第20話 祝勝会

 多摩川土手の桜が満開に近い。

 冷たい風が吹き抜けなければ、あと一週間は花見が楽しめそうだ。

 まだ少し明るさが残っている夕方だ。

 下丸子駅から多摩川土手に向かうバギーを押すカップルや家族連れが目立つ。

 薄明かりが残る土手の桜をこれから楽しむのだろう。

 そんな人の流れをキョロキョロ見ながら、本田准教授行きつけの居酒屋の前で、浜口がうろうろしている。

 約束の時間までには、まだ十五分ほどある。

 幹事役の浜口は、約束通りみんなが来てくれるのか心配で落ち着かないのだ。

 粗野な外見や物腰に似合わず浜口の神経は本来は繊細なのだ。

 やっと、六人が揃った。

 浜口の予約した小上がりは、掘り炬燵を挟んで三人ずつ座る畳敷きだ。

 衝立で隣と仕切られている。

 白い座布団が三人分ずつ二列に並べられている。

 浜口がてきぱきと五人を席に着ける。

「先生は来賓だから奧の真ん中の席にどうぞ。主賓のクォーターはその右。主賓のメガトンは先生の左。その前はヤマちゃん。先生の真向かいは先生と話しやすいように彩。僕は幹事だから、お店の人とやり取りがしやすい通路側の隅っこのここ」

