第4話

***交響曲第41番ハ長調 K. 551 ジュピター***



 空に月が二つ。

 それで、そこが異世界であることがわかった。



「ここ。どうしても、空に月が二つあることの必然性が思いつかない上に、二つあったときの地上への影響が調べきれないので、書けないんです」


 異世界転生小説(現代日本からの転生につき、知識は標準日本人)を書く上で、どうしても悩んでいる箇所。

 書いては話し合い、ダメ出しをもとに書き直し、書き続けてきたが、その部分だけ直樹はいまだに答えが出せない。

 思い余って、操に相談してしまった。


「地上への影響、とは?」


 きょとんとした操に促され、そこまで考えていたことが堰を切ったように溢れ出す。


「たとえば、月の重力が地球上の海の満ち引きに影響を与えている点ですね。その世界における重力を地球程度で想定している場合、月が二つあったらどう設定を作れば良いのか気になって……。あとは満ち欠けの周期がどうなるのか。地球の暦は太古、多くの地域で月の動きから作られていたはずですが、月が二つあれば暦の作り方が変わってくるはずで、つまり独自の周期性を持つ暦を作る必要があるのではないか? と考えているとキャパオーバーで。月が二つあるって、そこが異世界だって問答無用で説明するすごくわかりやすいモチーフだと思うんですけど、整合性を考えると書かない方が良いのか……」


「君が得意の『実際にあるものを参考にする』で良くない? つまり、月が二つあって人類に近い生命の存在する惑星を調べてみて、それに近い形で書けば良いんじゃないかな」


 平然と答えられて、直樹はほんの少し落ち込んだ。


(俺が面倒なこと言い過ぎたのか、適当に流されてしまった……)


 その落ち込みを悟られないように、わざといつものような不遜な態度でしれっと返す。


「へ~……って、そんな惑星いまのところ発見されてませんよね? 実在しないものは参考にできません!」

「うん」


 操はやはり平然と頷いてから、「わかってんじゃん」と軽い口ぶりで続ける。


「月が二つで生命が地球並に活動している惑星は、いまのところ発見されていないから、理論上の仮説は立てられても『仮説』の域を出ない。君がどれだけ読者に誠実であろうとその『仮説』をひねり出すために天文学を勉強したとしても、君がいま書こうとしている小説はその知識を長々と披露するには適切じゃない。それよりも、小説の中身を面白くする勉強をした方が、よほど読者さんには良いと思う。よって、月が二つある世界が書きたければ、まず月が二つあると書けば良い。小説は、それだけで読者さんを異世界に連れていけるよ」


「それは……。わからないことをわからないからと放棄しただけで、設定を詰めないで、世界観ガバガバなまま見切り発車で書くだけで、全然読者のことなんか考えていないんじゃ」


(つっこみどころのある小説は、読者に不誠実で、きっと読んでもらえない……)


 操は強いまなざしで、直樹をまっすぐに見ていた。


「月が二つある世界、というのは格別珍しい設定じゃない。これまで多くのひとが書いている。気になるなら、既存作品でどういう設定が採用されているか、自分で確認してみるんだ。そのときに柏倉くんは気づくはずだよ。『自分は月が二つある世界を理論的に正しく書ける自信がない』というだけで、書きたいものを諦める必要はないと」


「俺は設定ガバガバの小説は書きたくないってだけで……!」


「設定ガバガバになりそうだから、書きたいものを書かない。それは戦略としてアリだ。でもね、先人たちはそこで思い切って、書いているんだ。『その世界には月が二つある』って。書けばそれがその世界での景色になる。君もその景色が書きたいんじゃないの? 書きたいのに、『設定がガバガバだからだめだと思う』という自分の声に負けて諦めて良いの? それを言っていたら、『君は』この先いろんな小説を書く前から諦めることになるよ。書く前から諦めた小説は、冒頭すら存在しない。エターナルでなければ読者さんからも責められないし、キャラクターだって怒らない。そして君はどんどん自分の可能性を削っていく。私はね、柏倉くん。大切なのはその一行を恐れずに書くことだと思うんだ」


 ああ、むかつく。

 このひとは本当にむかつく。

 黙っていれば絵になる理想的な美人なのに全然黙っていてくれないし、平気でえぐってくる。考えが全然合わないのに、クッキーは譲ってくれる(あれはやっぱり手作りだと思う)。

 いやだ。いやだ。俺は、設定ガバガバのかっこ悪い小説を見切り発車で書いて、エタって、その程度の作者だなんて言われたくないのに。


 月が二つある世界なんて、その先どう書けば良いかわからないんだ。

 だけど、この世界には月が二つないから、二つある景色を見てみたいと思ったんだ。

 それがたぶん、小説を書く理由。


「書けそう?」


 操は試すというほど挑戦的ではなく、「明日の締め切りまで間に合う?」とごく軽く聞いてくる。

 葛藤、逡巡の末に、直樹はほんの少し、前に進むことにした。


「月が二つあっても、良いような気がしてきました」

「私もそう思う」

「締切には絶対に間に合わせます。それで、間に合ったら、そのときはちょっと俺の話も聞いてもらって良いですか?」


 直樹が笑顔で言うと、操は狼狽したように視線を泳がせ「話はいつも聞いてる!! 変なフラグは立てるな。そういうこと言っていると、間に合わなくなるぞ」と答えてきた。

 その表情がいつもとは違っていやに可愛く見えてしまって、直樹は思わず声を上げて笑った。


「フラグを立てて、フラグを回収するために、今から月が二つある世界を書いてきます」



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モーツァルトの楽譜~松風高校文芸部創作ノート~ 有沢真尋 @mahiroA

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