第19話 招集
鵜の木学園ペア優勝の興奮が抜けきらない浜口が、本多准教授の研究室の前にたたずんだ。
そして首を傾げる。
──先生の行き先表示板が『帰宅』になっている。どうしてだ? まだ五時にはなってないはずなのに……。
薄ぐらい廊下はがらんとしている。だれも通らない。
午後から急に降り出した冷たい雨はいつの間にか上がったようだ。
先生に何かあったのではと、浜口は胸騒ぎがする。
尻ポケットから携帯電話を取り出し、心配そうに山田を呼び出す。
浜口がどこに消えたのかと、体育館で案じていた山田が答える。
「シンちゃん、いきなり消えたりして、いったいどこにいるのだい?」
「本多先生にお願いがあって研究室に来たのだ。けれど、先生、いないのだ」
「あたりまえだろう。今日は日曜日だぜ」
春休みで暇を持て余していた浜口は、曜日の感覚が無くなっていた。
さらに、山田が言う。
「いったい何をお願いしに行ったのだい?」
「クォーター優勝お祝いの会への出席をお願いしに来たのだ。それに、どこか良いお店を紹介してもらおうと思って……」
山田があきれたように問う。
「クォーターの都合は確かめたのかい?」
「まだだ」
「メガトンの都合は?」
「いつも暇そうだから、メガトンは大丈夫だ」
山田が浜口に指摘する。
「メガトンは『物理数学』と『常微分方程式』が不合格だった。不思議なことに相変わらず計算問題は苦手だなあ。でも、レポートのできが良ければ単位を取得できたはずだ。両科目とも計算問題がたくさん出ていたから、少し心配だけれどね。もっともメガトンは教科書を見ながらならスラスラ解けるタイプだから、きっと合格だな」
浜口は当然のように返事をする。
「もし万が一都合が悪かったら無理じいはしないよ。メガトンがいなくても問題はないし……」
山田が確かめる。
「本多先生に出席してもらう理由は何なの?」
どもりながら浜口が答える。
「クォーターの質問に本多先生は丁寧に回答してくれたからだ。そう、二人は親しい仲なのだ」
「無茶な理由の気がするけれど……。他にだれを呼ぶつもりなの?」
「彩。それに、ヤマちゃんも」
「彩はクォーターのお友達かい?」
浜口が思案する。
「メガトン抜きで、彩を呼ぶのは不自然かな?」
そう発言する浜口の意図を察し、笑いながら山田が指摘する。
「当然だろ。それにクォーターだけのお祝いなら、僕も行きにくい。親しいとは言えないものね。もっとも、シンちゃんには、僕はメガトンと同様にどうでも良い存在なのだろうけれどね」
数学科三大美女が一堂に会するコンパをなるたけ少人数で開催したいのが浜口の本音だ。
そのためには、呼びたい対象ではないメガトンも招待した方が良いと浜口はやっと納得する。
山田に問い掛ける。
「メガトンはまだ体育館にいるのかい?」
「着替え終わったら一緒に返ろうと、待っているところだ」
「俺も一緒に帰る。待ってもらっていてくれ」
一方、山田はメガトンの出ない祝勝会なんかに興味はない。
山田は浜口とは違うのだ。
メガトンの祝勝会なら、山田は自分で企画したいところだ。
研究棟の薄ぐらい階段を駆け降り、浜口は土手に沿いにある体育館に急ぐ。
メガトンとクォーターがそろって更衣室を出る。
何やらメガトンがまくし立てている。相変わらずの早口だ。
それにクォーターが渋々頷いている。明るい表情ではない。
長身のクォーターと一緒だと、メガトンがより子供に見える。
監督とキャプテンに挨拶をしたメガトンが山田と浜口に合流する。
メガトンが立ち去るのを見るクォーターに監督が尋ねる。
「林田は部に入る決心をしたかい?」
「それが、メガトン先輩は、『バドミントンの試合は今日が最後』だなんて言うの」
「あれだけの才能がありながら、勿体ないなあ」
「私もそう思うの。でも、私、まだ諦めない。メガトン先輩と組んで世界を狙うのが私の高校生時代からの夢ですもの」
クォーターと別れたメガトンは、山田に誘われるまま浜口と一緒に裏門を出る。
強い西日を正面に受けて目を細めながら多摩川の土手の階段を登る。
階段を登るごとに雨上がりの青い空が広がる。
爽やかだ。
日曜日のせいか空気が澄んでいる。
多摩川の遠く向こうにすみれ色掛かったグレーの富士山のシルエットがくっきりと浮かんでいる。
富士山の手前の丹沢の山並みも珍しくはっきり見える。
メガトンが無邪気に声を上げる。
「まあ、綺麗。わたし、こういうの、大好き」
小娘のように遠く富士山を見詰めるメガトンが山田には信じられない。
