第7話 無限個で長さゼロ

 6月の初め、多摩川の土手や鵜の木学園の桜の青葉が輝いている。

 梅雨入り直前の爽やかな日がのんびりと続いている。

 しかし、五島教授の講義『ルベグ積分I』が終わったあと、彩の機嫌がすこぶる悪い。

 山田に彩が不満をぶつける。

 彩は山田を浜口やメガトンとは異質の秀才仲間の一員で自分と同類と考えているのだ。

「五島先生たら、劣等生救済用の試験問題の予告をしたわ。わたし、とても納得できないわ」

 プリプリする彩に怪訝そうな表情で山田が尋ねる。

「何が納得できないのだい?」

 怒りをみせずに平然としている山田に彩はますます苛立つ。

 彩の悩みを理解できない鈍感な山田が許せないのだ。

「だって、『有理数の長さが測れる長所を述べよ』なんて問題、試験にはふさわしくないわよ」

 山田はいつものように冷静だ。

「いったいどこが問題なのだい?」

 にぶい反応の山田にますます苛立って彩が解説する。

「数学の試験は客観的に評価できる問題にすべきだわ。つまり、証明問題や計算問題みたいに正解がはっきりする問題ね。これは常識だわ」

 浜口が彩に異論をはさむ。

「正解のない問題の方が俺はいいな。少なくとも零点にはならない」

 軽蔑の眼で彩が浜口を睨んで言う。

「シンちゃんは、数学に向いていないのね。数学は主観に左右されてはいけないわ。五島先生の問題、小学生の読書感想文の課題みたいで最低だわ」

 薄化粧した彩の肌がすべすべと輝いている。

 ほんのりと甘い香りを漂わす彩に、浜口はうっとりとしている。

 でも、彩の剣幕に浜口はたじたじだ。

 黒縁の大きなメガネと黒髪で、鼻と口以外を隠したメガトンが話に割り込む。

「五島先生が言っていた『有理数全体の長さが0』なんて、何となくロマンチックでおもしろそうだわ。だから、わたし、いい問題だと思うの。わくわくするわ」

 美女と幼女のやりとりがいつものように噛み合っていないと、つい山田は笑ってしまう。

 それを彩が咎める。

「何がおかしいの、ヤマちゃん。私のことを馬鹿にしているの」

「彩は五島先生の問題が試験にふさわしいかどうかに関心がある。メガトンはおもしろいかどうかを議論している。同じ鵜の木学園の女子大生二人なのに、どうしてこんなに発想が違うのかなとおかしかっただけさ。ごめんね、彩」

