第17話 城南地区選手権
三月の最終土曜日。
夕ご飯を食べ終わった浜口の携帯電話に着信メロディが奏でられた。
──今頃、誰だろう?
色黒の浜口が尻ポケットから携帯電話を取り出す。
「シン先輩。今、電話よいかしら?」
「クォーターかい? いいよ」
「私、準々決勝で勝ったの。明日の試合、応援に来てくれない」
美女からの誘いなんて経験がない浜口はどきりとする。
でも、先輩らしい落ち着いた声になるように努める。
「いったい何の試合だい?」
「バドミントンの城南地区選手権。明日は準決勝。勝てば、決勝。負けたら三位決定戦。いずれにしても、2試合あるわ」
「何時に、どこでだい」
「十一時半に、うちの体育館で。でも、ほかの人の試合も見たいなら十時から。それは、シングルスの準決勝よ」
「クォーターは何時に行くの?」
「準備もあるから、私は九時には行っているわ」
浜口は、すらりと伸びたクォーターの手足を思い浮かべた。
元気良く答える.
「俺、行くよ! 九時に」
意気込んだ浜口の口調にクスッと笑ってクォーターが尋ねる。
山田の連絡先を知らないクォーターは、こちらが浜口に電話を掛けた本音だ。
「連絡が付くようだったら、ヤマ先輩も誘ってくれない」
クォーターを独占したい浜口は渋る。
長身の美男子と一緒に観戦するより、一人のほうがよいのだ。
「ヤマちゃんはスポーツ音痴だ。誘っても来ないよ」
自信たっぷりクォーターが反論する。
「大丈夫。メガトン先輩も出るって言えば、きっと来るわ!」
クォーターの発言が今ひとつ理解できないけれど、浜口は渋々承諾する。
「分かった。伝えるだけは伝えておく」
電話を切った浜口に、母親が興味深げに尋ねる。
「女の人の声だったようね」
「ああ」
「シンちゃんに女の人から電話が掛かってくるなんて珍しいわね。『クォーターさん』って、お友達?」
「大学の一年後輩。天然パーマの日本人離れした容姿の女性だ」
「美人なのね、きっと」
「数学科三大美女の一人だ。でも、どうしてそう思うの?」
「電話で話しているときのシンちゃん、すごく、にやけていたわ。それに緊張し放し。みっともないくらいだったわよ」
母親の皮肉っぽい口調に、これ以上話すことはないと、さっさと浜口は自分の部屋に戻る。
クローゼットを開けた浜口は、『明日はどの服を着ようか』と珍しく悩む。
悩み終わった浜口は、頼まれてもいないのに電話で彩に選手権観戦を誘う。
だが、彩は丁重に断る。
彩はメガトンとクォーターが勝っても負けてもどうでもよいのだ。自分のことで忙しいのだ。
翌朝の日曜日、鵜の木駅を降りた浜口が踏切を渡ってまっすぐ西に急ぎ足で向かう。
踏切を渡り終えた浜口は、後ろ髪をひとつにまとめヘアゴムで結んだ小柄な女の子とぶつかりそうになる。
カバーを掛けたラケットを左手に持った女の子が、多摩川行きの改札口から元気良く飛び出して来たのだ。
踏みとどまった女の子は浜口に軽く会釈する。
目の右端で捉えた女の子を無視して、浜口は通りの正面に見える鵜の木学園に浮き浮きした足取りで急ぐ。
山田より先にクォーターに会いたいのだ。気がせいている。
いつになく大股だ。
浜口の後ろ姿を見送り、珍しく両耳両頬を出した髪型のメガトンがつぶやく。
「シンちゃんたら、あんなに急いでどこへ行くの。わたしのことなんかまるで見えていないみたい」
その頃、鵜の木学園バドミントン部の一員であるクォーターは、体育館の床をモップで拭いていた。
部で勝ち残っているのは、クォーターただ一人だ。
掃除は免除のはずだった。
だが、クォーターは部の新入りだ。
他の部員と一緒に試合前の準備作業に汗を流している。
律儀なのだ。
部のユニフォームである濃紺のセーターを着たクォーターをキャプテンが呼ぶ。
「監督からの伝言だ」
クォーターは真剣な目付きでキャプテンの言葉を聞く。
「準決勝の相手は実業団のベテランペアだ。昨日のシングルスの試合でかなりへばっている。さらに、一人は今日のシングルスの準決勝にも出る。もっと疲れが出るだろう。そこを突き、粘っていけば、あるいは勝機があるかも知れないとのことだ」