 浜口は巧みに、美女二人を眼前に、一人を隣にする理想の配置を実現する。

 もうそれだけで浜口は幸福いっぱいだ。単純なのだ。

 化粧っ気のないおかっぱ頭の店員が、白い小鉢を手際よく焦げ茶色の座卓に並べる。

 お通しを並べるふくよかな女の子は、学生アルバイトのようだ。

 浜口は睫毛の長い店員の横顔をさりげなく観察しながら思う。

 ──かわいい店員さんだな。きっと鵜の木学園の女学生だ。どこの学部だろう? うちの学科の三大美女とは違った雰囲気だけれど、お近づきになりたい美人だな。

 お通しは蛸と大根の煮物だ。

 メガトンの目が輝く。

 蛸のやわらか煮が好物のようだ。

 まず浜口は乾杯のドリンクを確認する。

「みんな生ビールでいいかい。今日は飲み放題だ」

 浜口の熱い視線を受けた店員が、くすぐったそうに小上がりから出て行く。

 浜口は早速メガトンをからかい始める。

「ビールよりメガトンはカルピスの方が良かったかな」

 メガトンが突っ張って切り返す。

「ハイボールじゃだめなの?」

 山田が驚いた顔で訊く。

「メガトン、お酒を飲むのかい?」

「ときどきおじいさんの相手をさせられるの」

 浜口もびっくりして問う。

「メガトンは援交をやっているのかい? おじいさんは五島先生? それとも高橋先生? どっちも真面目な顔をしているのに意外だなあ」

「シンちゃんの馬鹿。ママさんのお父さんだから本当のおじいさんよ。そこに下宿しているの」

 浜口がつまらなそうに言う。

「せっかく先生の弱みを握ったと思ったのに残念だな」

 本多准教授が浜口を笑顔でたしなめる。

「五島先生も高橋先生も数学が大好きよ。かわいい女の子なんかには目もくれないわ。シンちゃんとは根本的に違うわ」

 もっともらしい顔で浜口が反論する。

「先生は女性だからそんなことを言うのです。数学が好きだからと言って、みんながみんな美女嫌いとは限らないです」

 山田が皮肉っぽく同意する。

「シンちゃんは正しい。数学が大好きなシンちゃんは、美人も大好きだ。ちがうかい」

「数学が大好きなのは事実だ。本当だぞ。でも、俺は面食いじゃない」

 まじめづらを無理やり作って口を尖らして言う浜口に四人の女性が一斉に吹き出す。

 それを見て山田がしみじみとした声を作る。

 顔は笑っている。

「いいなあ、シンちゃんは。みんなに信頼され愛されている」

 それで再び笑い声が起きる。

 浜口だけが渋い顔だ。

 でも、決してめげない。すぐに調子を取り戻す。

「そう、俺はみんなに好かれる人気者だ。人徳があるのだ。ヤマちゃんとは違うさ」

 山田が訂正を求める。

「人徳だって? 人畜無害の間違いじゃないの」

 本多准教授が嬉しそうに納得顔だ。

 ここで、運ばれてきたピッチャーを両手で抱え、浜口が本多准教授とクォーターのジョッキに冷えた生ビールを並々と注ぐ。

 ついで、クォーターが浜口のジョッキに、本多准教授が彩のジョッキに、メガトンと山田は互いに相手のジョッキを満たす。

 彩は手を動かさず超然としている。

 かしずかれるのに慣れた彩は、他人のお世話はしないのだ。できないのかも知れない

 あらかじめ浜口から頼まれていた乾杯の音頭を本多准教授が取る。

「林田さん、深堀さん、優勝おめでとう。それに、皆さん、よく学習に励んだみたいね。それじゃあ、皆さんの健康とますますの学業の発展を祈念して乾杯!」

 和気あいあいと乾杯が終わったところで、五点盛りの刺身が大皿に盛り付けられて届く。

 緑の大葉に大根のつまが白くみずみずしい。

 もみじおろしに青ネギのいろどりが鮮やかだ。

 さきほどの女子店員が明るい笑顔で刺身の説明をする。

「マグロ、烏賊、カンパチ、鯛、鰤それにサービスの鰺です」

 女子店員を目で追いかける浜口に彩が話し掛ける。

「シンちゃんは、どれが何のお魚か分かるの?」

「分かるさ。これがマグロで、これが烏賊だ」

 彩が疑わしげな眼差しで追及する。

 妖しいまでに色っぽい。

「あとは?」

「むずかしいなあ。でも、俺、他にも分かるのはあるさ」

「なーに?」

「蛸とか蟹、それに海老も」

 とぼけたような浜口の回答にクォーターが大喜びだ。

「シン先輩、とっても面白いのね。でも、長崎でよく食べる海老は何だか分からないかもよ」

「なんだい、それは?」

「うちわ海老」

「おいしいのかい?」

「伊勢海老よりおいしいくらい。少なくとも負けていないわ」

「本当かい? メガトンも食べたことあるの?」

「クォーターの言う通りおいしいわ。でも、シンちゃんは食べられないかも知れない」

「どうして?」

「面食いの人にはうちわ海老は無理よ。ねえ、クォーター」

「そうね。平べったくて古代生物みたいですものね」

「俺は面食いじゃない。しつこいぞ、メガトン」

 メガトンが鋭く指摘する。

「でも、涎を垂らしながら店員さんのヒップを目で追いかけていたじゃない」

「先生の前で、変なこと言うなよ。涎なんか垂らしていないよ」