──このあどけないチビが鬼娘のように本当に暴れまくったのだろうか? もしそうだとしたら、いつか突然空高く舞い上がって消えてしまってもおかしくない。
そう思うと、山田は妙に切なかった。
三人は多摩川を右手に見下ろしながらゆっくりと下流のガス橋に向かう。
富士山が後方に移動していく。
メガトンは右手後方の富士山にちらちらっと目をやりながら思う。
──鵜の木学園に通っていた頃のママさんも、こんな綺麗な富士山を見ていたのだろうか。ママさんにもっといろいろなことを聞いておけばよかったな。
ガス橋の手前で土手を左に折れる。
キヤノン本社前の欅並木に出る。
急にひんやりした空気になる。
西日が届かないのだ。
歩道には雨に濡れた黒い跡がくっきり残っている。
メガトンが早口で尋ねる。
「わたしに聞きたいことがあるって、ヤマちゃんが言っていたけれど、いったい何なの? シンちゃん」
欅並木の狭い歩道が続く。
三人は一列縦隊で、せいの順に多摩川を背に緩やかな坂を下っていく。
お高祖頭巾を脱いでいるメガトンは、前からも後ろからも人に顔を見られたくないので最後尾を俯いて歩く。
歩きながら浜口がやっと口を開く。
「クォーターが長崎に戻るの、いつ頃か知っているかい?」
「春休みは部活があると言っていたわ。だから、帰るにしても4月に入ってからのはずよ。もしかすると帰らないかも知れない」
メガトンの返事を後方から聞いて、先頭を歩く山田が振り返る。
ガードレールの向こうを白い乗用車が音を立てて走り抜ける。
それに負けまいと大きな声で山田が聞く。
「追試代わりのレポートは、もう出し終わったのだろう。すぐメガトンは長崎に帰るのかい?」
メガトンがためらいながら答える。
しんみりした口調だ。
「レポートはとっくに出したわ。でも、長崎に帰っても、新学年がすぐ始まるわよね。それに、春休みの飛行機代は高いの。帰ってもママさんはいないし……。それを考えると、無理して帰ることもないわ。でも、ママさんのお墓参りには行きたいの」
しばらくしてメガトンが付け加える。
「やっぱし今回はパスだわ」
山田も浜口も、
「ママさんみたいに、美人で頭のよい子に生まれたらよかったのになあ」
とのメガトンの口癖を聞き慣れている。
亡くなった母の大好きだった数学を学びたくて、メガトンが訳も分からず鵜の木学園に飛び込んで苦労中なのも二人は知っている。
二人はしばらく声が出ない。
メガトンがいつもの明るい口調を無理に取り戻す。
「クォーターやわたしに何か用事があるの?」
すぐに返事をしない二人にメガトンが続ける。
「ひょっとして、クォーターのあとを追いかけて長崎に行きたいのかしら。わたしと違って、クォーターは美人でスタイルもいいものね。そのうえとびきりの秀才なのよ。まるで彩みたいだわ」
浜口は、
「うん、その通りだ」
と、正直に答えたいところだ。
だが、山田がそれより早く返答する。
「メガトンとクォーターの優勝を祝って、みんなでワイワイガヤガヤやりたいのだ。そうだろう、シンちゃん」
「そう、その通り。その祝勝会だ」
メガトンは怪訝そうな表情だ。
「でも、みんなっていったいだれなの?」
よだれを垂らしそうな顔で浜口が勢い込んで答える。
「俺らのほかに、本多先生と彩」
「分かったわ。わたし以外の三人はみんな素敵な美人ですものね。シンちゃんらしい発想だわ」
山田がジャブを入れる。
「メガトンも可愛いよ。とくに今日は、その広いおでこが可愛い。彼氏にはお高祖頭巾を脱いで、毎日そのおでこを見せているのかい?」
小さな白い手で前髪を額に撫で付けながらメガトンが反論する。
「わたしに彼氏なんか出来るわけがないでしょ。悔しいけれど、男の人は美人が大好きなのよ。そうでしょう、シンちゃん」
誰もが浜口の習性に気が付いている。そうと知り、山田が笑いながら言う。
「美人好みが美人に好かれるとは限らない。それが世の中だ。美人と話す機会を作るのに協力してあげるのも友達の努めかもしれないな。メガトン、協力してあげなよ」
「ひどいことを言うなあ、ヤマちゃんは。俺は純粋に優勝のお祝いをしたいだけなのだ。やましい心は断じてない」
「いいわ。わたし、シンちゃんのために、お手伝いしてあげる。どうせ、いつもわたしは味噌滓ですものね。でも、彩の参加は難しいかも知れないわ」
浜口が足を止めて振り返り、びっくりしてメガトンを見る。
「どうしてだい?」
「わたし達の優勝なんかに彩は興味を示さないわ」
「僕もそう思う。メガトンの意見だと、本多先生は関心を示すみたいだけれど、本当かな?」
メガトンが笑いながら答える。
