『深夜0時の司書見習い』特別書き下ろしエピソード/『走れメロス』 編(6)

          §




 その日の深夜。屋敷のどこかで真夜中を告げる時計の音が響いた。


 ベッドを抜け出したアンは猫のワガハイと大扉をくぐり、図書迷宮に下りた。


 迷宮はあいかわらず灰色だ。濃霧が漂い、なにもかも色褪せている。埃とカビと死。苔むした書棚と毛羽立った通路のそこここに形の崩れた幽霊が徘徊する。墓地のように陰気な迷宮だが、今日のアンは陰気さで負けていなかった。


 はあ、と何度目かのため息をもらすと、ワガハイが背中の毛を逆立てた。



「やいやいやい小娘ちゃん、辛気クサイため息はやめろ。ユウウツになるだろ」


「憂鬱だからため息ついてるの」


「なにがユウウツだ?」


「本を紹介する相手を間違えたの、よくない人に『走れメロス』読ませちゃった」



 新たな読者を得て迷宮によい影響を与えるはずが、これ以上ないくらい辛辣な読まれ方をしてしまった。ひねくれ者の高見だ、その想像力で迷宮の〈メロス〉がどんな姿になったか、考えるだけでも恐ろしい。


 高見さん、走りきったとは言ってくれたけど……その前のコメントが厳しすぎ。



「はあ。絶対全力で走る友だち思いの〈メロス〉になってない。もっと変な人になってたらどうしよう。失敗したなあ、やだなあ」



 足元を歩くぽっちゃり猫は潰れた鼻の上にしわを寄せた。



「一度の失敗がなんだい。小娘ちゃんは失敗しかしてこなかっただろ」


「それ、励ましてるつもり?」


「優しいだろ?」



 ケケ、と笑う猫に言い返そうとしたとき、ふうぬ、と熱い鼻息が通路を吹き抜けた。



「ウワサをすればだな」



 ワガハイが後方を顎でしゃくるが、アンは通路の真ん中に棒立ちになった。


 はちきれそうな筋肉にぴったりと張りつくゼッケン付きのユニフォーム。山のような大男が暑苦しく叫びながらやってくる――


 ところがいつまで経っても雄叫びや軽快な足音は聞こえてこない。


 怪訝に思って振り返り、ぎょっとした。


 いつの間にか、アンは荒れ地にいた。


 ごつごつした白い岩が転がり、切り立った山肌にへばりつくようにして痩せた低木が茂っている。樹木が満足に生えない岩山は照りつける日差しに白く輝き、フライパンの上にでもいるかのような熱を感じた。あまりの熱さにワガハイが悪態をつき、アンの肩によじ登って灼熱の地面から逃れる。


 そこへ、ひとつの影が近づいてくる。


 アンは目を凝らし、息をのんだ。



「ワガハイ、まさかあれ……」


「ああ、〈メロス〉さんだ」



 耳元でしゃがれ声が答える。しかし、にわかに信じられなかった。


 筋骨隆々とした大男だったはずの〈登場人物〉は小柄な男に変わっていた。古代ギリシア人の平均身長を知らないアンにはその変化だけでも驚きだが、その風貌はさらに衝撃的だ。


 灼熱の太陽で赤く焼けた肌。濁流で油分を失ったごわごわの髪。あばらの浮いた体は皮膚がつっぱり、汚れた服はボロ雑巾のようだ。水を吸ったサンダルの革紐は千切れ、泥まみれの爪先には赤黒い血が滲んでいる。



「こりゃあいい、上質な想像力じゃないか」



 ニャヒヒ、と猫が舌なめずりしたが、アンは根が生えたように動けなかった。


 男の乾いた鼻腔からかすれた呼吸音が漏れる。


 男は真っ黒に汚れていた。乾いた泥が髪や髭にこびりつき、表情が読み取れない。憔悴しているようだが、目だけがギラギラと燃えている。底光りするような強い目。その気迫におされ、無意識にアンの足が下がる。


 男はアンに一瞥もくれず横をすり抜けた。その眼差しはひたと道の先を見据えている。まばたきもせず、痛めた足を引きずりながら街道を行く。


 迷宮の〈メロス〉が通り過ぎると、切り立った岩場は書棚の通路に戻り、馴染みのあるじっとりとした霧と腐敗臭を感じた。


 アンはその場にへたりこみそうになった。


 〈登場人物〉の姿形は蔵書を読んだ人の想像力によって無限に変化する。


 理解したつもりでいたが、とんでもない。



「読む人によってこんなに違うの」



 これが『走れメロス』。高見さんが見た、小説の世界。


 音、空気、熱。怖いくらいの生々しさにあてられ、まだ全身が鳥肌立っている。



「おもしろいだろ、ニンゲンの想像力ってヤツは」



 ワガハイが自分のことのように得意げに尻尾を揺らした。


 通路の先に目をやると、険しい岩場を超えていく〈メロス〉の背中があった。壊れた靴。疲労困憊の体。厳しすぎる山道と灼熱の太陽。なにもかもが〈メロス〉の敵だ。


 そして、旅の終わりに待つのは死のみ。


 これから処刑される恐怖に足が竦み、体が震える。歩みは遅遅として進まず、立ち止まっては絶望を吐き出すようにあえぎ、己を鼓舞しようと拳で体を打つ。


 苦悩と自己憐憫に苛まれる、長い道のり。数時間前までブランドのスニーカーに肉体美を誇っていた姿が嘘のようだ。



「高見さんすごい、こんなに細部まで描けるなんて」



 アンが興奮気味に言うと、猫はごろごろと喉を鳴らした。



「それが読書ってもんさ。読むニンゲンの経験や知識、感性によって見え方が異なる。とくに『走れメロス』はその傾向が強いね。ハアー、太宰はいいねえ。追い詰められたニンゲンの心情がよおくわかってる。だからこそ読み手の年齢や人生観で『走れメロス』の印象は無限に変わるのさ。この作品の最大の魅力だな」



 猫は金の目を輝かせ、うっとりとした顔つきになった。



「上澄みは極上のスープ、コトコト煮込んだ具材は人間性の塊。噛めば噛むほど味が出る。出汁の骨をかじるのもいいねえ。こんなにデリシャスな短編はそうない」


「よくわからないんだけど」


「ムキムキの〈メロス〉さんも、小汚い〈メロス〉さんも、どっちも最高ってことさ。本は自由なのさ」



 アンは遠くに見える〈登場人物〉の背中を目で追った。


 友情のためにひた走る姿に感動してもらってこそ、読み手がメロスは走ったと感じると思っていた。しかしそうではなかったのだ。



「メロスは走ったんだね」



 険しい山道を不恰好に歩み続ける男の背中が胸に迫る。アンでは決して描くことができなかった光景だ。



 ――二十年後もう一度読んでみろ。けどいまの『面白い』も忘れんなよ。



 耳の奥に高見の言葉が蘇る。


 私にもできるかな。


 十六歳のアンと、三十六歳のアン。そのとき読む『走れメロス』はどんなふうに感じとれ、どんな景色を見せてくれるだろう。


 遠い未来に思いを馳せ、胸が高鳴る。アンは笑みをこぼした。



「読書っておもしろいね」



 知っている物語。


 けれど、知らない物語が未来で待っている。





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深夜0時の司書見習い 近江泉美/メディアワークス文庫 @mwbunko

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