第16話 耳学問
一月もあと二週間しか残っていない。
暖房の効いた校舎の外で、寒風が裸の桜並木の枝を揺らしている。
彩はいつものように中央最前列の席で『位相空間論』の講義を受けている。
講義は来週で終わりだ。
そのあと定期試験が始まる。
『位相空間論』の講師は新任の若いハンサムな先生だ。
証明を丁寧に説明する。
張り切っているのだ。
時々、先生の視線がチラチラっと彩に止まる。
それが浜口には気に入らない。
──俺の彩に手を出したら承知しないぞ。
と、上の空で講義を聞き流し、最後尾の席から先生を睨み付ける。
人を惑わすほど美し過ぎるのは彩の責任ではない。
もちろん欠点でもない。
秀才美少女を自認する彩が恐れるのは試験で失敗し、それを他人に知られることだ。
講義やテキストの中身が理解できないのはそれほど気にならない。
彩は試験で良い結果が得られれば満足なのだ。
そんな彩にとって、『位相空間論』の先生が新任なのが最大の問題だ
他の科目と同様に、彩は『位相空間論』の過去問もしっかり手に入れた。
しかし、新任の先生の出題傾向が今までと同じ保証はない。
実際、去年と今年では使用するテキストさえ違っている。
だから彩は何を試験勉強したらよいか疑心暗鬼なのだ。
焦りの色が濃い。
一方、
「ママさんのように美人で頭の良い子に生まれたかったな」
と呟くのが口癖のメガトンは単位を落とす常連だ。
成績が悪いなんて気にもしていない。
二度、三度落としたら、それから後はさほど気にならないのだ。
気にしていたら生きていけない。
メガトンにとって重要なのは講義の内容が面白いかどうかだ。
その点、『位相空間論』は落第だ。
丁寧だけれど、何かもう一つパンチに欠ける講義なのだ。
もっとも、パンチがあり過ぎて、浜口は講義の内容がさっぱり理解できない。
しかし、理解できなくても決してめげないのが浜口のしぶとさだ。
難局をどう切り抜けたら良いかと知恵を絞る。
──理解できるかはどうでも良い。問題は必修科目である『位相空間論』の単位をどう取得するかだ。カンニングは見付かると就職に悪影響しそうだ。ここは不本意ながらいつもの抱きつき作戦の敢行か。でも、だれに抱きついたらいいのだ。……頼りになるのは、やはりお人好しのメガトンか?
講義が終わると浜口はまっしぐらにメガトンに駆け寄った。
その勢いに彩が目を見張る。
浜口が意味ありげに声を上げる。おねだりをするようなトーンだ。
「メガトン!」
「なーに?」
「位相空間で収束や関数の連続性を議論するなんておかしくないか」
彩が浜口に同調する。
「数列がある一定の値に限りなく近づくのが収束の定義よ。距離が定義できない位相空間で収束を考えるなんて不自然だわ」
山田がメガトンに別の質問を浴びせる。
「位相空間論の講義、面白いかい?」
「つまらないわ。だって、高橋先生の講義内容とほとんど同じですもの」
これを聞いて浜口は大喜びだ。
早速メガトンに頼み込む。
「メガトン大明神! お願いだ。位相空間論の試験問題を予想してくれ。ついでに答えもお願いだ」
彩が呆れたように言う。
「そんなの無理よ。山を掛けずに真面目に勉強しなきゃ」
「俺は真面目にメガトンの予測能力を信じているのだ。お願いだ。頼むよ」
メガトンは自信がなさそうだ。
「彩の言うとおりだわ。わたしには無理よ」
浜口は諦めない。
「でも、高橋先生の小問題への予測的中率、抜群だぜ。今度も当たるさ」
困り顔のメガトンに山田が改めて問う。
「どうやって高橋先生の問題を予想したのだい?」
「わたし、予想したわけじゃないの」
「じゃあ、どうしたのだい?」
「単位を落としたしりして何度もテキストの『解析概論』を読んだ結果よ。全体の流れの中で自然に浮かびがあったの」
長身をかがめて山田が確認する。
「メガトンには、その流れが位相空間論と同じに見えるのかい?」
「そうよ」
浜口は山田の問いかけの意図を敏感に嗅ぎ取る。
「俺、ヤマちゃんの言いたいことが分かった」
彩は不審そうだ。
「いったい何が分かったの?」
