第9話 合否
前期試験の合否結果が科目ごとに高い天井のホールの掲示板に貼られている。
橙色の細長い用紙にプリントされた学生番号の横に合否を示す『○』や『×』が並ぶ。
試験後すぐに採点する先生と、ぐずぐずしている先生とで掲示されるタイミングは大幅に違っている。
しかし、お盆も過ぎ、ようやく出そろったようだ。
万事そつのない彩は山田と同様にすべて合格だ。
彩の心配は専門科目では満点がどれも取れていなそうなことだ。
しかし、単位が取れない心配なんかまるでしていない。
一方、相変わらず煩雑な公式が覚えられないメガトンは基礎共通科目のベクトル解析、物理数学、常微分方程式が不合格だ。
観音の本多准教授の『線形空間論』が不合格だと分かり、しょげる浜口を彩が面白半分に慰める。
「シンちゃん、本多先生が大好きですものね。不合格でショックね。でも、不合格だったおかげで、また先生の講義が受けられるはずね。おめでとう」
「俺一人だけ不合格だなんて恥ずかしいよ」
彩が追撃する。
「来年も憧れの本田先生の講義を受けられるなんて最高じゃない。ひょっとして来年だけではなく再来年も受講する気かしら?」
山田が遠慮のない意見を吐く。
「きっとシンちゃん、先生に見とれていて講義が耳に入らなかったのだ。ちゃんと真面目に勉強したのかい?」
「したさ。先生に笑われないようにと、しっかり最後まで教科書を読んだのだ。俺には珍しいことだ。初めての経験だ。充実感があった。でも、うまく解答できなかった」
彩が美しい黒髪を右手で上品にかき上げながら嬉しそうに言う。
出来の悪い同級生をからかうのが大好きなのだ。
「本多先生、約束通り講義中の演習問題をそのまま試験に四題も出してくれたのよ。だから、六題中四題は出来たはずね。それなのに、どうして不合格になったの? 私、まったく理解できないわ」
「俺、その話をすっかり忘れていたのだ。だから、珍しく『線形空間論』は一所懸命真面目に勉強したのだ。他の専門科目は単位が取れさえすればよいと、要領よく準備したのだ。だのに真面目に取り組んだ本多先生のをしくじるなんて何てことだ」
浜口の表情を読み山田が鋭く問う。
「シンちゃんは嘘が下手だな。実際は忘れてなんかいなかったのだろう?」
今度は彩が不思議そうに問う。
「もしそうだったら、要領の良いシンちゃんなのに、どうしてヤマちゃんから解答をもらって準備しなかったの? それを丸暗記しておけば四題は出来たはずだから合格よ。もちろん私は自力で解いたわ」
浜口の代わりに山田が笑いながら答える。半分冗談のようだ。
「きっとシンちゃん、美人の本多先生の試験は正々堂々と正面突破したかったのだろう。裏目に出たけれど良い心がけだな」
彩が皮肉な調子で続ける。
「それでは鵜の木学園に美人の先生が増えたら、シンちゃん困るわね。そうしたらどうするの? 卒業できなくなるわよ」
「そんな心配はいらないよ。俺、本多先生より美人の先生なんて考えられないよ」
彩が呆れかえったように注意する。
「大事な話はしっかり覚えて準備しておかなければいけないわ。メガトンだって合格だったのよ」
引き合いに出されたメガトンがいささかむくれたようだ。
小さな赤い上唇が引きつった。
大きな黒い瞳が黒縁の眼鏡越しにきらりと光るのを感じながら山田が浜口を持ち上げる。
「シンちゃん、無事に卒業できそうだな。なにしろクォーターと一緒に難関の高橋先生を無事に切り抜けたのだ」
彩は浜口に手厳しい。
「その代わり基礎共通科目はすべて不合格だわ。そっちはどうするの? もっとも基礎共通科目はいつも再試験があるけれどね」
浜口は悪びれずに答える。
「基礎共通科目は再試験があるから、不合格でもなんとかなるさ。基礎共通科目は公式さえ覚えておけば良いし、再試験の方が通りやすいとの評判だしね。物事は『選択と集中』が重要なのだ。これも高等な試験対策の1つだ」
秀才の彩は浜口が理解できない。
「再試験なんかに頼らず、一発合格の方が無駄がないじゃない」
「俺、『解析学特論』の試験準備に忙しくて、基礎共通科目には手が回らなかったのだ。なにしろ高橋先生、毎回小テストをやるのだぜ」