「シンちゃんが声を掛ければ必ず来てくれるわ。大のお気に入りですもの」
それを聞いて浜口がやに下がる。
「そうかなあ。俺、先生にはいつも、ポンポンと辛辣な言葉を並べられている気がする。怒られてばかりだ」
「そうね。でも、先生の言葉にはぬくもりがあるわ。暖かさが伝わってくるもの。きっと、シンちゃんにしっかり勉強して欲しいのよ」
山田が浜口を皮肉る。
「本多先生は、出来の悪い学生がきっと大好きなのだ」
苦笑する浜口がいつもと違う道を帰ることに疑問を感じる。
どう考えても下丸子駅に向かっている気がするのだ。
「ヤマちゃん、今日はどうして下丸子から帰ることにしたのだい?」
「先生が行きつけの居酒屋が下丸子の商店街にあるそうだ。その店構えだけでも見ておこうと思ったのだ」
「そう言えば、わたしも去年の『お別れ会』で、先生からその話を聞いた覚えがあるわ。ヤマちゃんは良く覚えているのね」
残念ながら浜口はまったく記憶がない。
「俺も聞いていたはずなのに、どうして俺だけ覚えていないのだろう」
山田が笑う。
「シンちゃんは美女二人を前にでれでれしていたから記憶にないのさ」
メガトンの冷たい視線に山田が慌てて追加する。
「それに、可愛い女の子も一人いたしね」
メガトンが怒る。
「取って付けたようなことを言わないで。いったい女の子って誰のこと?」
山田がことさら胸を張って答える。
「メガトンは可愛い女の子だ。僕は心からそう思うよ」
心にもない皮肉を山田が言っているとメガトンはおかんむりだ。
「どうしてわたしだけ女の子なの。美女じゃないけれど、わたしだって立派な大人だわ」
それを聞いて浜口が笑う。
「ヤマちゃんは『可愛い女の子』なんて言って、気を使っているのだ。それを怒るなんておかしいよ」
「そんな言い方、ブスでチビだって自覚している大人のわたしを傷付けるわ」
浜口は引かずに言い返す。
「ヤマちゃんは優しいのだ」
メガトンの語気が鋭い。
「どこが優しいの?」
「ヤマちゃんの本音は、『ガリガリの赤ちゃんを前にして』だ。それをわざわざ『可愛い女の子』だなんて見え透いたおべんちゃらだ。そんなことも分からないのかい。だから、メガトンは子供扱いされるのだ」
メガトンが宣告する。
「おべんちゃらですって! 彩の参加は、シンちゃん一人で頼みなさい。わたしは絶対に手伝わない。ヤマちゃんも手伝うのは厳禁よ」
浜口も負けてはいない。自信ありげだ。
「この俺が頼めば彩は来てくれるに決まっている。それに、メガトンは主賓の一人だ。たしかに自分のために来てくれとは言いにくい」
その夜、浜口が彩の都合を訊いた。
「クォーターとメガトンの祝勝会をやる予定だ。それで彩の都合を訊きたいのだ」
「この電話、シンちゃんなのね。でも、いったい何の祝勝会なの?」
「クォーターとメガトンが、今日のバドミントン大会で優勝したのだ」
彩が即座に突き放す。
「それってわざわざお祝いをするようなことなの? 学科対抗の駅伝大会で、うちの学科は二連覇したのでしょう。でも、お祝いをしたなんて聞かないわ」
浜口は必死の形相で言い募る。
「今日は実業団相手に勝ち抜いて優勝したのだ。すごいだろう。二人ともすごかったのだぜ。特にクォーターはネット際の魔術師だ。相手のコートにびしびしシャトルを叩き込むのだ。まるで華麗な千手観音のようだった」
そう言われても、彩はのんびりしたお正月の羽根つきしか思い浮かばない。
「でも、私、バドミントンに興味はないわ。みんなと話が合いそうにないわね。だから、出席は遠慮しておく。皆さんによろしくね」
浜口は慌てる。
しかし、咄嗟に彩が食いつきそうなことを思い付く。
こういうときの頭の回転は早いのだ。
「本多先生も来てくれる予定なのだ」
「本当?」
「まだ確約じゃないけれどね。来てもらえれば、来年度からの数学科選択科目について、シラバスには書いていない情報をそれとなく入手できると思うよ」
「それは確かね」
彩はしばらく考え込んでから続ける。
「先生がいらっしゃるようだったら連絡してくれる。電話ではなくメールにしてちょうだい。私のスケジュールを見て、すぐ返事をするわ。よろしくね」
彩の口調は極めて丁寧だ。
しかし、氷のような冷気が浜口に伝わる。
同時に、南国に咲く清楚な花のように暖かい雰囲気の本多准教授を思い出した。
エキゾチックな小判型の笑顔の先生は必ず来てくれると、オロオロしているが浜口は信じて疑わない。
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