「位相空間論の講義の流れが高橋先生のとほとんど同じなら、楽勝で予測問題が作れるはずだ。そう言いたいのだろう、ヤマちゃん」
彩はまだ納得できない。
「でも、一次元の数直線上の解析学が本当に位相空間論と同じなのかしら?」
メガトンが引き受けてくれたら合格だと、さっきとは打って変わって浜口は楽勝気分だ。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦。でも、信じる者は救われる。頼むよ、メガトン。すぐ始めよう」
メガトンに合掌してお願いする浜口に彩が呆れる。
「そんなの無理よ。あまり期待してはメガトンが可哀想よ。当たらなかったら文句たらたらなんでしょう」
山田が笑みを浮かべて提案する。
「高橋先生への予測小問題を位相空間論の問題に置き換えれば出来上がりだ。僕、手伝うよ」
「俺も手伝う」
彩は辛辣だ。
「シンちゃんが手伝えることなんて本当にあるの?」
浜口は自信満々だ。
「もちろんあるさ。俺はキーパーソンだ」
山田が助け船を出す。
「シンちゃんはメガトンが作った予想問題や解答を大事に取っているにちがいない。それらが大いに役立つはずだ」
浜口が尊大な態度でうなずく。
「その通り。今から新たに問題をつくるのは大変だ。俺はみんなのために先を見越してきちんと保存しておいたのだ。すごいだろう」
彩は浜口の態度が腹立たしい。
思わず皮肉が出る。
「それじゃあシンちゃん、おんぶに抱っこだわ」
浜口は反論する。
「人それぞれ特徴がある。その特徴を活かして仲間は助け合うべきだ」
瓜実顔の美しい顔が不審そうだ。
「シンちゃんはメガトンに何をしてあげられるの?」
「メガトンがより深く数学を理解する手助けができる。これは厳然とした事実だ。素晴らしいだろ。美しい友情の大きな成果だ」
山田が思わず吹き出しそうになるのを堪える。
そして、浜口の意見を肯定したように言う。
「シンちゃんはメガトンの理解を手助けする。その代償に試験問題を予測してもらって、シンちゃんは試験に良い成績でパスする。確かに美しい友情物語だ」
納得できない彩だが、背に腹は代えられない。
試験突破のために、とりあえず浜口の意見に従うことにする。
長い黒髪を撫でながら現実的な質問をする。
「ところでシンちゃん、手元に問題はあるの? あるなら今すぐ、位相空間論の試験問題を作りましょうよ」
「今はない。でも、家のパソコンに収まっている」
彩はすぐにでも作業に取りかかりたい。
焦った口調で問う。
「それじゃあ覚えている?」
「俺には無理だ。でも、作成者のメガトンなら覚えているだろう?」
メガトンは当惑した表情だ。
「わたしは人一倍物覚えが悪いのよ。そんなことを当てにされても困るわ」
浜口は強引だ。
「それじゃあ、明日の三校時の講義のあと談話室に集まろう。そこで、問題作成だ。俺、高橋先生の資料をプリントして持って来るよ。……俺はみんなのために働きたいのだ」
何とか試験に間に合いそうだと、ほっとした彩が呟く。
「確かにシンちゃんは、いくらか役に立ちそうだわ」
長身の山田がメガトンを見下ろしながら尋ねる。
「ところでメガトン。さっきも聞いたけれど、高橋先生の問題は具体的にはどうやって予測したのだい? 先生の性格や癖を読み取ったのかな。それなら何となく理解できる」
彩も浜口も興味津々メガトンの回答を待つ。
「違うわ!」
彩と浜口が同時に声を出す。
「じゃあ、どうやって?」
「むずかしくてなかなか理解できなかった所や、間違って理解していたと気が付いた所を問題にしたの」
浜口はメガトンに期待するように問う。
「それじゃあ、位相空間論以外の講義だって試験問題を予測できるはずじゃないか。違うかい?」
「でも計算問題は駄目。どれも難しいのですもの。どこが出そうかの区別なんて、とてもつかないわ」
彩と浜口の目が爛々と輝いた。
興味のない話は頭を素通りする浜口だが、試験直前にメガトンから聞く話はしっかりと記憶できる。
卒研(卒業研究)のゼミは本多先生の所と決めている浜口は、メガトンが高橋先生を選ぶのではないかと心配だ。