 秀才二人の話に浜口が割り込む。

「おかしくはないさ。女性と女の子では発想がまるっきり違うのだ」

 いつものようにメガトンが挑発に乗る。

「わたしは子供じゃないわ。立派なレディよ」

「どこにその証拠がある? 独りよがりの思い込みはいけないよ」

「見ればわかるでしょう。わたしは正真正銘の大人だわ」

「どこを見ればいいのだ。俺、分からない。もしあったら見せてみな」

 山田が仲裁する振りをする。

「シンちゃん。メガトンに失礼だぞ。謝れ!」

「そうよ! 謝ってちょうだい」

「どうして俺が謝らなきゃいけないのだ」

 山田がもっともらしい正論めいた意見を吐く。

「面と向かって言って良いことと悪いことがある。真実を語るだけが正しいわけじゃない」

 山田の言い種にメガトンがますますむくれる。

 その子供っぽい様子を見て彩の機嫌が直る。

「私、『有理数全体の長さが0』なんてイメージ、全然湧かないわ。絵も描けないし、計算も出来ないなんて最悪ね。ヤマちゃんは分かるの?」

 彩の質問に山田が考え込む。

 要領の良い浜口が山田の答えを待ち構える。余計な口出しはしない。

 それに自分で考えるだけ無駄だと信じているのだ。

 でも、五島教授の予告試験問題の解答に役立ちそうな話をみんながしていると嗅ぎ取ったのは浜口特有のセンスだ。

 メガトンは興味津々山田を大きな目で見上げる。

 山田が思い付いた例を披露する。

「長さ1の区間を考えてみよう。たとえば、数直線上の0から1までの区間だ」

 聞いている3人ともすぐに分かる例だ。

 山田は3人の感触を確かめてから続ける。

「この長さ1の区間に含まれる有理数全体の長さも、五島先生の言うことが正しければ当然0だ」

 彩が頷いて言う。

「有理数全体の長さが0とすれば、その一部分の長さも当然0ね。でも、それがどういう意味なのかしら」

 山田が答える。

「五島先生、『ルベグ積分は確率論の基礎』でもあるって言っていたじゃないか」

 納得できない顔で、浜口が山田に言う。

「なぜここで確率が出てくるのだ?」

 彩は即座に山田の言いたいことを理解する。

 山田に代わって明るい表情で浜口に答える。

「長さ1の区間に有理数が存在する確率は0。ヤマちゃんはそう言いたいのよ、きっと」

 メガトンが小さな口を尖らせて叫ぶ。

「でも、どんなに幅の小さい区間の中にも有理数は無限個あるわ。高橋先生に去年習った有理数の稠密性ね。どうしてそれなのに有理数が存在する確率が0なの?」

 浜口がメガトンを応援する。

「メガトンの言う通りだ。有理数が存在する確率が0なら、無理数が存在する確率は1だ。無理数全体と実数全体は明らかに違うから、きっとどこかが間違いだ」

 彩が浜口の意見を補足する。

「長さ1の区間の中には、有理数も無理数も無限にあるわ。だから、無理数全部を集めても、長さ1の中にある実数の一部にしかならないはずね。なのに、どうして、無理数が存在する確率が1になるのかしら? シンちゃんの言う通りどこか変よね。何か騙されいるみたいだわ」

 彩の質問に山田が考え込む。

 大きな黒縁の眼鏡を赤ちゃんのようなかわいらしい右手でかき上げメガトンが突如言い出す。

「ヤマちゃんの言いたいことが分かったわ。無限と有限の違いだわ。やっぱり、無限は神様の世界なのね」

 分かったと言われた山田が戸惑ってメガトンに尋ねる。

「無限と有限の違いって何のことだ?」

 メガトンが笑顔でシンプルに答える。

「100個のうち1個の確率より、2個の確率の方が大きいわ。ちょうど2倍ね。でも、無限個のうち1個の確率と2個の確率は同じ0だわ」

 浜口はまだ納得しない。

「でも、メガトン。有理数全体も、無理数全体も無限個の世界だ。同じだぞ!」

 メガトンの意見を理解した山田が浜口を上手に説得する。

「シンちゃん憧れの本多先生に去年教わったじゃないか」

「何を?」

「有理数全体は自然数全体と1対1対応が付く。でも、実数全体は自然数全体と1対1対応が付かない。つまり、二つとも無限集合だけれど濃度が違うのだ」

「そうか、有理数は無限個あるけど俺みたいにスッカスカ。無理数は全部ではないけれど、ほとんど全部なのか。でも、まだしっくりこないなあ」

 卑近な例で山田は浜口を説得しようとする。

「瞬間的に起きることは何度起きようと、起きる確率は0だ。たとえ無限回起きるとしてもね。これは、瞬間的に起きることを有理数の各点と考えれば分かるはずだ。でも、どんなに短い時間でも、例えば1億分の1秒継続して起きることの起きる確率は0にはならない。……理解できるよねシンちゃん」

 不貞腐れたように浜口が返事をする。

「ちっとも、俺、分からない」

 彩が具体的な問題を口にする。

「シンちゃん、10秒の間で0.5秒継続する確率はいくつ?」

「0.05」

 浜口の正解を確認すると、次に彩は笑いながらメガトンに尋ねる。

「メガトン、0.5秒の間で1億分の1秒継続する確率はいくつ?」

 メガトンが考え込む。

 そして、いきなり悲しそうに答える。

 それでも茶目っけは健在だ。

「わたしに小数の計算なんてさせないでちょうだい。……しかも暗算でなんて、とても無理よ。無理、無理、無理。……ムーリ!」

 メガトンの悔しそうな表情に浜口が意外な気がする。

 それに、まだ納得できない。

「俺でも、彩の質問は即答できる。でも、ヤマちゃんの言っていることは、まだよく分からない」

 彩が子供をあやすような口調で浜口を皮肉まじりに慰める。

「そのうち慣れるわよ。そうしたら違和感なんか感じなくなるわ。大丈夫、シンちゃんもヤマちゃんと同じ人間ですもの。きっと分かるようになるわ」

 山田は彩の皮肉めいた口調に浜口が怒るのではと冷や冷やだ。

 だが、浜口は美女に怒ったりはしない。

「俺、ヤマちゃんや彩みたいな秀才族の一員じゃないのは確かだな。でも、俺、優秀なひょうきん族の代表だ」

 浜口の発言に仲間はずれにされたと感じたメガトンが尋ねる。

「じゃあ、わたしは何なの?」

「決して一匹狼じゃない。一匹子ブタだと思っていたのだけれど違うみたいだ」

 膨れっ面のメガトンを横目に彩が追及する。

「どこが違うの?」

「メガトンは、小数の計算は苦手だけれど、高橋先生の小テストの問題を的確に予想してくれる。俺、とても助かっている。これからも頼むよ。メガトンは予言者として優れているみたいだ。だから、ベビー占い師の一族かな」