彩が疑問を口にする。
「でも、なんか変だわ。落第組で高橋先生の試験を通ったのはシンちゃんだけなのでしょう。最難関は突破して、ほかの楽な科目は落とすなんて考えられないわ。何か悪いことしていない? まさか試験の時クォーターの隣に座ったのではないでしょうね。カンニングは立派な犯罪よ」
その美人のクォーターからの質問に格好良く答える準備に忙しくて他の科目の試験勉強がおろそかになったとは、流石の浜口も口にしにくい。
それに出来の悪い弟を見下すような彩の態度に反発心がむらむらと湧いた。
「だけど、俺、あの強面の高橋先生に大学院進学を勧められたのだぜ。俺って意外と見所があるらしい」
彩は浜口を受け入れない。
険のある目で言う。
「シンちゃんの法螺なんて、私、聞く気はないわ。嘘も休み休みにしたらいいわ」
「俺、嘘なんか付いていない。現代数学を理解するコツを遅ればせながら会得したのだ。もっとももしかするとメガトンのおかげかも」
こう言った瞬間、浜口は決心した。
──俺は絶対に大学院に進学してみせる。卒研も修論も本多先生の所にしよう。そうすれば三年間、本多先生の爽やかなアルトの声が身近で聞ける。それに女同士だ、クォーターも本多先生のゼミを1年遅れで選ぶかも知れない。
一方、彩はメガトンが頼りにされ褒められたようで面白くない。
メガトンと浜口を批難する。
「昨年合格の科目を復習したって成績は変わらないわ。それなのに、シンちゃんのお世話に時間を取られて単位をたくさん落とすなんて、メガトンはお人好し過ぎるわ。シンちゃんももっと自立して、メガトンに迷惑を掛けないようにすべきだわ。ふたりとも一体何をやっているの!」
山田が話題を微妙にずらす。
いつものさりげない気遣いだ。
「メガトンの予想問題、そんなに高橋先生の試験に役立ったのかい?」
「俺、メガトンに感心している。どうやったら、あんなにうまく予測できるのか不思議なのだ。秘訣が何かを知りたいのだけれど……」
さりげなくメガトンが答える。
「秘訣なんかないわ。自分が今までに考え込んだところを思い出して問題の形にしただけだわ。それに、わたし、迷惑なんかしていない。高橋先生の予想問題を作るの、とてもおもしろかった」
無邪気なメガトンに反発した彩が、痛烈な一撃を浜口にぶつける。
「いくら観音の本多先生でも、多分再試験も再履修もしないわよ、きっと。……来年、仲良しになったクォーターと一緒に講義を受け直すのね。シンちゃん、とってもとっても幸せね」
浜口が顔色を変えて問いただす。
「なぜ無いのだ」
「そんなこと常識よ」
「どうして?」
「受講者ひとりのために、シンちゃんは余計な負担を憧れの先生に強いる気なの? そんなことを期待しているなんて最低だわ」
言い負かされた浜口に山田が助け船を出す。
「シンちゃんは本多先生に期待されているみたいだ。だから、勉強し直す機会をわざわざ作ってくれたのだ。そうに違いない」
メガトンが山田の意見に頷いて言う。
「線形空間はいろいろな分野の基礎になる概念ね。本多先生は何度もそうおっしゃていたわ。折角機会をもらったのだから、しっかり勉強し直した方がいいわ。シンちゃんは直感が働くタイプだから、少し頑張れば何とかなるはずよ」
彩は、他の三人がつるんで話しているようで面白くない。
思わず嫌みを込めて発言する。
「無理を承知で本多先生に再試験をお願いしたらいいわ。ついでに再試験問題の予測をメガトンに頼んだら。……もっとも、三科目不合格のメガトンも、シンちゃんと同様に再試験の準備に忙しいでしょうけれどね」
きちんと理解した姿を本多先生に見せたい浜口だが、一人では壁を乗り越える自信がない。
それに美人の先生の研究室に不細工な男と自覚している自分が一人のこのこと出かけるのにも抵抗がある。
浜口は彩の嫌みを親切なアドバイスと解釈することにした。
でもどう行動したら良いか分からない。
浜口は思わず口走るところだった。
「本多先生への再試験のお願いに、メガトン、付き添ってもらえるかい? 一人で行くのは照れくさいや」
しかし、浜口は思いとどまった。
