第8話 疑惑

 7月に入った。

 だが梅雨明けにはまだ間がありそうだ。

 多摩川の広い河川敷のグラウンドに砂埃が舞うのはまだ少し先のようだ。

 高橋教授は小テストの解答用紙をパラパラとめくっている。

 予想通り出来は悪い。

 けれど、高橋教授はがっかりはしていない。

 理解度を確かめるための小テストではない。

 真剣に深く考えてほしい課題を学生に明示するのが高橋教授の主な狙いだからだ。

 即答なんかまるで期待していないのだ。

 それに高橋教授は面倒なことは大嫌いだ。

 当然採点もしていない。

 答案用紙をめくる高橋教授の手が止まった。

 ほとんど白紙回答の中で今回も一人だけ際立って良くできた学生がいた。

 『浜口』だ。

 学生番号を見れば浜口が昨年度単位を落とした学生なのはすぐ分かる。

 高橋教授は怪訝そうな表情で研究室の隅にある黒い金庫のダイヤルを腰を屈めて回す。

 成績に疑義を申し出た学生に対処するため過去5年間分の試験の答案用紙を金庫へ保管することが各先生に義務づけられている。

 金庫の中から昨年度再履修の答案用紙を引っ張り出す。

 高橋教授の記憶通り、『○×』問題に対し浜口の解答は生意気にもすべて『○』だった。

 厳つい顔を更に厳つくし高橋教授は考え込む。

──俺の講義が際立って良いから、この学生は飛躍的に進歩したのだろうか?

 もしそうなら、他の学生だって長足の進歩を示すはずだ。

 しかし残念ながら、そんな気配は小テストの結果からは感じられない。

 そう言えば小テストを始めたのは山田という学生に、『このままでは浜口は単位が取れないまま退学に追い込まれます。何とか勉強する気にさせて欲しい』と頼み込まれたのがきっかけだ。

 あの二人、何か結託をして俺をだましているのではないのだろうか?

 絶対に俺は、そんなことは許さない。

 でも、どんな悪さが可能なのだ。

 浜口は最前列の中央の席に座っている。

 カンニングをしていれば、いくら俺でもすぐ気が付くはずだ。

 何か不正をしているとすれば、講義の始まる前だ。

 そう言えば小テストの問題は研究室の机上のパソコンで作成し、講義用のノートパソコンに移して保存している。

 これらはすべて俺の研究室で行っている。

 だから、他人があらかじめ内容を知ることは不可能だ。

 だが待てよ。俺のパソコンはネットで外部につながっている。

 ひょっとして、ネット経由でこれが盗まれているのでは?

 ここまで思案して高橋教授は決心した。

 外部との接続をすべて切ったノートパソコンで小テストの問題を直接作成した。

 しかし、その後も浜田は図抜けた答案を提出し続けた。

 しかも、高橋教授が見たところ、浜口はカンニングをしているわけではなさそうだった。

 高橋教授は、前期末試験の問題を昨年以上に気合いを入れて作成し始めた。

 浜口の学力向上が本物なのか、本物だとしたらどうやって急速に力を付けたのかを知りたいのだ。

 今度こそ全部『○』作戦は許さないと、高橋教授は正しい解を複数の候補から選択する四択問題を採用した。

 しかも、四つともすべて間違いの場合は、間違いの例を記述させることにした。

 いずれの問題も丸暗記タイプの学生には難解だ。

 だが、疑問を感じとり、それを自力で解消してきた学生には経験済みの容易な問題のはずだった。

 高橋教授はいつになくわくわくしながら前期末試験の採点に臨んだ。

 その結果、際立って良く出来ている学生が二名いた。

 しかも、二人の答案は酷似していた。

 四択問題での間違いの例はいくつもの答えが考えられる。

 しかし、深堀美紀と浜口真一の答案はすべて同一だった。

 まるで相談して吟味し回答したように見える。

 高橋教授は二人の答案を見比べながら考え込む。

 だが、考えていても真相は見えない。

 二人を個別に呼び出すことにした。

 まずは深堀美紀との面談だ。

 最初に、時候の挨拶代わりの質問だ。

「深堀さん、解析学はおもしろいですか?」

「高校の微積分と難しさが違っていますがおもしろいと思います」

「どう違うのかな?」

「高校のときは公式を正確に覚えて間違いなく使えるようにするのが大事だったと思います。でも、大学の解析学は『丸暗記』では通用しないと実感しました」

 天然パーマがよく似合うクォーターの澄んだ目をしっかり見ながら高橋教授は質問を続ける。

「テキストに使っている高木先生の『解析概論』は読み応えがあるかな?」

「あり過ぎます。でも、何十年も前に書かれたらしいのに、内容がとても新鮮です。文体は古いですけれどね」

 クォーターのはきはきした解答に高橋教授の厳つい顔が緩み始めている。

 朴念仁も美女には甘いのだろうか。

 高橋教授は、『解析概論』の著者である世界的な大数学者と最初に認められた日本人『高木博士』の大ファンなのだ。

 ここで、かねての疑惑を解明しようと質問を重ねる。

「難解な本と言うわりには良く理解しているみたいだけれど、何か秘訣はあるのかな?」

「とても良い先輩がいます。いろいろ教えてもらって大助かりです」

「先輩って誰だい?」

「先生の講義のときに私の隣に座っている浜口先輩です。でも林田先輩をはじめみんな、『シンちゃん』と呼んでいます」

「深堀君はメガトンを知っているのかい?」

 クォーターが驚きの表情で問い返す。

「メガトン先輩とは高校時代同じバドミントン部でした。私、メガトン先輩とダブルスを組みたくて鵜の木学園に進学したのです。二人で世界チャンピオンを目指したかったのです。……メガトンは高校時代からの先輩の通称です。でも、先輩の通称までどうして先生はご存じなのですか?」

