第11話 復活
後期の授業が始まってすでに1ヶ月が経った。
夜が一段と早く訪れるようになり、多摩川の土手を走る自転車は五時過ぎにはランプを付けている。
土手に沿って鵜の木学園の体育館がある。
高い天井が特徴だ。
バスケットボールのコートが四面ゆうゆう取れる広さだ。
但し、観客席はない。実用一点張りの無粋な造りだ。
床には赤、黄、白、緑のラインが整然と引かれている。
この体育館では赤い線がバドミントンのコートラインだ。
赤いバックバウンダリーラインとショートサービスラインの間で、天井からの照明に照らされメガトンが躍動している。
入学して1年半を経過したメガトンは数学の講義にもなれて心に余裕が生まれた。
体育の授業でバドミントンを選択したのだ。
バドミントンなら労せずして単位が取れる。
そうすれば、他の種目を体育の授業で選択するよりは数学に割く時間が確保できると期待したのだ。
メガトンは自分自身に言い訳をしていた。無理に自分に言い聞かせていた。
──クォーターの誘いに乗ってバドミントン部に参加したわけではないわ。体育の授業なら、再びバドミントンにのめり込んで数学をおろそかにすることはないはずだわ。
オランダ坂女子高等学校卒業以来、コートから遠ざかっていたものの、メガトンは素振りとランニングを欠かさなかった。
毎夜の素振りで、メガトンはラケットカバーをしたままラケットを鋭く振り抜く。強い空気抵抗を蹴散らした素振りだ。
シャトルとの距離感がしっくりしなかったメガトンだが、週一回1時間半の授業で勘を徐々に取り戻しつつあった。
メガトンの相手をしている長身の男子学生は、鵜の木学園バドミントン部のキャプテンだ。
部の監督でもあるこの授業の教官から、TA(Teaching Assistant)を依頼された学生だ。
他の学生は、コートの半面を使用して受講生同士で足を止めてわきあいあいと打ち合っている。
お正月の羽根つきと同じような動きだ。
TAは監督からメガトンの相手をするように指示されたのだ。
今は、ドロップとハイクリアを打ち合っている。
ときどき、低い弾道のドリブンクリアでTAはメガトンの対応を探る。
フォアは強いと見たTAが今度はバックを狙う。
素早く後ろに下がったメガトンは、柔軟な体を活かしラケットを頭上で鋭く旋回させる。
上半身が左側面に大きく傾く。しかし、左足で踏ん張るメガトンの腰は安定している。
左耳のあたりでシャトルを打つ音が小気味よく響く。
メガトンは、基本通り素早くホームポジションに戻る。
どのような場面でも、ネットを正面に見ているのがメガトンの特徴だ。
それをTAは即座に見抜く。
バックを攻めても色白の小さな体からスピード感に溢れるクリアがラウンドザヘッドストロークで返され、コート深くTAを後退させる。
ネット際でストンと落ちるドロップをすくい上げるTAは、メガトンがヘアピンを返すのが苦手なので何とか優位性を保っている。
中学、高校でバドミントンに夢中だったメガトンが一番苦手だったのがネットプレーだ。
メガトンはネットの上端を大きく見上げてプレーする。
それに比べ、長身のプレーヤーはネットの上に顔を出してプレーする。
たとえば、クォーターだ。
その差は大きい。
TAとメガトンの激しいラリーが続く。
舞うように素早く動くメガトンの一挙一動を腕組みした監督が食い入るように観察する。
二人はスマシュの練習に入った。
腕をしならせ全身で打ち抜くメガトンのスマシュは大きな角度で力強くTAを襲う。
手首の返しが柔らかく鋭い。
レシーブしやすい位置に猛スピードで飛んでくるシャトルをTAはネット際に切り返す。
ラケットを軽く当てただけで、シャトルはネットを瞬く間に超えストンと床に落ちる。
振り抜いたラケットの勢いに負けて一瞬バランスを崩すのがメガトン最大の欠点だ。
それにメガトンのスマシュはスピードがあり過ぎる。
軽く前に返されたシャトルをメガトンは追い切れない。
自分のスピードに完全に負けているのだ。
全力でスマッシュを打つばかりで緩急を付けられないのがメガトンだ。
TAはメガトンのスマシュを高く打ち返し、再度スマシュを打たせたい。
残念ながらその余裕がない。押されてたじたじだ。メガトンの逆を巧みに取って打ち返しているのでは決してない。
実のところネット際に返すのがやっとなのだ。
ラケットを振るメガトンの額から汗が噴き出す。
背中が汗でぐっしょり濡れている。
スポーツブラの背中の紐がくっきり浮かび上がっている。
色白のメガトンの顔は熟したトマトのように真っ赤だ。
足を止めて、蠅叩きのようなフォームでシャトルを打ち上げている横の二人は汗ひとつ掻いていない。
教官である監督が練習の中止を告げる。
授業の最後は整理体操だ。
ここでもきびきびした動きをメガトンは見せる。
指の先端までぴしぴしっと躍動している。
ラケットと汗拭き用のバスタオルを手に更衣室に移動するメガトンを見送りながら、監督がTAに尋ねる。
「あのチビ、どこの高校の出身か、ちゃんと聞いたか?」
「ええ、ちゃんと聞きました。オランダ坂女子高等学校だそうです」
「どこかで聞いた覚えがある校名だな」
「驚いたことに、深堀と一緒でした」
「今年入ってきたあのハイバックショットが得意なノッポの有望新人の深堀か?」
「そうです」
監督が戸惑いの表情でつぶやく。
「あのチビ、あれだけの技量を持ちながら、何故うちの学園のバドミントン部に来なかったのだ?」
