折れるな。


「待って! 待ってよ、悠太っ!」


 廊下を走り、靴も履き替えずに外に飛び出す。途中で学校の先生たちが呼び止める声を聞いた気がしたけど、構ってなんかいられなかった。


 うぅ、悠太ったら男の子だなぁ。これでも私、走るのはちょっと得意な方なのに全然追い付けない。何か運動でもやってたのかな? スピードが緩む気配もないのが困ったものだ。


 だから呼びかけているんだけど、それでも振り返ることもない。


 でも、今の状態の悠太を絶対に一人にしちゃダメだ。そのことだけが私を奮い立たせた。


 ぜぇぜぇと呼吸が苦しくなってきて、鉄の味がする。室内履きで走っているからか、足の裏もジンジンしてきた。

 冷たくなってきた風が頬を刺してくるのに、身体の内側はものすごく熱くなっている。


 学校の最寄り駅を通り越しても、まだ悠太は走っていた。てっきり恒太くんのところに向かうため、電車に乗るのかと思ってたから意外だった。


 正直もう追い付けないけど、ここの道は遮る物もない一本道だから見失うことはない。田舎で良かった。


 ヘロヘロになりながら追いかけていると、ついに悠太が立ち止まる。そしてそのままヨロヨロと道の端に寄ると、ストンと座り込んだ。


 日中のこの時間は人が通りに誰もいなくて、まるで別の世界に来たみたい。空は薄曇りで、今にも雨か雪が降りそうだった。


 急に冷たく感じる風に身震いしながら、私は悠太に少しずつ近付いていく。


「なんで、ついてくるの」

「……一人に、したくないから、だよ」


 声はお互いに掠れていた。俯いたまま座る悠太の目の前に、私は立っている。

 走り過ぎて足がガクガクいっているけど、私は座らずただ悠太を見下ろした。


「僕は、陽菜のことなんて……好きじゃない」


 全ての音が消えたかと思った。

 それは、大好きな人には一番言われたくない言葉だったから。


 呼吸を忘れてしまう。身体が、動かない。


「陽菜を好き、とか、そんな感情があったから、恒太と喧嘩になった……僕は、僕はっ、陽菜のことなんか、好きじゃない……っ!」


 頭を抱えるようにして言った悠太の声は震えていた。


 今すぐ逃げ出したかった。

 泣き出したかった。


 でもダメだ。ここで逃げたらダメなんだ。


「……聞かせてよ。事故の日のこと。思い出したんだよね?」


 誰かに話せば少しスッキリするかも、と言った自分の声も震えている。出来るだけ平静を装いたかったけど、こんなんじゃ悠太にもバレバレだろう。


 実際、声を聞いた悠太が一瞬だけ息を呑んだのがわかった。


 罪悪感からか、それとも誰かに聞いてほしいと思ってくれたのか。悠太はしばしの沈黙を挟んだ後に、ゆっくりと口を開いた。


「……喧嘩をした数日後、また恒太と言い合いになった。内容までは、覚えてないけど……たぶん、同じ内容だったんだと思う。その時はもう深夜で、僕は頭を冷やすために家を出て行った。そうしたら、恒太が追いかけてきたんだ。今の、陽菜みたいに」