 上向きの綺麗な曲線が形の良い本多准教授の眉の下に表れた。

 本多准教授独特の観音様のような柔らかい笑みだ。

 目が細くなり、両瞳とも見えない。

「シンちゃんは正直過ぎるのよ。相手も気付いているわよ、きっと」

 この本多准教授の発言に山田が補足する。

「涎は否定したけれど、目で追いかけたのは、先生の前で堂々と認めている。確かにシンちゃんは馬鹿正直だ」

 こう言われて真っ赤になった浜口を本多准教授とクォーターが頑是ない子供を見るような表情で眺める。

 照れ隠しに浜口は話題を強引に魚に戻す。

「長崎は魚がおいしいのかい?」

 クォーターが答える。

「東京に来て、長崎の魚がおいしいのが分かったわ。抜群ね。それに長崎の魚は生臭さがないの。青魚もね」

 本多准教授が興味津々尋ねる。

「それって、とても新鮮ということ?」

「それもあると思うわ。けれど、どこの漁港も新鮮さは大差ないと思うの」

「それじゃあ、何が違うのかしら?」

 と、本多准教授が真剣な表情でさらに問う。

「長崎の海は磯臭さがないの。長崎のお魚は綺麗な海の臭わない餌を食べているの。だから臭わないらしいわ」

 山田が問う。

「種類は豊富なの?」

「豊富だわ。でも『鯵』や『ひらす』と言った普通のお魚がおいしいわ。こりこりとした食感で甘みがあるの。無色透明な『水烏賊』も抜群よ」

「『ひらす』とか『水烏賊』ってあまり聞かないわね」

 との本多准教授の疑問にメガトンが得意げな表情で答える。

「東京では、『ひらす』は『ひらまさ』、『水烏賊』は『あおり烏賊』のはずよ」

 クォーターがさらに長崎の魚を紹介する。

「冬は『あら(くえのこと)』や『トラフグ』、夏は『鱧』がおいしいわ」

 山田が感心して質問する。

「クォーターはどうしてそんなに魚に詳しいの? 実家は漁師かな」

 メガトンが答える。

「クォーターは大きな生け簀のある老舗料亭のお嬢さん。そうだったわね」

 老舗料亭のお嬢さんと暴露されたクォーターが少し戸惑った表情になる。

「もっと他に変わった魚はないのかい?」

 そう質問する浜口の顔から連想してクォーターが答える。

「グロテスクな顔だけれど、『おこぜ』もおいしいわ。活き作りだと、歯をがちがちさせてお皿から飛び出して噛み付きそうよ」

 山田が体を右にひねりながら言う。

「噛み付かれると痛いの?」

「いつも素早く逃げていたから痛いかどうか分からないわ」

 本多准教授が長崎に興味を示す。

「私、長崎の魚がおいしいって知らなかったわ。お酒は、どーお?」

「湧水で有名な島原のお酒や、壱岐の麦焼酎がおいしいらしいわ。他にもいろいろな銘柄があるけれど、みんな少量生産ね。だから、東京にはあまり出回っていないのね」

 東京生まれの本多准教授が感想を述べる。

「私、長崎に行ってみたくなったわ」

 浜口が臆面も無く追従する。

「俺も行く」

 さらに浜口が訊く。

「長崎に美人は多いのかい?」

 すかさずメガトンが答える。

「愚問だわ。わたしやクォーターを見れば分かるでしょ。自明よ」

 馬鹿げた冗談だと、彩が笑いをかみ殺す。

 山田がメガトンに同調したような意見を吐く。

「メガトンの言うとおり愚問だ」

 山田はメガトンの表情を確認し、一呼吸おいて続ける。

「どこにも、美人も子供もいるさ。自明の真理を質問するなんてナンセンスだ」

「それって、わたしが子供だって言っているの」

 メガトンの膨れた顔を見るのが山田は大好きだ。

「僕は、『世の中には子供も美人もいる』って主張しただけだ。メガトンのことは何も言及していない。お願いだから誤解しないでくれ。僕は正しいことを言っている。違うかい?」

 メガトンが反論しそうな機先を制して、山田が決勝戦の様子を本多准教授に話し出す。

「そうなの。私も見に行きたかったわ。呼んでくれれば良かったのに」

 と反応する先生に、高々と跳び上がり強烈なスマシュを打つメガトンの活躍ぶりを山田が興奮気味にリアルに付加する。

 浜口が山田の話に調子を合わせる。

「うん。すごかったよ。ラケットが唸る瞬間、メガトンのシャツがまくれ上がるのだ。すると、割れた腹筋がまる見えだ」

 メガトンが恥ずかしそうに赤くなる。

「それに、大きな出臍も見えた」

 剽軽な浜口の物言いに座がどっと湧く。

 しかし、メガトンはキレた。

「そんなの嘘だわ。ねえ、ヤマちゃん」

 頼りにされた山田が、おもむろに答える。

「たとえ真実でも、人に言っていいことと、いけないことがある。そこをきちんとわきまえる必要がある。シンちゃんの発言は大問題だ」

 メガトンが詰問する。

「それって、わたしが出臍だと言っているの?」

「僕の動体視力はシンちゃんほど良くない。正直言って、僕には見えなかった。だから真偽は判断出来ない。実際、メガトンがジャンピングスマシュで打った羽根がどこを飛んだのか、僕には皆目分からなかったくらいだ。ごめんね、メガトン」

