巻末に見つけた恋
西野ゆう
第1話
読書の秋。年中本を読んでいる私にとっても、やはり秋は読書の秋なのだ。
寒風吹きすさぶ公園のベンチで、舞落ちてきたばかりの紅葉を栞に使うような、普段はとてもできない気取った行為も、秋の色たちが許してくれる。
包装という役割よりも、私だけの本になったという印であるような薄い紙袋から、買ったばかりの文庫本を抜き出す。開け口をしっかり開いておかないと、本の角でうっかり破いてしまいそうなほど、袋は本をきつく抱いていた。すすす、と音を鳴らして全身を抜き出して、すうっと紙とインクの匂いを嗅ぐ。至福の瞬間である。
本の背表紙に並んだ縦書きの題字を撫でながら心の中で読み上げた。
「糸電話」
中学時代に一度、図書室の中でも古びた「全集」を引っ張り出して読んだことがある。隣りの家に引っ越してきた男の子と、糸電話で語り合う幼い(当時は大人びて感じたけども)恋の物語だ。
そんな大正時代に書かれた、子供向けの、言葉を交わすだけの恋愛とも呼べないような恋物語をなぜ今になって買ったのか。
私は、私のものになったばかりのその本を、裏表紙側から数ページ捲った。
――解説――
その単語を確かめた直後、私は再び本を閉じた。
わざわざこの文庫本を買ったのは、この解説を読むためであるのは間違いないが、それでも先に本文を読みたい。たとえ一度その物語の世界に飛び込んだことがあるとはいえ。
実際に物語を読み進めると、その選択が正しかったと身に染みて感じた。
学校の図書室で初めてこの物語に触れたとき、物語の主人公より三つ歳下だった私も、相変わらず独り身ではあるが、今では主人公の母親の年齢に近づいている。
物語を最初に読んだ時には気付かなかったことが、数多く目についた。歳を取って気付けるようになったのか、あるいはその逆で、若い時には感覚的に分かっていたものが分からなくなってしまっているのか。
とにかく、二人の不思議なやり取りが気になった。二人の間で交わされる、暗号めいた言葉たち。
例えば幼い男女の間でこんなやり取りがある。もちろん、糸電話で。
「二人の糸の真ん中にはいつも言葉があって、それを心が支えている」
男の子のこの言葉を聞いて、主人公である女の子は胸に痛みにも似た熱を感じて小さく返す。
「だから『恋』なのね」
胸元をぎゅっときつく掴む彼女に、当時初恋の真っただ中だった私は、仕草を真似て思い人の名を呟いたものだ。今思い出しても、甘酸っぱさに胸元がかき乱される。
だが、なぜ「恋」という言葉がでてくるのか。それは今も昔も私には読み解けない。
物語の中では他にも不思議な描写がある。特に、青年となった彼が兵役に向かう時、二人が互いに小さな「ワレモコウ」の鉢に「心」と書いて大事に持っていたのは気になる。
出版当時の流行りで、説明過多になるのを嫌ってのことなのだろうか。旧制中学卒業間際だった十七歳の主人公に理解できて、大人の私には分からない。あるいは、当時の若者になら誰にでも理解できた「暗黙の了解」なのか。結局それらの答えは、解説を読むまで分からなかった。
現代になって書かれた解説は、表現も瑞々しく、歳を重ねた私にも輝いて見えた。小説の作者には申し訳ないが、今回の物語はメインディッシュであっても、私の目当ては、解説というデザートだった。
――ワレモコウ(吾亦紅)は「私も紅い」と言葉を発したという逸話もある花だが、この二人は「亦」と「心」を組み合わせ、その逸話を用い「私も恋しい」と、甘く切ない言葉を変え伝え続けている。
「亦」の旧字体は「䜌」だ。糸で繋がる言葉。そしてその糸電話は二人の心に支えられている。糸電話。それは、「恋」そのものだったのだ。
解説を読んだ後、私はもう一度物語を最初から読み返した。
読んでいると、不思議なことに中学生当時の想い出も蘇ってくる。
なぜ私はあの時、あんなことを言ってしまったのか。
なぜ私はあの時、なにも言葉を口にできなかったのか。
なぜ私はあの時。
私の物語に「解説」はまだ書かれていない。
まだ物語の途中なのだ。
巻末に見つけた恋 西野ゆう @ukizm
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