 奇しくも私は、恒太くんと同じ行動をとっていたらしい。そのことに動揺して、キュッと胸の前で拳を握りしめた。


「あの時、僕はやけに苛立ってて……恒太が追いかけて来てるのに気付いていたけど、無視して走り続けた。だから、あの時」


 悠太はそこで言葉を切る。見れば、小刻みに震えているのがわかった。急速に顔色が悪くなって、これは只事ではないと思った。


 慌てて膝をつき、悠太の背に左手を回す。右手で咄嗟に掴んだ悠太の手は、ビックリするほど冷たくなっていた。


「僕の、僕のせいで……!」


 たぶん、だけど。それが事故の直前のことなのだろう。


 恒太くんが機嫌の悪くなった悠太を追いかけていったことが原因で……二人は事故に遭ったんだ。


 そして、悠太だけが生き延びた。


 悠太は、どの時点で恒太くんの死を知ったのだろう。もしかしたら、恒太くんが亡くなっている姿を見たのかもしれない。

 だからこそ、心がそれを拒否して……全てを忘れるようになったんじゃないかな。


 どれほどのショックだったのかなんて、想像も出来ない。どんな言葉をかけても安っぽいものにしかならない。

 けど、それが何だというのだ。安っぽくたっていいじゃない。


 それでも、私は貴方に声をかけたい。励ましたい。元気になってもらいたい。


 せめて、今は一人じゃないよって伝えたい。


「悠太。自分を責めたかったらたくさん責めていいよ。それでも私は、悠太の側にいるから」


 私は悠太を思いきり抱き締めた。今週は恋人になれていないけど、そんなことはどうでもよかった。


 これは悠太を慰めるとか、そういうんじゃなくて、ただ私の方・・・が逃げ出してしまわないように、彼にしがみついているだけかもしれなかった。


「陽菜なんか嫌いだって、言ったろ……」


 腕の中で身動ぎする悠太は、そう言いつつも力は弱々しくて私を振り払うことまではしなかった。出来なかったのかもしれないけど。


「嫌われても。私が悠太を好きなことに変わりはないよ」

「なん、で……迷惑だ……! 知った風なこと、言うな……」


 だけど、悠太の口から聞かされる拒絶の言葉は、私の心を容赦なく刺していく。


 ……折れるな。


「陽菜さえ、いなければ……っ! 喧嘩になんてならなかったし、こんな思い、しなくて済んだのに……!」


 折れるな。


「恒太が死ぬことも、なかったのに!! お前のせいだっ! お前の、せいだ……っ!!」


 折れるな……!


 悠太は、それでも私の腕の中にいた。俯いて私に抱き締められたまま、地面に向かって叫んでいる。


 悠太が震えれば震えるほど、私は悠太を強く抱きしめた。


「……私のせいにしたければ、してもいいよ。嫌ってもいい。恨んでもいい。でも、どうしたって過ぎたことだけは変えられないんだよ」

「うるさいっ……!!」


 急に、悠太が思い切り私を突き飛ばす。その衝撃で尻餅はついてしまったけれど。驚いただけで痛くはなかった。


 悠太の目は、全てを拒絶しているかのように見える。


 心が痛む。痛むけど、きっと悠太の方が痛んでいるんだよね。優しい君のことだから、きっと本当はこんなこと言いたくもないし、したくもないはずだ。


 それに、感情の発露は悠太にとって必要なこと。ここで私が折れるわけにはいかない……!


 ギリッと噛んだ唇から、血の味がした。


「私は、諦めが悪いんだっ! 私の悠太への『好き』を、なめないで……っ!」


 こんなことくらいで、悠太から離れるわけがないでしょう?


 ギュッと悠太の両手を握り、私の気持ちが伝わるようにと真っ直ぐ目を見つめてやった。

 悠太は突然大声を上げた私に呆気に取られたように目を丸くしている。


「実は私ね、悠太のお母さんとも仲良しなんだよ。悠太のお母さんと、お父さんと、ミネリョーくんや悠太の中学の時の友達。みんなとたくさん話したの。ねぇ、知ってる? こんなにもたくさんの人が、悠太を救いたいって思ってるんだよ」


