第10話 観音様
九月最後の月曜日、後期講義の始まりだ。
まだまだ暑い。
その日の講義が終わり、山田、浜口、彩、メガトンが強い西日を首筋に浴びながら、学園から東急多摩川線の鵜の木駅に向かっている。
浜口はどうメガトンに話を持ち出そうかと悩みながら歩いている。
しかも、彩や山田に聞かれたくない話だ。
深刻そうな表情だ。
いつもなら浜口は多摩川線終点の多摩川駅で降り、東横線を利用して武蔵小杉駅に出て、そこから南武線に乗り換えて家に帰る。
多摩川駅に出るのは山田も彩も同じだ。
鵜の木駅のプラットフォームは線路を挟んで上下線で分かれている。
だから、蒲田駅に向かうメガトンは踏切前の多摩川駅方面改札口で他の三人と分かれ一人になるのが通常だ。
しかし、今日は浜口がメガトンと一緒に多摩川線の踏切を渡った。
赤い定期入れを手にしたメガトンに続いて浜口が自動改札機を通る。
肩が落ち背が幾分か丸まった浜口は、まるで少女を狙う変質者のような目でメガトンを追う。
メガトンの周りの人は胡散臭そうに浜口を注視する。心配そうにメガトンを見る。
それには気付かず小さな階段を登ってプラットフォームに出たメガトンが浜口に尋ねる。
「シンちゃん、今日はどこかに用事があるの?」
「ちょっとね」
「なんかいつものシンちゃんと違うみたい。妙に真面目過ぎる雰囲気だわ」
浜口にいつもの調子が戻る。
「失礼だぞ。俺はいつも真面目だ。ところで、再試験の結果が発表されたね。メガトンの不合格はベクトル解析だけかい?」
「ええ。シンちゃんは、線形空間論ね。結局、本多先生、再試験はしてくれなかったのね」
「それだ。二人で本多先生の研究室に行こうよ」
澄まし顔で問い掛ける浜口にメガトンが驚く。
「えっ? 何の用事」
「メガトンは論理的な現代数学は得意だ。でも、煩雑な公式や記号だらけのベクトル解析は向いていなそうだ。だから、本多先生にうまい学習法がないか訊いてみたらどうだろう。ついでに、俺の線形空間論も何とかして欲しいし……」
メガトンは浜口の本音に気付く。
さりげなく浜口の頼みを断る。
「ベクトル解析は本多先生の講義ではないわ。講義と関係ない先生に相談するなんて筋違いだわ」
十分に予期された回答だ。
素早く浜口が反論する。
「本多先生はメガトンのチューターだ。そうだろう」
「そうよ」
「だとしたら、相談しても何もおかしくない。それに本多先生、『困ったことがあったらいつでもいらっしゃい』って言っていただろう」
踏切の警報が鳴り出した。蒲田行きの電車が右方からプラットフォームに近付いてきたのだ。
二人の会話が途切れた。
声を張り上げても、ブレーキを掛けながら入構する電車の音で、聞き取りにくいのだ。
どう回答したものかと考えながら、メガトンが電車に乗り込む。
追いかけるように浜口があわてて続く。
電車が動き出した。
早速、浜口が口を開く。強引だ。
彩には決して示さない態度だ。
「さっきの話だけれど、俺も一緒に行くから本多先生にすぐにでも相談したらいい。明日はどうだい?」
「明日は講義がない日だわ。わたし達お休みの日よ」
「だからって学園に来てはいけないという法はないさ」
「でも」
「でもも、へったくれもない。明日に決めよう。早い方がいい」
蒲田駅までの10分足らずの乗車の間にメガトンは浜口の強引さに負けていた。
メガトンは、なぜ浜口がこんなに強引なのかを理解したからだ。
──シンちゃんはわたしの心配なんかしていないのだわ。美人のお姉さんみたいな本多先生のところに付いて行ってほしいだけなのね。きっとそうだわ。だったら、付いていってあげよう。何か面白いことが起きそうな気がするもの。それにしても、美人はとても無理だとしても、せめてわたしのことを可愛いと思ってくれる人はいないのかかしら? でも、所詮ははかない夢ね。わたしもママさんのように美人で頭の良い子に生まれたかったな。
翌日、浜口がメガトンの代わりに偉そうに胸を張って本多准教授に訴える。
「メガトンはベクトル解析にてこずっているようです。再試験も不合格でした。俺だってややこしい公式を覚えるのに苦労したのです。だから、メガトンが手に負えないのもおかしくありません。何かうまい手はないかと相談しに来ました。ご指導のほどよろしくお願いします」
