9章

日曜の夕暮れ。空が茜と藍のグラデーションに染まり、空に一番星が浮かぶ時間。


陽の光に暖められた空気は、吹き抜けることもなく留まる。腕を振る度、足を前に出すたび、絡みつくけれど、そこにほんの少しだけ冷たいところがあって、それが段々と増えたとき、気が付けば季節は進んでいるんだろう。


母に頼まれた買い物を済ませた私は、手から下げたビニール袋を時折蹴とばしながら歩く。牛乳パックの角が、たまに脛に当たって痛い。ヒグラシが、カナカナうるさい並木道。この鳴き声は、近くで聴くとこんなにも喧しい。


やっぱり、マキや他の2年生部員とも話した結果、ナツ先輩のお見舞いは見送ることになった。予定通り、明日、月曜日にナツ先輩は復帰予定。あの時は大騒ぎになったし、イヤな空気に包まれたけど、過ぎ去ってみれば、驚くほどなんてことはない。


とはいえ、ナツ先輩と言えど一度ぶっ倒れた身だ。復帰しても、すぐに元通りとはならないだろう。大会まではあと2週間。果たして間に合うだろうか。


もし走れなかったら、さすがにかわいそうだな。


そんなことを考えながら歩いていたから、曲がり角から飛び出してくる人影に、肩が跳ねるくらい驚いた。


「あっ……先輩…?」

「おお、明石。偶然だね。買い物の帰り? 」


額に、明らかに暑さだけが原因ではない汗を浮かべて、私と似たようなTシャツとハーフパンツ。いつも履いている黄色いランニングシューズ。


「軽くジョグしてたんだ。3日も閉じこもってたしね。」


飛び出してきたのは、自宅で安静に療養中だったはずの、東中陸上部エース、ナツ先輩だった。



猪野いの神社に隣接した公園からは、街が広く一望できる。


日曜の、日の沈みかけたこの時間、公園に人影はなかった。砂埃を被ったベンチに腰掛けた私と先輩は、買い物のお釣りで買った飲み物を手に、いよいよ橙から赤に変わる夕景を見る。

「ありがとね。後輩におごらせちゃった」

「いえ、いいんです。お母さんのお金ですから」

お釣りをもらっていいとは言われていないけど、暑いなか買い物に行ったんだから、これくらいは大目に見てもらえるだろう。ベンチの隅に置かれた買い物袋を見て、牛乳が腐ってしまわないか、ちょっと心配になった。

カルピスソーダを持つナツ先輩の手と腕は、細いけど、筋肉の下地がある細さで、ただ痩せているだけの私なんかとは、安心感みたいなものが違う。

「明日から、私も部活行くから。何か変わったことあった? 」

変わったこと—―みんな何もないように、表面上は振る舞っているけれど、たぶんそんなことはない。ナツ先輩は、自分が思っているより陸上部に、いろんなものを与えている。それに、はっきりと変化したことが、一つだけある。

「そういえば、アヤ部長…来てません。木、金、土って。金曜日は学校には来てたみたいですけど、部活には出てませんでした」

「あぁ…うん。それは聞いてる。大丈夫、アヤも明日からは来るよ。私、今日電話で話したから」

ナツ先輩は、空になった缶を地面に向けて逆さにする。少しだけ残ったカルピスソーダが、練習のあとの汗みたいに、地面に垂れて、すぐ消えた。

「部長…責任、感じてたのかもしれません。ナツ先輩を頼りにしすぎてたっていうか…プレッシャーかけちゃったんじゃないかって」

あの日、先輩が倒れた日、部長がずっと泣いていたことは、言わない方がいいだろうと思った。

「みたいだね。…気にしなくていいんだけどな」

先輩はベンチの、塗装が剥げて真っ白になった背もたれに体を預けて、息をつく。今なら、話したかったことが、全部話せそうな気がした。

「でも私、思ったんです。期待して、プレッシャーをかけたってことなら、みんながそうじゃないかって。山橋先生も、私たち後輩も、親も、見に来る人達だってそうじゃないですか。それなのに、アヤ部長だけが苦しむのは、不公平っていうか…そう思いました。だから、なんて言うか、すいませんでした」