そうなればメガトンを頼れなくなる。
浜口はどうすればメガトンを本多先生のゼミに引き込められるかと思案する。
良い機会だと彩がさりげなく山田に聞く。
「AAやAが半分以上の成績なら推薦で大学院に進学できるそうよ。……ヤマちゃんは進学希望かしら?」
「本当かい? それなら何とかなりそうだ。でもAAはないよ」
彩の顔がぱっと明るくなる。
AAが一つも無いのは、自分と同じだと安心したのだ。
自信を取り戻した彩が、山田に確認する。
「私、大学院に進学する積もりよ。ヤマちゃんは?」
「できたら、そうしたいな。今の調子ならギリギリ大丈夫そうだ」
彩の顔がさらに明るくなる。
『ギリギリ』の発言で、もしかすると、山田より自分の方が成績がいいのではと悟ったのだ。
浜口も話に加わる
「俺も大学院志望だ」
彩が冷たく浜口を突き放す。
「でも、まずはちゃんと卒業しなきゃ」
浜口は黒髪のお高祖頭巾をかぶったメガトンに無言で頼み込む。
──俺の卒業も大学院進学も、メガトンの予測能力次第だ。これからもしっかり頼むよ。
単位をたくさん落としているメガトンは推薦で合格する自信がない。
彩に恐る恐る尋ねる。
「大学院は推薦入試しかないの?」
「一般入試もあるわ。試験科目は専門と英語よ。メガトンも大学院志望なの? まさか! 一般入試はかなり難しいらしいわ」
浜口が反発する。
「そんなのおかしいや」
彩は浜口が理解できない。
「一体何がおかしいと言うの」
浜口は怒ったように答える。
「普段から成績の良い学生は筆記試験に強いはずだ。だから一般入試を突破すればよい。推薦入試は成績の悪い人を救済するためにあるべきだ」
「そんなのおかしいわ。シンちゃんのいつもの屁理屈だわ」
「そんなことはないさ。成績の悪い学生が何も理解しないでそのまま実社会に出たら困るだろう。社会的損失だ。基礎から鍛え直そうとの勉学意欲のある学生を母校は積極的に受け入れるべきだ」
彩は浜口に反論する。
「一般入試ならばきちんと勉強し直すはずだわ。シンちゃんだって推薦じゃ勉強しないでしょ」
「大学院でしっかり勉強するさ。できの悪い学生をしっかり鍛え直すのは大学の責務だ。日本の明るい未来がかかっている」
彩が浜口を挑発する。
「勉強したいなんて大嘘に決まっているわ。きれいなおばさんの所に潜り込みたいだけでしょう」
浜口は向きになって大声を上げる。
「本多先生はおばさんじゃない! 優しい素敵なお姉さんだ」
聞いてもいないことに向きになって反論する浜口の見幕に彩と山田が思わず吹き出す。
──ママさんと違って不細工に生まれた。
と自覚しているメガトンは、『美人』の話題にしょんぼりしている。
気を利かし山田が明るい声で取りなす。
「仲間四人で進学しようや。そのためには、まず位相空間論の試験を片付けなきゃ。シンちゃんはメガトンの予知能力に期待しているのだろう」
「わたしは魔女じゃないわ。予知能力には無縁な普通の大人の女性よ」
浜口が半ば同意する。おべんちゃらが混じる。
「魔女なんかじゃない。かわいい救世主だ。分かりやすく早めに頼むよ。でも、大人かどうかは怪しいな」
彩はこの発言が気に入らない。
自分が何でも一番でないと気がすまないのだ。
でも、もしかするとメガトンは本当に救世主になるのかも知れないと不本意ながら当てにする。
だが、成績では大きく差を付けてみせると、絶対の自信を失わない。
彩には、それがすべてだ。
こうしてメガトンは数学科専門科目の定期試験問題予測担当となる。
もちろんその模範解答も作成担当だ。
予測問題への浜口の根掘り葉掘りの質問がメガトンの能力をさらに飛躍的に高めていく。
この時、定期試験より大きな問題をメガトンは抱えていた。
クォーターの巧みな懇願に城南地区選手権出場に同意したものの、ショートサーブが今一つうまく打てないのだ。
メガトンは他人からの依頼を無下に断ることのできない性格のようだ。
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