 さらに抗議したいメガトンが次に反論する言葉に詰まる。

 それを見極め、山田はさらに言う。

「メガトンはどうしてあんなに高く跳べるのだい? メガトンの回りだけ、まるで重力が無いみたいだった」

「わたしはやせっぽちだから、重力が作用しにくいのよ。ただそれだけよ」

 クォーターが論戦に参加する。

「私もそれを心配していたの」

 彩が小首をかしげる。

「それって、なーに?」

「メガトン先輩、お胸が膨らんだわ。その重みで跳べなくなるかと心配していたの。でも、よけいな心配だったわね。先輩は、跳んで、跳んで、跳びまくったわ」

 山田も浜口もメガトンと毎日のように接してきた。

 そのせいか、日々ゆっくりと変化していくメガトンの成長に気が付かなかったのだ。

 メガトンが、はにかんで下を向いている。

 メガトンの表情が見えないクォーターが続ける。

「メガトン先輩は背も伸びたみたい。高校生のときより破壊力を格段に増したスマシュにびっくりしたわ。バドミントンを続けたら世界を目指せるのに残念だわ。監督もそう言っているのに。残念を通り越して、悔しいわ」

「わたしには、数学とバドミントンの両立は無理。クォーターみたいな文武両道は不可能だわ」

 彩は表情には出さないが機嫌を損ねている。

 自分が話題の中心にならないのが不満なのだ。

 実家の客商売の手伝いで鍛えられたクォーターが、敏感に彩の不機嫌を嗅ぎ取る。

 上手に座をとりなす。

「彩先輩には、文武両道は似合わないわ。どう見ても、才色兼備。うらやましい」

 彩の目が生気を取り戻す。

 穴子、海老、茄子、しいたけ、たまねぎ、さつまいも、山菜、それにかき揚げの天ぷらが、大根おろしとすり生姜を添えて座卓に置かれる。

 ピンク色の岩塩も添えられている。

 天つゆを入れた清潔感に溢れたえんじ色の小鉢が各人の前に届く。

 まず、遠慮のない浜口が箸を伸ばす。

 彩が唐突に質問する。

「三年生の選択科目、どんなのを取ったらよいかしら?」

 彩に本多准教授は質問を返す。

「中村さんは、今、どの科目に一番興味があるの? 代数、解析それとも幾何?」

 おもしろいかどうかに関心の無い彩は返答に窮する。

 彩の関心は、他の学生を圧倒して良い成績を取れる選択科目は何かだ。

 一呼吸置いて本多准教授が建前論を話す。

「三年生はまだ必修科目中心のカリキュラムね。この必修科目は基礎科目と考えてよいわ」

 本多准教授の話の続きを待つのは彩だけではない。みんな真剣な目だ。

「三年生の間は基礎科目をしっかり学んで、応用は四年生で選択するのがひとつの考えね。金融関係に就職したかったら保険数学なんかを選択しておくと良いかもね」

 浜口が訊く。

「だけど、それじゃあ、四年生でいっぱい単位を取らないと卒業できない。大変じゃないかな。俺、三年生のうちに選択できる科目は全部選択するつもりです」

 本多准教授が同意する。

「そうね。三年生のうちにできる限りの単位を取っておいた方が、四年生になったら卒業研究に専念できて楽ね。過去に一単位足りなくて卒業し損なった人がいたのを記憶しているわ。その学生、大学院に推薦入試で合格していたのにふいにしたわ」