──頼みに行かなくても、本多先生は優しいから再試験のチャンスをくれるかも知れない。でも本多先生が再試験のチャンスをくれたとしても準備する時間が足りないな。それに彩の言う通り、メガトンだって自分の再試験の準備で忙しくなるはずだ。ここは自制しよう。後期に再履修の時間をとってもらうのがベストのようだ。
こうして浜口はメガトンと同様に基礎共通科目の再試験の準備にまず取り組み始めた。
四年で無事に卒業するためには、できる限り不合格科目を減らす必要があると、浜口もメガトンも自覚しているのだ。
彩は一年後輩のクォーターが浜口よりも気になる。
美人で秀才でバドミントンの強豪とのクォーターの噂に、一科目ぐらい落としていればと変な期待をしているのだ。
秀才美女と自認する彩がメガトンにさりげなく尋ねる。
「クォーターは長崎に帰ったの?」
「試験が終わったら、すぐに帰省したわ。母校のバドミントン部の後輩を鍛える約束があるみたいだったわ」
浜口が驚いて尋ねる。
「鵜の木学園には再試験の制度があるのをクォーターは知らないのかい? それじゃあ、みすみす再試験のチャンスを逃してしまう」
「同じ高校出身でもクォーターはわたしとは全然違うわ。不合格の心配なんかまるでしていないのよ」
彩が悔しそうに言う。
「いい度胸ね。でも大学は高校とは違うわ。全部合格なんて滅多にないわ。そうでしょう、シンちゃん」
浜口に代わってメガトンが答える。
「わたし、それが心配だったから念のために確かめたの。専門科目と基礎共通科目は全部合格だったわ。さすがにオランダ女子高等学校始まって以来の秀才との評判通りよ」
山田がメガトンに尋ねる。
「クォーターに頼まれて確かめたのかい?」
「そんなことクォーターはわたしに頼まないわ」
物知り顔で浜口が言う。
「クォーターがメガトンに頼むのは、『ダブルスのパートナーになってくれ』だな。熱望しているみたいだぜ。そのためにクォーターはわざわざ長崎から鵜の木学園に来たのだろう。良い返事はしたのかい?」
「残念だけれど、わたしは秀才の彩やクォーターとは違うの。数学以外に時間を割くゆとりは全くないわ。それにバドミントンだって、わたしに才能があるなんて、とっても思えないわ。後輩のクォーターにだって負け続けていたのよ」
どこか悲しようなメガトンに山田が問う。
「本当はクォーターの夢のお手伝いをしたいのじゃないのかい?」
「そうね。わざわざ長崎から来てくれた後輩に門前払いですものね。とてもすまないと思うの。でも、どう考えてもわたしには無理だわ。一つのことも満足にできない人間に、二つのことを求められても切ないわ」
彩が呆れたようにアドバイスする。
「自分のことすら満足にできないメガトンが他人の心配をする必要はないわ。クォーターの夢なんかに付き合っていたら身の破滅よ。感傷に浸っていないでしっかりしなきゃ! 悲劇の王女様ぶるのはメガトンには似合わないわ」
山田は彩が正論を述べていると感じた。
だが、メガトンが『後輩の期待に添えない』と悩んでいることを知り、より親近感を感じるのだった。
浜口も彩と同感だ。
予想問題を提供してくれないメガトンなんて、浜口には全く価値がないのだ。
「俺も彩に賛成だ。羽根つきなんかに付き合う必要はないよ。メガトンは数学に専念すべきだ。……お願いだ。ヤマちゃんが言っているように、みんな一緒に四年で卒業しようよ」
浜口の正直な発言を聞いて、
──シンちゃんの他人頼りは直らないわ。
と彩は笑いを漏らした。
メガトンは『二つのことは同時にできないお馬鹿さん』と浜口にけなされたように思った。
不可能とほとんど諦めてはいるが、メガトンだって本音は両方とも頑張りたいのだ。
そのころ、母校の体育館で真っ白なシャトルを小気味よく打ち返しながら、メガトンをダブルスのパートナーにするのにはどうしたら良いかとクォーター悶々と悩んでいた。
もっとも、優秀な成績ですべて合格だったクォーターには浜口やメガトンのような学業上の悩みはない。
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