 そのまま、私は場違いなほど明るい調子で話し続けた。笑顔が作れているかはわからない。


「悠太が自分を責めなくなるまで、たくさんの人が悠太を許してくれる。たくさんの人が一緒に苦しんでくれる。だから、安心して傷付いていいんだよ」


 どんなに醜い面も、全て受け止めてくれる。私だけじゃない。貴方には味方がたくさんいることを、どうか知ってほしいよ。


「私も。絶対に悠太の側を離れないから。君がどれほど私や、色んな人を拒絶したって……たくさんの『好き』を浴びせてやるって決めたんだから」


 きっかけは、些細なことだった。そこから、私の「好き」はどんどん大きく成長していったんだよ。愛は、育めるんだよ。


「好意を受け取らなくてもいいよ。でも、浴びせるから。何度でも『好き』を、飽きるほど君に……!」


 私はちゃんと笑えているかな? 悠太に気持ちを伝えられたかな? 全部、全部、全部。本気だよ。


「ぅ、ぁ……ぁあ……っ!!」


 悠太の目から、どんどん涙が溢れていく。ボロボロと、次から次へと。


 たまらなくなって、私は悠太をもう一度抱き締めた。そして、改めて告白をする。


「悠太、好きだよ。大好き」

「僕は嫌いだ。自分が、嫌いだっ……!」

「うん。じゃあその分も好きになるね」

「っ、う、あぁ……っ!」


 寒空の下、悠太はしばらくの間そのまま泣き続けた。


 ※


 かなりの時間が経ったように思えたけど、実際はほんの三十分ほどだった。

 でもこの気温の中、上着もなく外にいた私たちはすっかり冷え切っていて、情けなくもガタガタ震えながらコンビニまで歩いた。


 温かい飲み物を買い、イートインコーナーで暖を取る。コンビニの店員さんはさぞ不思議に思ったことだろう。近くの高校の学生がこんな時間にコンビニにいるなんて、と。

 しかも男の子の方は泣き腫らした目をしているのだ。訝しまないわけがない。


 まぁ、連絡されてしまったらそれはそれ。後で甘んじてお叱りを受けようと思う。別に気にもならない。学校を飛び出したことは知られているだろうしね。


 叱られたっていい。だって今は、悠太の側にいること以上に大切なことなんてないもん。


「……それじゃあ、僕はいつも陽菜とのことを忘れてしまっているってこと? なんだか、信じられないな……」


 落ち着きを取り戻した悠太に事情を簡単に説明すると、彼は黙って最後まで聞いてくれた。


「悠太にとっては、今が初めてだもんね。無理もないよ。でも、本当のことなんだ。信じられなかったら、お母さんやミネリョーくんに聞いてみてもいいし……」

「ううん、信じるよ。だって、そんな嘘を吐く理由がないし。それに、陽菜が言うんだから間違いない」


 悠太はかなり冷静に見える。取り乱すことなく、すんなり受け止めてくれた。


 ただ、こう……なんていうのかな。いつも以上に、悠太が優しい目を向けてくる、気がする。


「だ、だからね? 月曜日になったらまた忘れているかもしれないよ」

「こんなに泣いちゃったのに? これ、一生忘れられないくらいの黒歴史なんだけど……」


 本当にごめん、と悠太は我に返ってからずっと謝りっぱなしだ。

 そりゃあ傷付いたけど、気にしなくてもいいのに。ショックだったけど。


「……忘れないよ」


 紙カップで冷たくなった手を温めていると、悠太は小さな声で呟く。


「こんなに心を動かされたんだもん。絶対に忘れないよ、さすがに。……忘れたく、ない」


 悠太の口から、初めて忘れたくないって言葉を聞いた気がする。


 それは、彼の中でこの記憶喪失が現実味を帯びているということを意味した。


「陽菜、さっきは嫌いって言ってごめん。嘘だから。あれは、嘘で」


 悠太はコップを両手で持ちながら机に突っ伏す。そのままそっと顔を横に向けて、目だけで私の顔を見上げた。


「僕は、陽菜のことが好き、だと思う」

「悠、太……」


 悠太は、はにかんで笑う。


 もしかしたら、もしかするのかもしれない。

 そうだよ、悠太本人がそう言ってるんだもん。今度こそ、記憶のリセットは起きないかもしれない。


「僕と、付き合ってください」


 ゆっくりと身体を起こし、今度はちゃんと身体も私の方に向けて悠太はペコッと頭を下げた。


 悠太からの告白は、初めてだった。


「わ、私の方こそ、よろしくお願いします……」


 声が震える。喉の奥から何かがせり上がってくるのをグッと堪えた。泣くにはまだ、早い。次の月曜日をちゃんと迎えるまで。


「本当に、忘れない……?」

「忘れないよ。絶対」


 ギュッと手を握られて、私も強く握り返す。


 ああ、ついにこの日が来るのかもしれない。

 悠太のご家族やミネリョーくん、それから悠太の友達。そして、私の頑張りが実る日が。

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