「そのへん、部活のあと深堀に聞いてみます」
「是非そうしてくれ」
数日後、キャプテンであるTAがクォーターをつかまえる。
「監督に頼まれたのだ。林田のことを教えてくれ」
きょとんとして、クォーターは問い返す。
「そんな人、知りません。いったいどんな人ですか?」
「黒縁の度の強い眼鏡を掛けた大きな目の中学生みたいな女の子。オランダ坂女子高等学校の卒業だと聞いたけれど……」
クォーターが破顔する。
「それ、メガトン先輩だわ。そう言えば、林田さんだったわねえ。長崎には、『林田』や『深堀』の姓はとても多いのです。姓だけでは区別が付かないわ」
「メガトンって何だ?」
「メガネ豚の略です。みんな『メガトン』って呼んでいました」
キャプテンが怪訝そうな顔をする。
「深堀は、浪人して入学したのか」
「なぜ、そう思うのですか? 現役ですよ」
「でも、先輩って呼んでいなかったかい?」
「メガトン先輩は二年生。私は一年生」
キャプテンは驚きの表情を隠せない。
「あのチビが二年生だって!」
「メガトン先輩、かわいい坊やみたいですものね。大学生だとしたら、たしかに高々一年生ですよね」
「それもある」
「あと、何があるのですか?」
「二年生としたら、バドミントンから遠ざかって一年半以上のはずだ。そんなブランクはまったく感じなかった」
クォーターが目を丸くして言う。
「メガトン先輩、ひょっとしてコートで舞ったのですか?」
「不思議かい?」
「私、メガトン先輩とダブルスを組んで世界制覇を目差したかったのです。そのために、この学園に来ました。でも、先輩は『数学に専念する』と言って拒絶しました。私の夢はあっけなく消えました。もっとも、まだ諦めてはいません」
「林田は、高校でも活躍していたのかい?」
「いいえ、いつも控えの控え。でも、高校時代の監督がよく言っていました」
「何て?」
「監督の口癖でした。『あと5センチ背が高ければ県を制覇する。10センチ高ければ日本を制覇する。もし、闘争心を持てばだがな』と」
「闘争心がないって、どういうことだい?」
「先輩は丁寧に舞うようにラリーを続けるのです。基本に馬鹿みたいに忠実にね。それが大好きなのです」
「基本に忠実で悪いことはないと思うけれど、何が問題なのだい?」
「相手の動きを見て、相手の逆をつくようなことは絶対にしないのです。相手の打ちやすいところに淡々とシャトルを集めるのです。もっともメガトン先輩はド近眼だから、相手の動きなんか見えていないのかも。……もしかすると、逆をつくなんて、卑怯なことだと罪悪感さえ持っているのかも知れません」
「それじゃあ、試合では勝てないな」
「苦し紛れの小細工を弄せばメガトン先輩には勝てます。試合で負ける気はしません。でも、とてもタフな正確無比な練習相手です」
「林田は単にラリーを楽しんでいるみたいに聞こえるけれど」
「まさにそうです。試合には出たがりませんでした。いやいや試合に出ると、相手がミスするまで淡々とラリーを続けます。正々堂々とね」
キャプテンが素朴な疑問を浴びせる。
「勝負に無頓着な人と組んでも良いことはないと思うけれど、一体どうして林田をダブルスのパートナーにしたかったのだい?」
「あのスマシュはとても魅力的です。私のネットプレーと組み合わせたら破壊力抜群になります。世界制覇も決して夢ではありません」
「監督も同じようなことを言っていた」
「何てです?」
「ダブルスなら即戦力だ。『入部するように勧誘しろ』ってうるさいくらいだ」
「もう一度、話してみます。けれど、今の所、私には説得は無理だと思います。今のメガトン先輩は数学に取り憑かれています」
「高校時代からそんなに数学ができたのかい?」
「おつりの計算もできない生粋の数学音痴でした」
キャプテンが黙り込んだ。
これ以上、話すことがなくなったのだ。
素人相手でつまらないとTA就任を渋っていたキャプテンは体育の授業が楽しみになった。
メガトンの強烈なスマッシュをリターンする喜びは絶大だった。
だがジャンピングスマッシュには手こずった。返しやすいところに打ち込まれているはずなのに、うまくリターンできない。
キャプテンは自分のレシービング技術に問題だあると嘆いた。実際は嘆く必要なんかなかったのだ。メガトンのジャンピングスマッシュの威力が桁外れだけだったのだ。
バドミントンの魅力を再認識させ、入部させようと、監督もキャプテンも、メガトンの力強く舞うようなフットワークを見守るのだった。
そんなことには無頓着に、メガトンはうれしそうにシャトルを追う。
斜めの白いストライプが鮮やかな濃紺の半袖短パンはオランダ坂女子高等学校バドミントン部のユニフォームだ。
袖口から伸びた細い腕、躍動する筋肉質の太腿は薄いピンク色に染まっていく。
そして、舞うように動くメガトンの顔はすぐに真っ赤になる。
メガトンは顔の皮膚が極端に薄い。
激しく動くと血流が顔の皮膚全体を赤く染めるのだ。
大きな童顔をのせた華奢な上半身と、トップアスリートのような下半身は別人の体のようだ。
それが奇妙に一体化して華麗に舞う。
しかし、その舞う美しさを本人はまったく気が付いていない。
ひたすらシャトルを追い、素早く綺麗に相手の手の届くところに打ち返す。
おおきな瞳が大きな黒縁のメガネの奥でキラキラ輝いている。
専門書に没頭している時と同じ表情だ。
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