第12話 混迷
秋も深まり、鵜の木学園体育館で伸び伸びとシャトルを追うメガトンが生き生きとしている。
バドミントン部の監督とキャプテンがメガトンを見る目がますます熱を帯び鋭くなっている。
その頃、いつもは自信満々の彩が珍しく鬱状態だった。
彩の理工学部基礎共通科目の数学の成績はすべて最優秀だった。
外国語も理工学部基礎共通科目の物理も化学も万能振りを遺憾なく発揮して最優秀だった。
だが、数学科トップの成績を目差す彩は満足出来ない。
試験がやさし過ぎて、山田のような他の秀才も最優秀の成績なのではと心配でたまらないのだ。
最優秀の成績だから、理工学部基礎共通科目の一番は確かだと確信している。
でも、一番がたくさんいるのは彩には我慢ならないのだ。
彩をもっとも悩ませたのは、数学科専門科目の試験結果だった。
浜口や多くのクラスメートとは違い単位を落とした科目はない。
──でも、あのメガトンでさえ落としていないのだ。だから、決して自慢できることではない。
と、思った。
それに、最優秀の成績は一つもなかった。
数学科では最優秀の成績は滅多に付けないとの彩も承知の噂は本当のようだった。
さらに、後期の講義が彩を悩ませた。
微分や積分の計算が得意な彩は、自分の存在を際立たせる科目として、五島先生のルベッグ積分に期待していた。
それなのに、前期のルベッグ積分Ⅰが終わり、後期のルベッグ積分Ⅱになっても、いっこうに計算も図形も表れない。
彩には、五島先生の講義がまるで哲学のように聞こえる。
──『長さが測れるのか測れないのか』なんて議論は何の意味があるのかしら? そんなもの物差しを当てればよいだけじゃない。
彩はそう思った。
高校生時代、解けない問題があれば、彩の優秀な家庭教師からすぐにヒントがもらえた。
それに、どこをどう勉強すれば効率がよいかも親切に教えてもらった。
無駄な時間が皆無の効率の良い勉強法だった。
そのおかげで、理工学部基礎共通科目や語学は、試験に出そうなところが嗅覚で分かるのだ。
そこを重点的に勉強しさえすれば、試験は楽勝だ。
重要事項の暗記と多くの練習問題をこなすことによって良い成績が容易に獲得できた。
だが、研ぎ澄まされた彩の嗅覚が、数学科専門科目には通用しないのだ。
どの科目も、定義、公理、定理、証明が淡々と進んで行くだけだ。
どこが覚えるべき重要事項で、どこが試験に無関係で切り捨てる所なのかが判断出来ないのだ。
彩は苛立っていた。
同級生に悩みを打ち明けるのは、秀才美女を自認する彩のプライドが許さない。
それに、浜口の広めた数学科三大美女も彩の機嫌を損ねていた。
──おばさんや背高のっぽの小娘とを私と一緒にしないでほしいわ。私の方が、ずっと美人。これは紛れもない真理よ。
実際、本人が自負するように妖しいほどに彩は美しい。
美しい顔に険が出た。
浅黒い肌でラッキョウのような顔の浜口が『数学科三大美女』の震源地らしいとの噂を思い出し、彩は腹立たしかった。
同時に名案を思い付いた。
──数学科講義の批評会をやろう。そうすれば、ライバルのヤマちゃんが、どう講義を理解しているかが分かるかも知れない。数学科は最優秀の成績を付けないとの先輩から聞いた噂の真偽も確認できる。それに現代数学の学習の仕方がつかめるかも知れない。
思い付いた翌日、彩は早速試してみた。
もちろん教わろうとの態度は微塵も見せない。
女神が御下問している雰囲気だ。
「数学科の講義で一番分かりやすいのは、どの先生かしら?」
浜口が口を尖らせて即答する。
「どれも訳が分からない。支離滅裂だ。大学の授業はなっていない。授業料泥棒だ! 高校の先生か予備校の先生に講義してもらった方がずっとましだ。もっとも、本多先生は別だけれどね」
浜口が理解出来ないなんて聞かなくたって分かっていると、彩は浜口の意見は完全に無視だ。
最大のライバルとして一番聞きたい相手を名指しする。
「ヤマちゃんはどう思う?」
「たしかにどの講義も訳が分からない。でも、それは先生のせいじゃない」
彩はライバルの秀才も理解困難だと知ってほっとする。
浜口が怒ったように山田に言う。
「先生のせいじゃないとしたら、俺たちみんなが馬鹿だからかい?」
今度は彩が浜口に怒りをぶつける。
「私は馬鹿じゃないわ。シンちゃんと一緒にしないで! でも、高校の授業の方がずっと分かりやすかったのは事実ね。どうしてかしら?」
山田が彩と浜口を宥めるように言う。
「受験で勉強していた内容より、はるかに高度なことを大学では猛スピードで学んでいるせいだと僕は思う。分かりにくいのは、どの先生のせいでもないさ」
メガトンが無邪気な意見を吐く。
「わたし、馬鹿だけれど、数学科の数学は好きよ。とくに五島先生の講義は面白いわ。基礎共通科目の計算のややこしい数学は好きなれないけれどね」
浜口が反論する。
「ルベッグ積分が面白いだって。そんな馬鹿な。あんな得体の知れないものはない。どこが面白いのだ?」
彩は珍しく浜口の意見に賛成だ。
でも、黙ってメガトンの回答を待つ。
「ルベッグ積分可能な関数の全体は、数直線では実数全体に相当する。高校で習ったリーマン積分可能な関数の全体は、数直線では有理数全体に相当する。こう五島先生は説明していたわ。この説明のおかげで、高橋先生がなぜ『実数の連続性が大事だ』と言っていたのか今までより分かった気になったの」
メガトンの発言に彩は驚異を感じる。
──もしかすると、このチビ、新興勢力として私のライバルに台頭してくるのかしら? まさか!
