最終話 夏の大会にて

既に日は傾き始め、競技場を取り囲むように植えられた木々が、トラックに影を伸ばす、夏の午後。


夏季市内体育大会。これが先輩たちの引退試合だ。いよいよ3年女子200m決勝。例の事件から復帰を果たしたナツ先輩は、予選のタイムでは全体6位と、春の実績から見れば苦戦しているようにも見えた。だが続く準決勝では暗雲を払う快走。危なげなく決勝に進んだ。


競技前、既に各レーンに選手は入っている。場内アナウンスが一人一人の名前を読み上げて、そのたびに選手は手をあげて、観客席と、審判に向かって一礼する。先輩以外にも、聞いたことのある名前があった。ライバルの面子は、春とさして変わらないんだろう。だってあれから、まだ3ヵ月しか経っていない。


私とマキ、マル、ミャーの4人は、ゴールに続く直線の目の前のスタンド席を、横一列に陣取って見守る。さっきまでは他校の生徒が座っていたが、後ろにいた私たちに、いい席で見たいだろうからと譲ってくれた。

「勝てるかな、ナツ先輩」

今日も暑かったけど、マキはまるで寒さをごまかすように、腕をさすって話す。見ているだけなのに緊張して、首から下に血が降りてこなくなるような感覚。それは暑さに関係なく、身体を冷たくする。ナツ先輩も今、それを感じているはず。

「どうかな。でも、見せてくれるよ」

準決勝のタイムは春の大会の記録より、コンマ1秒半、遅かった。コンディションが万全ではないのだろうが、そもそも、自己ベストなんてそう出るものでもない。


スターターの号令と共に、選手がスターティングブロックに構える。東中の黄色いユニフォームは、遠い客席からでもはっきり見える。ざわめきが引いた。私は唾を飲んだ。


風すらも止まったかのような静寂。刹那。雷管の破裂音。―スタート。


瞬間、声援が巻き起こる。時間が動き出す。春の光景がデジャヴする。それにつながって、入学して初めてでた大会。まだ卒業していった3年生がいたころの大会。みんな思い出した。


ナツ先輩はやや遅れている。1レーンの選手が速い。カーブを抜けて、先輩は3位。


—―大丈夫。ここから伸びる。直線でナツ先輩に勝てる中学生なんて、いるわけない。


信じている。けど、祈ってしまう。祈ることしかできない。マルもミャーもマキも、声を出している。私は出せずにいる。奥歯を噛み締めて、先輩を見る。


あの日、ナツ先輩は自分のために走ると言った。でもそれは、いつまで続くんだろう。走り続ける限り、苦しいレースはきっと何度でもある。走りたくないときが来る。走りたくても、走れないときだって来る。


私を短距離のリーダーに推薦するとも言ってくれた。私に、先輩みたいに走ることができるだろうか。自分のためだなんて、そんな走り方が、私にできるだろうか。


ラスト50m。案の定、先輩が伸びる。他の選手が苦しそうに失速していく。けど先輩は、声援も、風も、その背中で受けて、まるでゴールラインのその先にも、まだずっと道が続いているみたいに、速度を上げていく。


――先輩は、やっぱり、1着でゴールラインを切った。


東中の生徒は、みんな立ち上がって、自分のことのように喜ぶ。マルはマキと抱き合って、ミャーなんて、ちょっと涙ぐんでる。


手の小指の付け根が、ちょっと痛い。見ると、掌が真っ赤になっている。それくらい拳を強く握りしめていたことに、今、気づいた。




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