深々と頭を下げる浜口に笑いながら本多准教授が二人にコーヒーを入れる。
ピンクの桜の花びらの模様が可愛いコーヒー茶碗だ。
「お砂糖かミルクがいる?」
浜口はメガトンのために研究室を訪れたと言い張りたい。
本多准教授に突っ張って見せる。
「俺はブラックがいいな。お茶菓子にチョコレートがあったら幸いです。ケーキでも歓迎です」
「わたしはミルクだけではいいわ。あまり太りたくないの」
「メガトン、ちょっとは太った方がいいぜ。そうしたら少しは大人に見えるかも」
「わたしは立派な大人。ナイスバディよ。でも、見せてあげない」
「誰がみたいものか。吐き気がするようなことを言うなよ」
仲の良い兄妹がじゃれ合うようないつもの口喧嘩だ。
二人との年代差を感じ少し寂しいまだ独身の本多准教授が笑顔をつくり浜口をたしなめる。
「シンちゃん、女性に向かって失礼よ」
本多准教授はメガトンを喜ばすコツを掴んだようだ。
「女の子に向かって失礼よ」
とは、決して言わないのだ。
メガトンがお高祖頭巾代わりの黒髪を小さな両手で押さえ嬉しそうだ。
「そう。わたしは大人の女性。シンちゃん、失礼だわ」
「先生は誰にでも、特に子供に優しいですね」
「シンちゃんは先生の優しさにつけ込んで、単位を落とした『線形空間論』を何とかして欲しいのでしょう。わたしを出しに使うなんて卑怯だわ」
「俺は卑怯じゃないよ。純粋にメガトンを心配しているのだ」
本多准教授が笑うと、目が消えて上向きの綺麗な曲線が形の良い眉の下に表れる。
浜口がポカンと口を開けて、綺麗なまつげに覆われた二本の曲線を惚れ惚れと眺める。
しかも、鼻筋が通っているので観音様のように優しい笑顔だ。
浜口のたくましい唇からよだれが落ちそうだ。
浜口の恍惚とした表情に照れながら口紅に彩られた本多准教授の唇が開く。
「まずメガトンのベクトル解析から始めましょう」
メガトンは素直な態度だ。
「よろしくお願いします」
「メガトンは公式を覚えるのが苦手なの? それとも覚えた公式を使うのが苦手なの? ひょっとして両方かしら?」
「覚えるのが苦手なの。ベクトル解析の公式はごちゃごちゃし過ぎだわ」
本多准教授は立ち上がりホワイトボードに向かう。
黒いマーカーでホワイトボードに全微分の公式を書く。
そしてメガトンに問い掛ける。
「これは覚えていられる?」
「ベクトルの内積の形なのね。これは大丈夫だわ」
続いて本多准教授は微分形式とその簡単な法則を説明する。
メガトンが大喜びで感想を述べる。
「公式や定理が簡単なルールからみんな導けるのね。このルールさえ覚えていれば何とかなるのなら頑張るわ」
「ベクトル解析のいっぱいある公式や定理を一つ一つきちんと覚えられる人は、そっちの方が便利ね。でも、メガトンは微分形式の知識で公式を作りながら試験をうまく切り抜けた方がよいかもね」
いきなりの依頼にすらすら応える本多准教授を浜口は驚愕の目で見詰める。
──先生は美しいだけではない。聡明だ。聡明過ぎる。俺とは段違いだ。
メガトンから浜口に視線を移し、本多准教授が問い掛ける。
澄んだアルトの声が浜口の耳に心地よい。
「シンちゃんは、『線形空間論』をまじめに勉強したの?」
「きちんと勉強しようと決心しました。それで、教科書を最初から最後まで丁寧に読み通しました。俺には初めての経験です。本当です。勉強したとの充実感がありました」
「いつもはどうやって勉強しているの?」
「試験に出そうな所を予測して、関連する公式や定理を覚えていました」
「それって、ひょっとして一夜漬け?」
浜口は正直だ。
悪さを見付けられたいたずら小僧のように首をすくめて答える。
「それに近いです」
メガトンが浜口に尋ねる。
「シンちゃんはきちんと勉強し直したいの? それとも単位を取るチャンスが欲しいだけなの? 男らしくはっきりしなさい」
返答に窮した様子の浜口に本多准教授が助け船を出す。
「単位が欲しいだけなんて、シンちゃんは言わないわよね。男ですものね」