 彩が隣の浜口に言う。

「でも、シンちゃんが三年生のときにたくさん単位を取ったら、四年生では遊びまくるのとちがう。そんなの駄目よ」

「大丈夫。試験をやる科目はさっさと捨てて、レポートだけの科目に最終的には絞るさ。俺は賢明なのだ」

 本多准教授が脅すように言う。

「でも、試験よりレポートの課題の方が難しいわよ」

 浜口はひるまない。

「大丈夫。数学大好きのメガトンがいるさ」

 メガトンが、ここぞと敵を討つ。

「出臍なんてひどい嘘をつく人なんか大嫌い。シンちゃんとのお付き合いは今日が最後だわ。口を利くのも嫌だわ。絶交よ! いーだ」

 メガトンが口を尖らせ浜口を大きな目で睨む。

 困った顔の浜口を見て本多准教授が笑いこける。まるで小娘のようだ。

 しょんぼりした浜口が尋ねる。

「先生、何がそんなにおかしいのですか?」

 苦しそうに笑いを堪え、本多准教授が切れ切れに答える。

 笑いすぎて息が切れたようだ。

「やっぱり思っていた通りだわ」

 やっと笑いの収まった本多准教授が息を整えて続ける。

「シンちゃんには、『線形空間論』の追試の代わりに、ゼミ形式で毎週発表してもらったわね」

「毎回鋭い質問が飛んでくるので冷や冷やでした。正直、試験よりきつかったです」

「きつかったと思うわ。でも、一生懸命勉強したと解釈して『線形空間論』の単位は出したわ。……それで、メガトンにお礼は言ったの?」

「言っていません。でも、どうしてメガトンに教わっていたと、ばれたのかなあ。メガトンが告げ口したのですか?」

 浜口がメガトンを睨む。

「わたし、告げ口なんかしていないわ」

 本多准教授がメガトンを擁護する。

「メガトンは無実よ」

「じゃあ、どうしてばれたのですか」

「私が質問すると、『しめた』という顔をしてシンちゃんは暗記調で答えていたわね。誰かに教わったことを丸暗記して答える人の特徴よ」

「そうか。俺は修行がまだ足りないなあ。メガトン、遅ればせながらありがとう。それに、ありもしないことでからかったりしてご免」

 浜口は白い座布団から降りると、両手をつきメガトンに深々とお辞儀して謝った。

 そして、いつもの剽軽な調子で言う。

「メガトン大明神、これからもよろしくお願いします。頼りにしています。本当です」

 浜口はひざまずいたままメガトンに向かって大きく柏手を打つ。

 メガトンがやり返す。

「こちらこそ、ごめんね。さっきは、怒ったふりをして」

「えっ! 本当にこわかったのに、怒ったふりだったのか。なんて事だ。女はみんな化け物だ!」

 言った途端、美女三人の鋭い冷たい視線を浴びて、浜口がすくみ上がる。

 メガトンだけは、『女と認知された』とご機嫌だ。

 三人の会話から山田は思う。

 ──本多先生が個人教授で鍛えたかったのは、浜口ではなく本当はメガトンでは。

 彩が本多准教授に質問する。

「ゼミって、学生がテキストの内容をみんなに発表するのですか?」

「そうよ」

「でも、いったいどうやって成績を付けるのですか? 試験はするのですか」

「試験は普通しないわね」

「でも、それでは公平な評価が出来ないと思うのですが」

「発表の仕方や、質問への回答の様子でどのくらい深く理解しているか分かるわ」

「でも、シンちゃんみたいな要領の良さで誤魔化す学生もいるわ」

「それは騙される先生が悪いの。でも、そうそう騙されないわ」

 彩は納得できない。語気鋭く反論する。

「それは主観による評価です。客観性に欠けています。評価は数値で、きちんとするべきです」

 試験にこだわる彩に本多准教授が諭すように言う。

「優秀な家庭教師について試験を上手に切り抜け、試験が終わるとすべてを忘れる人もいるわ。この人達、残念だけれど結構いい点を取るわ。反対に、地道に勉強して特別な対策をしないまま試験を受ける人もいる。もちろん、この人達もしっかり勉強していれば成績が極端に悪くなることはないわ。でも試験に限って言えば効率的な勉強方法とは言えないわね。でも、私は効率の悪い学生の方に親近感を覚えるの」