 奇妙な女の子だからよく覚えているとは流石に答えにくい。

 高橋教授は渋面をことさらに造りながら言う。

「メガトンはまれに見るほど見所のある学生だ。なかなかにセンスがいい」

 クォーターは高橋教授が理解できない。

「顔を隠した黒髪と大きな黒縁の眼鏡の一体どこにセンスを感じるのですか? 普通にしていれば可愛い女の子なのに勿体無いです。私は、メガトン先輩のセンスの無さに呆れているのです」

「いや、容姿の話じゃない」

「それではセンスがいいのはどこですか?」

「あの子の数学に対するセンスは際立っている。とくに論理的な思考は先天的なものがある。もっとも本人は気付いていないようだけれどね」

 高橋教授の言葉にクォーターは忽然と真相を悟る。

「私の質問に即答できないときでも浜口先輩は一週間後には自信満々に暗記調の口調で答えてくれました。バックに山田先輩がいるのではと思っていたのですが違っていたのかも知れません」

 二人だけ出来が良かった理由が判明しそうだと、高橋教授は珍しく笑顔を見せる。

 あとは浜口自身に確かめればよい。

 クォーターと入れ替わりで研究室に入った浜口の心臓が音を立てている。

 初めて美人過ぎる彩と話をしたときのように緊張しているのだ。

 高橋教授は浜口の緊張を和らげるような質問を仕掛ける。

「君がシンちゃんか。メガトンが君のことを投げやりな態度だけれど直感力に優れた人だと褒めていたよ。自分でもそう思うかい?」

 らっきょうのような浅黒い浜口の顔が緩んだ。

「俺の直感はただの思いつきです」

「メガトンは違うのかい?」

「俺と同じくらいメガトンは数学音痴だと去年までは思っていました。でも、今は違います。

 俺の学友も言っていました。『メガトンはどうしてあんなに深いところまで掘り下げられるのか不思議だ』って。

 言われてみたら確かにその通りです。何でもないようなことに真剣に悩んでいる姿が恐ろしいくらいです。もっとも計算が苦手なのは俺と同じ、いやそれ以上です」

「どうしてそんなことに気付いたのだい?」

 正直に答えようかどうかと、浜口は迷った。

 ついさきほどクォーターも面談を受けていたのが浜口を決心させた。

「先生の単位を去年、俺、落としました。それでメガトンの一年後輩の深堀さんと講義を一緒に受けるはめになりました」

「いつも君の隣に座っている西洋人ぽい容姿の女の子だな」

「そう。深堀さんは俺にいろいろ質問するのです。けれど、俺、全然答えられなかった」

「今は答えられるのかい?」

「先生が授業中に小テストをやりそうだからと、仲間に予想問題を作ってくれるように頼みました。だって、後輩の深堀さんからの質問対策をお願いするなんて恥ずかしくてとても言えないや。そうしたら、メガトンが面白がっていろいろ作ってくれました。それが期待に反して良く当たるのです」

「君は仲間に人望があるのだな?」

「えっ?」

「山田君は君の仲間だろ」

「先生、どうして知っているのですか?」

「君が留年しないように、『講義中に小テストをやってくれ』と頼みに来たのが山田君だ」

「そうだったのか。道理で俺の出まかせがどうなるか心配だったのに、うまいこと小テストが始まったわけだ」

 山田が仕掛けたからくりを知った高橋教授は騙された思いだ。

 だが、不快感はない。

 顔は恐いまま機嫌良くいろいろな質問をぶつけてみる。

 予想に反し的確に浜口は答える。

 高橋教授が浜口を皮肉まじりに褒める。

「みんなのおかげで、君は飛躍的に進歩したみたいだな」

「そうだといいのですけれど。実態はただの耳学問です」

「それを定着させて、大学院への進学を考えるとよい。しっかり勉強して世の中で役に立つ人間になろうや」

「とんでもない! 数学だけはもうこりごりです」

 若い頃の自分を思い出して高橋教授は冗談半分に更に勧める。

「難しいと実感できるのも一種の才能だ。……進学しても心配ない。僕だって卒研の先生を選ぶ直前まで理解不能な解析学だけはやらないと決心していたのだぞ。それが今では解析学にどっぷり浸っている」

 高橋教授の言葉に浜口は戸惑いの表情を浮かべる。

 数学の先生はスラスラとすべてを理解したのだと信じていたのだ。

「でも、耳学問しか出来ない能無しの俺には難解な数学は無理です」

「そんなことはないさ。簡単な内容の分かりやすい講義を受けて、すぐに分かった気になるのは進歩しない学生の典型だ。むしろ、非力なことを自覚して、友達とのディスカションも重ねて理解を深める方が重要だ」

 カンニング疑惑は消えてすっきりしたものの高橋教授は考え込む。

 ──学力っていったい何なのだろう? 細かく数値化して意味があるのだろうか。

 試験が終わった途端、すべてを忘れさるような要領の良い学生は実社会で本当に役に立つのだろうか?

 一方、高橋教授との面談の終えた浜口にも心境の変化があった。

 ──メガトンをお友達にしていればうまいこと卒業できそうだ。

 それに彩やクォーターのような美人と出会う機会もますます増えそうだ。そうしたら数学科四大美女の誕生だ。

 ところで、彩やクォーターは大学院に進学するのだろうか?

 そうか、高橋先生の言うように俺が大学院に進学できたら、数学科三大美女とのお付き合いも二年延びるのだ。

 ここは確かに考えどころだ。

 大学院進学はお得な選択かも知れない。

 高橋教授の研究室を出た浜口は、三大美女に囲まれた自分の姿を思い浮かべてご機嫌だ。

 そこには山田やメガトンの姿は無かった。

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