 山田が笑っている。

 浜口の本音は、

「クォーターの毎度毎度の質問をこなすには、メガトンの予測能力が必須なのだ。そうでないと、俺の馬鹿がばれてしまう。これからも協力の程、お願いだ」

なのだ。

 でも、これをあからさまに言葉にするのは、「美人に弱いシンちゃん」と思われそうで浜口は恥ずかしいのだ。

 彩はメガトンが褒められたようなのが気に入らない。

 鋭い指摘をメガトンに飛ばす。

「去年落とした科目の準備は出来ているの? 何様みたいにシンちゃんの世話なんかしていないで、しっかり自分の勉強をしなきゃ駄目じゃない」

 そう言われてもメガトンはめげない。

「高橋先生のテスト問題予測、すごくおもしろいの。わたし、やめられそうにないわ」

 彩が怒った顔で言う。

「止めるべきだわ」

 天然パーマのクォーターの美しい顔を思い浮かべ、浜口が反論する。

「そうだ。これは俺とメガトンの問題だ。彩が口を出す話じゃない。メガトン、他の先生の問題も予測してくれよ。切なるお願いだ」

 彩からとげのある言葉が出る。

「そんなこと、メガトンができるわけないわ。それが出来るようなら、あんなにいっぱい単位を落としたりしないはずよ」

 彩の剣幕に山田があわてて話題を変える。

「彩は五島先生に何か不満があるのかい?」

 彩にとって入学試験がこれまでの人生最大のイベントだった。

 試験は公平なゲームであるべきだとの意識が彩は強いのだ。

 そのゲームの勝者になるのが彩の生きがいと言ってよい。

「さっき言ったように、私は主観的な問題を試験に出すのはおかしいと思うの。それに、その問題を出すと予告して学生に準備させるなんて試験の趣旨に反するわ。絶対におかしい! そう言えば本多先生も試験問題の予測をしたわ。鵜の木学園の数学の先生、どこか狂っているわ」

 浜口は五島教授や本多准教授の味方だ。

「俺、さすがに『仏の五島、観音の本多先生』だって感心しているのだ。どこもおかしくないさ」

 彩は自分の優秀さを際立たせてくれるのが良い試験だと考えている。

「五島先生の試験ならシンちゃんだって誰かの作文さえ覚えていれば証明も計算もできなくても解答できるわ。シンちゃんの言う通り少なくとも零点にはならないわね。それじゃあ正当な差は付かないわ。そんなの数学の公平な試験なんてとても言えないわよ」

 一年経って山田は彩の美しさに慣れたようだ。

 そのためか彩にはっきり反論できるようになっている。

「先生みんなが同じような試験を出すのじゃつまらないよ。いろいろあってもいいのじゃないか。僕、そう思うよ」

 浜口は山田に微妙なところで同意しない。

「中身はどうでもいいけれど、どの先生も全員合格の試験にして欲しいな。それが天下万民のためだ」

 すぐに彩が反論する。

「何が天下万民のためよ。シンちゃんのご都合主義じゃない。きちんと勉強した人は良い成績で合格。そうでない人は不合格。これはあたりまえのことよ」

 浜口はメガトンを味方に付けようとする。

「去年不合格だった科目、メガトンはさぼっていたのかい?」

「高橋先生と本多先生の講義は分からないなりに面白かったわ。だから、結果的によく勉強したと思うの。でも、単位を落とした科目は、面白くなかったの。わたし、計算の公式を覚えるのが苦痛なの。それにややこしい絵を理解するのも嫌いだわ。……シンちゃんの言うとおりね。さぼったから落ちたと言われてもしょうがないわ」

 悲しそうに目をクリクリさせるメガトンに山田がやさしく言う。

「みんな得手不得手があるさ。メガトンは抽象的な数学が得意みたいだ。それに、駅伝大会で数学科優勝の立役者になるほどの韋駄天だ。僕はスポーツがみんな苦手だ。僕はメガトンが羨ましい」

「俺の得意なのは何なのだろう?」

 浜口のため息に、彩が辛辣な言葉をまたもかぶせる。

「シンちゃんの得意なのは、他人の力をうまく使ってちゃっかり生きていくことだわ。抜群の才能よ」

 こう言われても浜口は挫けない。

「彩の言う通りだ。でも、実社会に出たら抜群の才能を発揮するのが俺だな。末は社長、悪くても取締役だ」

 彩は浜口に現実を突きつける。

「もし万が一無事に卒業できたら、たしかに可能性は零ではないわ」

 明るく山田が締めくくろうとする。

「一緒に4年で卒業しようよ。みんなで頑張らなきゃ」

「俺も頑張る。みんな、レポートの作成や試験問題の予測をよろしく」

 彩はまだ不満だ。浜口に念を押す。

「でも、シンちゃん。レポートの丸写しやカンニングは駄目よ」

 メガトンが彩と浜口のやりとりにクスクス笑っている。

 年の離れた妹を見るような穏やかな目で山田がメガトンに見入っている。

 その山田の眼差しが彩はなぜか気に入らない。

「ふざけんな!」

 と言いたいのをじっと我慢する。

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