、丸まった一枚の紙が残されていた。籠を覆っていた白布を船底から拾い上げて、中に戻す。そのまま籠を胸の前で抱えて立ち上がった。

 片方ずつ、湖の中に足を下ろす。薄紫に染まった水はとろりと冷たく、ふくらはぎまで沈む。ドレスの裾を持ち上げなくても、ぎりぎり濡らさずにすむ深さだ。

 湖底を覆う白砂を踏んで岸に上がる。夕闇に沈んでゆく森の中に、白く道が続いていた。

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