 彩は本多准教授の意見が気に入らない。

 反発する。

「でも、理解したかどうかは試験でないと測れないのではないでしょうか。やはり試験の出来は大事です」

 彩の意見に本多准教授が本音を返す。

「試験の成績が良いからって、実社会で役に立つ人間になるのか、私は怪しいと思っているの」

 浜口が賛成する

「先生の言う通りだ。試験が苦手でも、俺は実践的な有能な社会人になる。……絶対の自信がある」

 山田がすかさず言う。

「試験の成績が悪い人間は、すべて実社会で役に立つ人間になる。そんなこと、先生は一言も言っていないよ」

 浜口は譲らない。

「ヤマちゃんの言うとおりだ。『すべて』ではない。でも、俺には当てはまる」

 彩が咎める。

「どうしてそんな勝手な結論が出るの。おかしいわ」

「要領の良さや、人を見る目の確かさは実社会では重要な能力だ。俺は絶大な自信がある」

 胸を張って堂々と答える浜口にクォーターが歓声を上げる。

「シン先輩、素敵。魅力的なヒップを見極める目の確かさも抜群のようだわ。それも、きっと実社会で役に立つのね」

「もちろんさ。スポーツで鍛えた女性のヒップは実に美しい。それを理解できる俺のような人材は実社会で極めて有用だ」

 いたずらっぽい目でクォーターが問い掛ける。

「それじゃあ、試合の間、シン先輩はずっとメガトン先輩や私のヒップをジロジロと観察していたのね」

「そんなこと、俺はしていない。ヤマちゃんと一緒に、二人のプレーを純粋に応援していたのだ。本当だ。そのおかげで優勝できたじゃないか」

 おしゃまな坊やを見るような目で本多准教授が言う。

「シンちゃんは嘘が下手ね。その表情じゃバレバレよ」

 さらに美女三人に追及されそうな浜口に山田が助け船を出す。

 話題をさりげなく変える。

 誰にも打ち明けていないが、山田は数学者志望だ。

 それとなく本多准教授に探りを入れる。

「三年生の選択科目の中で、応用ではなく、基礎を固めるのに有用な科目はありますか?」

 ここで、『鳥の唐揚げ』と『つくね』が盛られた皿が向き合った三組おのおのに運ばれる。

 つくねを頬張って浜口は本多准教授の答えを待つ。

 他の四人は両手を膝にしたまま堅くなって待つ。

 山田は拳を作っている。真剣なのだ。

「現代数学の理解を深めるには、代数を専攻したいのなら初等整数論、解析学を専攻したいのなら確率論や物理数学、幾何学を専攻したいのなら曲面の数学かな。もっとも、これらは四年生になっても選択可能よ」