いきなり謝って、変だっただろうか。でも、他に言葉が思いつかない。街に向かって吹く風は、既に夜気を帯びていた。


「……うん、やっぱり、勘違いしているよ。アヤも、明石も」

その風に乗ってとどく先輩の香りは、汗と、ミカンの制汗スプレー。春の大会の日と

同じ。

「私さ、別にプレッシャー感じて、それで倒れるまで走ったってわけじゃないよ。そりゃまあ、1位じゃなかったらガッカリされるかなーって、ちょっとは思ったけどさ。でも、ガッカリされるのがイヤだからって、頑張ってたわけじゃないんだ」

まだヒグラシは鳴いている。でも今は、窓越しの電車の音みたいに遠いから、切ないだけだ。

「じゃあ、やっぱり全国を目指して頑張ってる…とかですか?」

先輩は驚いたのか、目を見開いて話す。

「えぇ? 全国? いやー…無理じゃないかな。いけるとこまでは行きたいけどさ」

じゃあ先輩は、高みを目指して、そのために自分を追い込んでいるんじゃないんだ。じゃあ、どうして—―

「なんか、それくらいじゃないと、そこまで頑張る理由ないなって、思ってたんですけど…」

私たちは、どんなに走ったって、頑張って市内大会で優勝したって、何もない。それでも走るのは、走り出してしまって、今更止めることはできないからとか、みんなも走ってるからとか、そういう理由ばっかりだ。もしそんな私を倒れるまで走らせるものがあるとしたら、それは勝ちたいっていう気持ちくらいだけだと、私は思う。でも、先輩は違うんだろうか。

「もちろんさ、全国行けるなら、行きたいよ。でも、そのために頑張ってるわけじゃないな」

「ならどうして、倒れるまで…走れるんですか」

息を吸って吐く、その一回分の間を開けて、先輩は私を見て、話した。


「明石。上手く言えないけど、私はさ、私のために頑張ってるんだよ」


「みんなさ、私のこと、モテそうだっていうけど、全然だよ? 体動かすのが得意な、細いだけの女子なんてモテないって。細くなくていいとこまで細いしね。ついでに、成績も良くないよ。悪くもないけど。明石、私のテストの点数とか知ってるっけ? わかんないよね。アヤの方がはるかに良いよ。陸上はともかく、勉強はアヤに教わりっぱなし。でも、教わってもわかんないから、なんかアヤには悪いことしてる気になってくるんだ。だからさ、短距離は、私の唯一の特技なんだよ。ほんと、アレだけ」


「でもさ、特技ったって、市内で優勝くらいじゃ、大したことなくない? みんなスゴいって言うけど、正直、私はあんまりそう思ってない。だってそうじゃん。日本にいくつ市があるのか知らないけどさ、絶対1000個くらいはあるじゃん。その中の一つの1位って、どんだけ狭いんだよって。だからさ、みんなはどうか知らないけど、私は私に、そういう期待はしてないんだ。明石は全国って言ってくれたけど…今の私じゃ、絶対無理だよ」


「それでも私が走るのはさ、私、走っている時と、そのために頑張っている時は、なんていうか、私に対して、私!って、言ってあげられてる気がするからなんだ。…ごめん、意味わかんないね。自分で言ってて思った。つまりさ、アイツに勝ちたいとか、あの人にガッカリされたくないとか、そういうんじゃないんだ。私は、私の心に、私を、深く掘ってやりたいんだよ。私にとっての私が、消えちゃわないように…さ。だから頑張りすぎた。アヤも明石も、みんな、責任感じることなんてないんだよ。だって私は、私のために走ってるんだから」


ごめん、こんなこと言ったって、誰にも言わないでね、って、先輩は微笑んだ。その笑顔をみて、やっぱりモテそうだなって、私は思った。


「…私さ、引退したら、短距離のリーダーっていうか、今の私のポジションに、明石を推薦しようと思ってるんだ。だってさ、明石ってなんか、大物になりそうじゃない?」




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