礼儀正しいクォーターが反応する。
「ありがとうございます。私達はシングルスには出ません。だから疲れは残っていません、それに、若いです。スタミナでは負けません。見ていてください」
「しかし、ここまでよく勝ち上げってきた。一部に出場だけでも無謀だと思っていたのに、監督も俺もびっくりだ」
「キャプテンが練習をつけてくれたお蔭で、ここまで来られました。ありがとうございます。今日も頑張ります」
この返事に満足そうに頷くキャプテンは四年生なのが悩ましい。
不本意ながら,もうすぐクォーターのいる学園と別れるのだ。
今日午前の最初の試合は、男女ともシングルス準決勝だ。
午前後半の試合は、男女ともダブルス準決勝だ。
クォーターは、ラベンダー色のショートパンツを履いた準決勝で対戦する相手ペアの一人の動きをじっと注視する。
そのクォーターの厳しい表情に、浜口は声も掛けられない。
でも、セーターを盛り上げるきれいな胸の曲線に、日曜日の早起きを感謝している。
クォーターは、対戦予定の相手の特徴を的確に把握する。
──長身からのスマッシュは早くて鋭い。長い手足を活かしたスマッシュのレシーブも得意だ。バックに追い詰められても、背中を相手に向けながらハイバッククリアを見事に打ち返す。
難敵だ。弱点はどこだ。
クォーターが見守る中、試合は進む。
ラベンダー色のショートパンツが要所要所でスマッシュを決め1ゲーム目を取った。
だが、優勢だった2ゲーム目を相手の執拗な粘りに根負けして落とした。
そして、ファイナルゲームは最初こそ競り合ったものの簡単に落とした。
スタミナが切れたようだ。
それから約一時間後、メガトンとクォーターがセーターとトレーニングパンツをコート横で脱いだ。
二人ともショートパンツとゲームシャツ姿だが、デザインが違う。
メガトンは白、クォーターは深紅の鵜の木学園バドミントン部のユニフォームだ。
クォーターが、オランダ坂女子高等学校バドミントン部のユニフォームを着たメガトンに囁く。
「これに勝てば悪くても二位。賞状だわ。三位決定戦は無しにしましょう。ややこしくなるのは嫌ですものね」
メガトンが笑いながら同意する。
しかし、試合は、開始直後から相手ペアがじりじりとリードを広げる。
メガトンのショートサーブは狙われている。
相手ペアは、長身と中背の違いはあるが、ともにほっそりした体型だ。
クォーターは、相手ペアがスマッシュを受けるときもトップアンドバックの攻撃体勢を崩さないのに気付く。
長身の相手はスマッシュのレシーブに余程自信があるのだろう。
右に左に素早くステップして的確にリターンする。
コート後ろ半分を一人でカバーしている。
レシーブで足を踏ん張るごとに鋭い靴音がコートに響く。
さっきから山田はいらいらしている。
──メガトンが来るとシンちゃんが電話してきたから早起きして来たのだ。だのに、クォーターだけじゃないか。
浜口に抗議したいのを山田は我慢している。
抗議するのが何となく気恥ずかしいのだ。
難しい顔で腕組みをした監督の横にキャプテンが立って試合を眺めている。
二人の話声が山田と浜口に届く。
「どうしたのでしょうね、監督。林田にいつもの強打が見られません。それに、深堀も得意のカットを繰り出さない。スマッシュを打ってくれとお願いしているみたいにシャトルを高々と打ち上げている」
監督が顎の髭を抜きながら答える。
「見て見ろ。林田の軽めのスマッシュはシングルスのサイドライン上に集中している。いつものように強く鋭くダブルスのサイドライン際を狙ったら、いくらレシーブの得意な相手でも返せない。うちのペアは、相手がトップアンドバックの陣形を続けて欲しいみたいだ。ぎりぎりレシーブできる所を狙って打っている」
山田と浜口は練習を積んだ選手同士のバドミントンの試合を見たことがない。
二人とも驚愕する。
──こんなに速いのに、『軽めのスマッシュ』だって!