 剽軽者を演じている浜口が言う。

「俺、丸いなめらかな面が大好きです。曲面の数学は美的センスに溢れている俺に向いていそうですか?」

 浜口が本多准教授を見詰めている。

 熱い視線を感じながら本多准教授が微笑む。

「方程式から曲面が思い浮かべられる人なら、美しいと感じられるでしょうね」

「それじゃあ、俺にはとうてい無理です」

 山田が浜口の意見に同調する。

「シンちゃんは、触ったり撫でたり出来ないと美しさが分からない方だ。方程式じゃあ、とても無理だ」

 浜口は悪びれない。

「やっぱり感触も大事だ。でも、俺は紳士だ。いつもさりげなく爽やかに見るだけです。誓ってそうです」

 メガトンが怒ったように言う。

「あたりまえでしょ」

 首をすくめておどけてみせる浜口を見て本多准教授が言う。

「曲面の数学は非ユークリッド幾何学の一つだと言ったら、少しは皆さんの興味を引くかしら?」

 早速、彩の興味を引いたようだ。

 正確無比な記憶力が彩の特徴だ。

「それって、『直線上にない他の一点を通って、この直線に平行な直線はただ一本ある』が成立しない幾何学ですか?」

「そうよ」

「わたし、今まで何回も直線定規で試してみたけれど、納得できなかったわ」

 浜口が嬉しそうに彩に合わせる。

「俺も理解できなかった。彩と一緒だね」

 彩は浜口の援護射撃が迷惑そうだ。美しい顔をしかめる。

 本多准教授が解説する。

「机の上に置いた紙の上で考えるから不思議に思うのね」

 そう言われても彩は納得できない。

「でも変だわ。どうして平行線公理が成り立たないなんてことがあるのかしら?」

「成り立つ場合もあるし、成り立たない場合もあるの」

『そんな馬鹿な。いったいどっちが正しいのだ』

 と言う顔で五人の学生が一斉に本多准教授を訝しげに見る。

「例えば、地球を球体と仮定しましょう。飛行機や豪華客船での世界旅行を考えるの。このとき、直線は何だと思う?」

 山田が自信なさそうだが何とか答えをひねり出す。

「ひょっとして、二点を最短距離で結ぶ線ですか」

「そうね。山田君の言う定義が正しいとするでしょう。そうすると、赤道上にある二点を結ぶ直線は何かしら? シンちゃん、分かるわよね」

「赤道以外の点を通ると寄り道になる。だから、赤道上にある二点を結ぶ直線は、赤道以外ありえません」

「正解ね。それでは、東経0度上にある二点を結ぶ直線は、何かしら?」

 今度は浜口が自信を持って答える。

「赤道と同じに考えればよいから、東経0度です」

「その通りね。東経何度、西経何度の線は、みんな北極と南極を結ぶ直線ね。分かるわよね」

 五人の学生は騙された気分だが、一斉に頷く。

「赤道上にない点として、北極を選ぶの。北極を通る直線は、東経何度か西経何度の線だから、すべて赤道と直角に交わるわね」

 山田が結論を引き取る。

「赤道に平行な北極を通る直線は一つも存在しない。つまり、平行線公理は成立しないのですね」

 彩も納得したようだ。

「地球を球体と考えないで平面と見なすから平行線公理が成立するのね」

 彩の美しい納得顔の発言を受け、浜口が物知り顔で解説する。

「地球を平面と考えた場合の直線は、地球から飛び出して宇宙の彼方に限りなく伸びていく。……紙の上の定規で引く直線は、そのごくごく一部なのだ」

 議論が一区切り付いたところで、山田がさらに質問する。

 真剣な表情だ。

「ところで、先生。位相空間論をより深く理解する選択科目はないのですか。」

 彩は、

『良い質問だ。さすがにヤマちゃんだ』

 と感心する。

「残念だけれど、そんな選択科目はないわ。でも、高橋先生に、極限や関数の連続性、それに実数の連続性(完備性)を習っているでしょう。位相空間論を理解するには、それらをモデルとして対比して勉強するのが早道よ」

 本多准教授の回答を聞いて、

「位相空間論の講義、面白いかい?」

 と尋ねたときのメガトンの返事が

「つまらないわ。だって、高橋先生の講義内容とほとんど同じですもの」

 であったのを、山田は彩とともに思い出した。

 そのとき、メガトンの発言を二人とも荒唐無稽の偶然の結果と感じたのだ。

 しかし、本多准教授の話を聞いた今、認識を改めざるを得なかった。

 そして、山田はメガトンをからかいにくくなるのではと心配になった。

 ──メガトンは並外れた運動能力を持っている。残念ながら僕は運動音痴だ。数学に関してもメガトンは独特の感性を持っている。僕が気付かずにただ通り過ぎたことに悶々と悩むのがメガトンだ。メガトンは奥深いことを自分の感性で『自然な発想』だと捉えられるまで、誰のアドバイスも受けずに探求しているみたいだ。それに、クォーターが言ったように、メガトンは大人になりつつあるようだ。僕は全く気が付かなかった。どこか遠くの異次元の世界にメガトンは黙って飛んで消えて行ってしまいそうで怖いくらいだ。