本多先生にゼミ形式で鍛えられている浜口は、メガトンの意見を尊重することにしていた。
メガトンの発言を理解できなかったが、また重要事項らしいことを一つ覚えたと思った。
学者になるのが夢の山田は、異なる講義の内容を絡み合わせて理解しようとしているメガトンに新鮮な興味を持つ。
彩はメガトンから更に情報を引き出そうとした。
「ルベッグ積分とリーマン積分との本質的な違い、五島先生、ちゃんと説明していたかしら?」
「説明はなかっと思うわ。でも、なんとなく感じ取れるわ」
彩が驚いたような表情でメガトンを追及する。
「感じ取れたですって? 一体どんなふうに?」
「リーマン積分は関数の激しい変化には付いていけないわ。基本的には連続関数に対する積分ね。けれど、ルベッグ積分は激しい変化にも付いていける。この結果、ルベッグ積分なら至るところで不連続な関数でも積分出来ちゃうのね」
山田が相槌を打つ。
「そう言えば、五島先生、グラフを縦に切るか横に切るかで、内接する多角形と外接する多角形の性質が違うと説明していたなあ。その話かい?」
「ええ。関数の値が百や一万ぐらいの点のところで違っていても、たいした違いじゃないから同じ関数と見なすことにするなんて面白い発想だわ」
浜口は、メガトンと山田とで話が通じているのを感じ取る。
自分には理解不能だと思ったが、格好を付けて差し障りのない賛成意見を述べる。
「たしかに興味深い発想だ」
彩は納得できない。
「でも、どこかの一点で異なる値になる二つの関数は別の関数だわ。何か変だわ」
メガトンが明快に答える。
「彩の言う通り、違う関数よ。とくに連続関数でわね。でも、『少しぐらいの点で異なる値になる関数は、同じ関数』とみなしましょうと言うことよ。『細かいことは気にしないで無視して議論しましょう』なんて面白いわ」
浜口が異議を唱える。浜口は結構鋭いのだ。
「一点は少しぐらいだ。矛盾しているよ」
メガトンが即答する。
「連続関数が一点で違えば、その近辺でもずっと、つまり無限個の点で違う値だわ。だから、矛盾しないわ」
山田が補足する。
「メガトンの言っている通りだ。連続関数に限って言えば、ルベッグ積分でも、どこか一点で異なる値ならば同じ関数とは見なさないはずだ」
浜口は、山田やメガトンの言うことのイメージがつかめない。
具体例を要求する。
「無限個の点で異なる値になるけれど、同じ関数とみなせるのはどんな関数だ? 本当にあるのかい?」
反射的にメガトンが答える。
昨年の口頭試問でメガトンが高橋教授から教わった有名な関数だ。
「たとえば、有理数の点で値が0、無理数の点で値が1の不連続な関数。これは、有理数の点でも無理数の点でも、つまりどの点でも値が1の連続な関数と同じだとルベッグ積分では見なすわ」
山田が頷いて言う。
「有理数全体の長さは0だから、有理数の点での関数の値の違いなんか無視してよいと言うことか。メガトンの言うように確かにおもしろい」
彩は戸惑っていた。
──私の知りたいのは、どこが試験に出るのか。それを優秀な成績で突破するには、どう勉強をしたらよいかだわ。ヤマちゃんもメガトンも、何が面白いかを飽きもせず話合っている。私と人種が違うみたい。でも、二人とも少しは自分の役に立ちそうね。
ピンポイントの重要事項を覚え込んで、それを要領よく使いこなすのが良い成績につながると、彩はまだ信じて疑わないのだ。
『線形空間』の特別授業での本多准教授とメガトンとのやり取りや、高橋教授の小テストでのメガトンの手助けから、浜口は一つの結論を導き出していた。
──メガトンの数学に関する雑談をしっかり覚えておけば、口頭試問や試験で多いに役立つ。耳学問は偉大なりだ。テキストを読まないですむのは大助かりだ。俺は野暮な字食い虫じゃない。要領の良い好男子なのだ。
山田はメガトンと、『なぜ長さが0の点で値が異なる二つの関数を同一のものと見なしてよいか』を延々と議論している。
二人は楽しそうだ。
メガトンと話していると難解な学問だった数学が、いつの間にか面白くて楽しいものに変身するのを感じ山田は不思議だった。
だが、彩は、『くだらない議論を延々』と、もう二人を呆れたように無視している。
浜口は、この議論も何かの役に立ちそうだと、おとなしく耳を傾ける。
でも、ついにメガトンの早口に付いていけなくなった。
「メガトン、もう少しゆっくりしゃべってくれ! せめて句読点を付けてくれ。そんなに早口じゃ、嫁のもらい手がないぞ」
いつものようにメガトンが怒って見せる。
「余計なお世話だわ。チビで痩せっぽちの女の子が好きになる人だってきっといるわ」
山田がいつものように、くそ真面目な表情で言う。
「メガトンの言うとおりだ。けれど、いると実証するのは、かなり困難だ。皆無だろうからね。もっとも、いないと云う証明も不可能だ」
口には出さずに、彩は言う。
「ヤセチビちゃん、夢を追うのは諦めなさい。物好きは現れないわ。残念ね、メガトン。私の虜になっている人を一人ぐらい分けてあげられたら良いのにね」
容貌の話題は彩の鬱を吹き飛ばす特効薬だ。
淡い甘い香りが薄化粧した彩を包んでいる。
メガトンと山田のやり取りを耳にしながら、浜口は大きく息を吸い込む。
彩からの甘い香りを逃したくないのだ。
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