山田が浜口に念を押す。
「林田って、ひょっとしてメガトンのことかなあ」
浜口が信じられないとの表情で答える。
「そのはずだが」
山田がぽつんと繰り返す。
「あの色の白いのは本当にメガトンなのかなあ?」
メガトンは、クォーターとお揃いの白い鉢巻きをしている。
黒縁の眼鏡の丸い顔、広い額、もみあげ、ふっくらした頬、小さな唇。少し低めの愛嬌のある鼻。
今日は黒髪で隠していないので、すべてが丸見えだ。
山田と浜口は、クォーターのパートナーがお高祖頭巾を脱いだメガトンだとやっと納得したのだ。
キャプテンは改めて、足を踏ん張りダイナミックなフットワークで軽やかにレシーブを続ける長身の相手選手に注目する。
監督が解説を続ける。
「相手ペアは力量に差があるのだろう。サイドバイサイドの陣形は弱い方が狙われる。守り切れればトップアンドバックの攻撃陣形の方が良いと考えているのだろう」
キャプテンは監督の言うことを理解した。うちのペアを組み易しとみくびっているに違いないと思った。
「確かに相手ペアは後衛の長身の選手だけが左右に動き続けています。前衛の選手はラリーにほとんど参加していません。うちのペアの狙いはそこなのですね」
「ああ。二対一の戦いを続けていれば、いずれ相手は疲れてくる。しかし、相手も対策を練ってくるだろう。でも今は楽に圧勝できると踏んでいるのだろう」
鵜の木学園ペアは後半盛り返したものの、前半の失点は大きかった。
一ゲーム目は、相手ペアが取った。
山田と浜口は、しょんぼりしている。
二ゲーム目は最初から、メガトンの強打が炸裂する。
トップアンドバックではメガトンに対抗できないと悟った長身の選手は、陣形をサイドバイサイドに変えて強打に備える。
それを見たクォーターは即座に作戦を変更する。
クォーターは鋭いカットで長身の選手を前におびき出し、背後をドライブで襲う。
メガトンはドロップをネット際に落とし前進させた長身の選手をハイクリアで背走させる。
二人は徹底的に長身の選手を前後に動かす。
長身の選手の息づかいが荒い。
決めに出る頃合いだ。
メガトンのスマッシュが冴えに冴えた。
相手コートにスマッシュを次々にたたき込む。
クォーターのカットも冴えに冴えた。
動きの鈍った長身の相手はなすすべがない。
戦意を失ったようだ。
第2ゲームをあっさりメガトンとクォーターが取る。
山田と浜口は大喜びだ。
第3ゲーム。足の止まった長身の相手にメガトンとクォーターは狂ったように襲い掛かる。
強い方の一人を二人掛かりで集中攻撃だ。
マッチポイントをあっと言う間に握る。
そのまま、力まかせに押し切る。
試合終了の挨拶のためにネットに近づく長身の選手の足がもつれている。
疲労困憊の様子だ。
他の三人はしっかりした足取りだ。
その差は、バドミントンは素人の山田と浜口にもはっきり分かる。
二人はバドミントンが運動量の激しいスポーツだと初めて知った。
山田と浜口は、メガトンとクォーター以上に午後の決勝戦にワクワクしている。
クォーターは、メガトンのサーブがもう少しなんとかならないかと不安で堪らない。
最大の欠点はショートサーブかロングサーブかが、フォームからすぐ分かってしまうことだ。
だが、それを改善する時間は残されていない。
そして、クォーターは決断した。
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