 お高祖頭巾のような髪型のメガトンをまぶしそうに見る端正な山田の横顔がクォーターの目に映った。

 山田を見るクォーターの瞳はやさしく暖かく光っている。母性がほんのり香り出ているようだ。

 山田のすぐ横に長い黒髪が香る瓜実顔の美しい彩が品良く座っている。

 ──ヤマ先輩、スマートな長身で、そのうえハンサムよね。素敵だわ。彩先輩とはお似合いのカップルだと思ったけれど、うまくいかないみたいね。彩先輩は美し過ぎて自己中みたい。ヤマ先輩はひょっとしてロリコンかしら? 決勝戦でのメガトン先輩、ゴムバンドで後ろに髪を束ね、本当に可愛かったわ。おでこと頬を出したメガトン先輩はまるで子豚さんのようだった。マザコンのメガトン先輩は、そんなこと、ちっとも思っていないみたいだけれどね。ヤマ先輩、やっぱりメガトン先輩が気になってしょうがないのね。……きっと、そうだわ。

 山田やクォーターの思惑には無頓着に、『つくね』と『鳥の唐揚げ』を食べ終えたメガトンは、次の料理は何かとわくわくしながら待っている。

 黒縁の奧の大きな目が輝いている。

 メガトンは、自分が他人の関心を引いているなんて思ってもいないのだ。

 メガトンの前の取り皿に、食べ終わった『つくね』の串が一本寂しそうにのっている。

 もう一本食べたいのをメガトンは我慢しているのだ。

 本多准教授お気に入りの『つくね』をメガトンも気に入ったようだ。

 軟骨が交じっているせいか、おいしいだけではなくコリコリと食感が良いのだ。

 噂に違わず本多准教授は酒豪のようだ。

「先生、どうぞ」

 と、浜口は藍色の蛇の目模様のぐい呑みに日本酒を注ぐのに忙しい。

 お猪口では間に合いそうにない。

 ぐい呑みが差し出されるごとに、ピンク色に輝く飾り気のない本多准教授の健康的な爪が浜口に迫る。

 血色の良い綺麗な爪が輝くように美しい。

 高嶺の花の先生の指先が伸びてくると、浜口は顔を赤らめ胸がキュンとなる。

 その様子が彩は気に入らない。それに、メガトンやクォーターの活躍が話題の中心なのもさっきから面白くない。

 ──絶世の美女のこの私が隣に座っているのに、先生にこんなにデレデレするなんて、シンちゃんの審美眼も信用できないわね。本多先生は売れ残りのおばさんよ。……シンちゃん、しっかりしなきゃ。それに、どうせバドミントンなんて、はえ叩きの格好で羽根を突き合うだけじゃない。優勝したからって興奮するようなことかしら?

 不機嫌そうな彩を宥めるように、クォーターが片口を彩のぐい呑みに傾ける。

 ついでに、浜口にも優雅な所作でお酌する。

 上気してぐい呑みを差し出す浜口の動作がぎこちない。

 そんな浜口がクォーターには一年先輩とは信じられない。

 まるで坊やに見えるのだ。

 浜口は悪人ぶるのが癖だ。それが、かえってどこか母性本能をくすぐるようだ。

 豚キムチが新しい替え皿と一緒に運ばれて来た。

 料理がのった大皿を目で追うあどけない表情のメガトンは、数学と食べ物にしか興味がないように見える。

 子豚さんのように目を輝かせ嬉しそうなメガトンを山田がそっと見詰めている。

 この時、クォーターは、メガトンをバドミントンに再復帰させるための秘策を思いついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る