「そう。俺は純粋に『線形空間論』を極めたいのだ。そして、先生のところで卒研に着手したいのです」
思わずそう言って浜口は顔を赤らめた。
余計なことを口走ったと、後悔したのだ。
浜口の思いを察知した本多准教授だが、気付かない振りをしてさりげなく言う。
「それじゃあ、ゼミ形式でお勉強会をしましょう。説明者は毎週シンちゃんよ。当事者ですものね」
「説明者って言われても……。俺いったい何をすればよいのですか?」
「前期の講義の内容を私に説明してくれればいいの。ホワイトボードを使ってもいいわ。もっとも、演習問題は私には不要よ。シンちゃんの講義内容に、私が質問を浴びせるわ。その質問にもしっかり答えてね」
研究室で二人きりになれると、浜口は舞い上がる。
クォーターや彩が一緒ならもっとよいのにと夢心地だ。
それに、本多准教授が冷や水を浴びせる。
「でも、おばさんと二人だけじゃ、シンちゃんは気が滅入るわね。そうだわ、メガトンもオブザーバで参加しない? きっと面白いわよ」
「わたしは何をすればよいの?」
「シンちゃんがきちんと理解しているか、いろいろ質問して欲しいの」
「わたし、そんなことできるかしら?」
「大丈夫。でも、八百長は無しよ」
浜口が尋ねる。
「先生、八百長って何ですか?」
「メガトンとシンちゃんとであらかじめ質問と解答を示し合わせていることね。シンちゃんが自力で頑張ること。それが大事だわ」
もしかすると試験を突破するより、先生の提案を実行する方が負担が重いのではと、浜口はやっと気が付く。
逡巡する様子をメガトンが嗅ぎ取って言う。
「面白そうだわ。シンちゃん、やろうよ!」
本多准教授は楽しそうだ。
笑みを浮かべて確認する。
「やる、やらないわ、シンちゃんの好きでいいのよ。でも、やり始めたら最後まで頑張って欲しいわ。どうする?」
本多准教授にいたずらっぽい笑顔で見詰められた浜口は思わず口走る。
「はい。頑張ります」
この反射的な浜口の答えが、講義を受けて試験を切り抜ける方がずっと楽だと思い知る始まりだった。
観音様は毎週笑顔でやさしく厳しかった。
だが、浜口もしたたかだった。
観音様の質問にしどろもどろだった浜口は、一回目のプレゼンテーションですぐに悟った。
──メガトンは悩むべきところでしっかり悩んでいる。俺は悩まずにただ通り過ぎるだけだ。その差はとてつもなく大きい。
一回目のプレゼンテーションが終わり本多准教授の研究室を出た途端にメガトンに頼み込む。
諦めも要領もよいシンちゃんらしさを遺憾なく発揮した。
「メガトン。想定質問を作ってくれ。二人で協力して頑張ろう!」
「あら、駄目よ。本多先生、八百長は駄目って言っていたわ」
「八百長とは、先生の前でメガトンが初めて質問した振りをして、それに俺が答えることだ。二人で協力して行う予習は八百長じゃ決してない」
「でも、先生は自力で頑張るように言っていたわ」
「予習をしっかりやって、先生とより高度なディスカッションをすべきだ。先生はきっとそれを期待しているのだ。そうすれば、メガトンだって、もっともっと数学を楽しめる。そう思うだろう」
本多准教授も優しいだけの世間知らずの馬鹿ではない。
二回目からすらすら質問に答える浜口に笑いをかみ殺し、あえて追及はしなかった。
手の内を見透かされているとも気付かず、浜口は名調子で気持ち良くプレゼンテーションを続けるのだった。
本多准教授からの質問にもメガトンの予想が良く当たるとニンマリして元気よく答える。
メガトンは自分からは質問をしない。
いや、八百長がバレるのが怖くて、質問できないのだ。
でも、本多准教授から時々意表の質問が飛んで来る。
「メガトンは、どう思うのかしら? 来週までに考えてみて」
プレゼンテーション内容と直接は関係ない高度な質問だ。
するとメガトンは考え込む。
本多准教授は、『どんな答えを捻り出す』かと、わくわくしながらメガトンを見守っている。
浜口は自分への質問ではないと知らん振りだ。
それを本多准教授は咎めない。
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