.7 アイデンティティ

「ただいま」


「おかえりなさい」


 家に辿り着くまで、そうした当たり前のやり取りがあるものだと思っていた。


 まず、玄関のドア自体が無かった。

 中に入ると玄関には電気が点いてなく差し込む月明かりのみの照明は薄暗く、微かにわかったのは中も荒らされていることだった。


 床を踏み潰すような音と、愛理の悲鳴。


 何が起きているのかと中へ進むと、ぴちゃりと音がなり、リビング側から何か液体のようなものが広がってきているのがわかった。

 靴下につくその感触、僅かにねっとりとした感触。

 確かめなくても、それがわかった。


 血だ。


 誰の血だろうか?


 ぴちゃぴちゃと音を立てながらリビングへと続く廊下を進んでいく。

 錆びた鉄のような匂いが嗅覚と思考を支配していく。


 リビングに入ると、恐怖に怯えきった愛理と、生気を失った郁子がいた。

 郁子の下半身は無惨な状態になっていて、あり得ないほどの血溜まりが出来ていた。

 強引に引きちぎられたような断面から見える肉と骨。

 目を背けたくなるほど、おぞましい。


「パ……パ?」


 私の姿を見つけ、愛理が呼ぶ。

 恐怖に固まった頬が口角を吊り上げて、引きつった笑みを浮かべているように見える。


「パパ? パパ!? パパ助けて、ママが! ママが!?」


 叫ぶ愛理の腕の中で、郁子はピクリとも動かない。


 低い唸り声が聞こえた。

 愛理の瞳が恐怖により、一層強く開いた。

 愛理の視線の先、唸り声の方に私はゆっくりと振り向いた。


「ヒィッ……」


 思わず声が出た。

 我ながら情けない悲鳴だ、喉が絞められた様になって音が出なかった。

 爬虫類のような滑りとした皮膚を持つ丸い球体がそこにいた。

 球体から手足と尻尾が生えていて、大きく開けられた口のような場所に刺の様な歯が乱雑に並んでいる。

 何だ、この化け物は?

 

「パパ! ねぇ、パパ! ママが、ママがコイツに食べられたの。ねぇ、パパ! ママが、ママが!」


 愛理の悲痛な叫びは、目の前の化け物の口に郁子の身体が噛み千切られたことを告げていた。


 気持ちが悪い。

 胃の中のものを全て吐き出したい。

 あまりな光景に、化け物の咀嚼が終わるのをただずっと傍観しているしか出来なかった。


 首筋にある違和感が増す。

 何故だか、それがどういう意味か把握出来た。

 まるで脳内に刷り込まれるようだ。

 そうして、私は全てを理解出来た。


 目の前に立つのは、《モンスター》。

 あの都市伝説は真実だったのだ。

 郁子を食い殺そうとも、モンスターは消える素振りを見せない。


 ならば狙いは――

 私が愛しているのは――

 娘の、愛理。


 もしかすると、都市伝説はそんな単純なものではないかもしれない。

 私はを愛している。

 そう、思っている。

 だからこそ、二人を殺さないと終わらないのかもしれない。


 愛理は恐怖に固まっていた。

 身体に力が入らないのか、抱きしめている郁子の身体を床に落とした。

 愛理はそれにも気づかぬ様子で、恐怖を、モンスターを凝視している。


 私は理解している。

 このあと、取るべき行動を。

 私は、愛理を――。


 助ける。

→見捨てる。


「……パパ?」


 テーブルの上に郁子が用意してくれた晩御飯が置いてあった。


「……ねぇ……パパ?」


 私は椅子に座って、皿にかけてあるラップを外した。


「ねぇ……パパ……何してるの?」


 まず、ご飯を口にする。

 私の咀嚼音と、モンスターの咀嚼音が重なる。


「パパ!? ねぇ、パパっ!? 何してるの!? お願い、助けて!?」


 パパ、アナタ、部長――。

 私の呼び名は多くあれど、私はそのどれかに応えられていたのだろうか。


「パパっ! パパ、パパ!! 助けて!!! お願い!!!! パパっ!!!!!?」


 私の咀嚼音と、モンスターの咀嚼音が重なっていく。


 私は、誰だろうか?

 誰かに呼ばれる呼び名を演じて生きてきた、名無し。

 私は、私の人生を生きてきたのだろうか?


 私は、私は――


 首筋が疼いたので、指で触れた。

 仄かに――冷たかった。

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