第5話 嘆願
多摩川の土手や鵜の木学園の桜の葉が午後の陽光を浴びて緑色に輝いている。
土手には散歩や黙々とジョギングする元気な男女が行き交っている。
まだ大半の人が働いている時刻だ。
若々しいランナーに男は見当たらない。
サイクリング車が徒歩の人々の合間を縫って時々走り抜けて行く。
土手横の体育館では、五月病には無縁なクォーターの柔らかい筋肉が伸び伸びと躍動している。
長身から打ち下ろす切れの良いスマシュとカットを武器に、一年生ながら鵜の木学園バドミントン部のレギュラーの座をつかみかけている。
ネットプレーも際立って巧みだ。
本人は気づいていないが男子部員の注目を集めている。
誰がクォーターを射止めるかとの静かだが激しい競争が勃発している。
長い手足に良く似合う短パン姿のクォーターがシャトルを追いかけ気持ち良さそうに汗を流している頃、浜口が遠慮がちに山田に話し掛ける。
「ヤマちゃん、助けてくれ」
深刻そうな浜口に山田が問い返す。
「一体どうしたのだ? 顔が引き攣っているぞ」
一瞬ためらった浜口だが、思い切って正直に答える。
頼りになる相談相手は山田しかいないのだ。
「シラバスを見ると、高橋先生の次の講義は『極限の概念[注5]』みたいなのだ」
山田が怪訝そうな顔で問う。
「それがどうかしたのかい?」
「講義が終わった後、またクォーターから質問攻めに遭いそうなのだ。でも、俺、とても答えられそうにない。とくに、『極限の概念』は苦手なのだ。あんな妙ちくりんなもの、理解不能だ。それで、困っているのだ」
山田は、この頃きれいに髭を剃るようになった浜口が何に困っているのかを理解する。
しかし、クォーターが出来の悪い浜口にわざわざ質問する意図が分からない。
その意図を確かめようとする。
「それで、いったいクォーターは今までどんな質問をしたのだい?」
浜口からたどたどしい返事を聞いた山田は、クォーターの意図を想像する。
──質問の多くは、シンちゃんの理解を確かめるためのおさらいみたいな気がする。もしかするとクォーターは、それとなく浜口に予習と復習を促しているのかも知れない。そうだとすると、クォーターは、お節介な姉御肌だな。でも、僕はクォーターのお手伝いをする気はさらさらない。義務もない。ここは、論理的な数学が大好きで人の良いメガトンに話を振るのが良さそうだ。
そう決断した山田が、浜口にもっともらしくアドバイスする。
山田の落ち着いた話しぶりは妙に説得力がある。
学生にも先生にもだ。
「クォーターがどんな質問するのかを予想するなんて、男の僕には不可能だ。でも、メガトンなら、女同士で、しかも同じ高校を卒業しているのだから出来るかも知れない。でも、今日はもう遅い。明日の昼休みにでもメガトンに頼んでみたら」
体よく山田に断られた浜口は家に帰って作戦を練り直す。
浜口の他人の力を借りるための粘り強さや巧さは超一流だ。
──確かにメガトンに頼む手はある。試験は苦手そうだが、メガトンは数学が好きそうだ。でも、想定質問をメガトンに作ってもらったら、クォーターにそれが筒抜けになるに違いない。そうなったら、俺の折角の男が台無しだ。ここは、うまい方法を考える必要がある。知恵の出しどころだぞ。
翌日の昼休み、作戦がうまくいくかどうかが心配で浜口の表情が強張っている。
麺類を受け取る行列が並ぶ場所と定食を受け取る場所は、学生食堂の中で10メートルほど横にずれている。
両方の行列に参加する浜口は、いつも席に着くのが遅い。
しかも今日はいつになく緊張した表情だ。
日替わり定食とラーメンをトレーにのせた浜口が、山田、彩、メガトンが待つテーブルにやっと着く。
席に着くと、昨夜閃いたアイデアを浜口はすぐに実行に移す。
ぎこちない口調で問い掛ける。
うまくことが運ぶかどうか心配なのだ。
「高橋先生の『解析学特論』を再履修しているのだけれど、去年と違ってときどき抜き打ちで小テストをやるそうだ。メガトン、どんな問題が出ると思うかい。予想できるかな?」
メガトンは浜口の誘いに食いついた。
「つぎの講義のテーマは何?」
「メガトンの大好きな『極限の概念』だ。どんな問題が出そうか予測してくれるとありがたいな」
彩が意外そうな顔をして浜口に問う。
「どうしたの、シンちゃん。急に勉学意欲に燃え出したみたいに見えるわ」
「俺、残念だけれど閻魔の講義は難解で理解不能だ。それに、定期試験の出来は悪いに決まっている。だから、小テストで少しでも点数を稼いでおきたいのだ。この講義の単位さえ取れれば、無事に卒業できると俺は確信している」
彩は自分が留年する心配なんかまるでしていない。
気楽そうに勝手な予想を披露する。
浜口の質問の意図への回答にはなっていないが、学校秀才らしい的確な予想だ。
「高橋先生お得意の『○×』問題だわ、きっと。せいぜい四択問題かな。もっとも、定義や定理を単純に書かせる問題もあるかも知れないわ」
浜口が疑問を口にする。
「どうして、そんなことが言えるのだい?」
彩の回答は明確だ。
「講義中の小テストで『証明問題』は時間的な制約で無理ね。でも、『○×』問題なら即答可能だわ。それに、先生は採点が楽なはずよ。こんなことは常識の範疇で充分に予測できるわ」
浜口は問題の形式には関心がない。
さらに彩に浜口が尋ねる。
「じゃあ、どんな問題が出るか予測できるかい?」
浜口を馬鹿にしたような口調で、彩は原則論を口にする。
「しっかり予習していれば、どんな問題でも大丈夫よ。だって、回答に時間を要する問題は絶対に出さないわ。すぐ解けるやさしい問題ばかりのはずよ」
そんなことは浜口だってとっくに分かっている。
浜口は練習問題を解く訓練を受けてきた覚えはある。
しかし、テキストを自力で読む訓練は受けてこなかったのだ。
だから、浜口はテキストを使ってどう予習をしたらよいか皆目見当が付かない。
上級生としての面子を保つために、浜口はあらかじめ問題と答えを教わっておきたいのだ。
山田が浜口の意図に気付く。
浜口を助けようと、メガトンにそれとなく山田が話し掛ける。
「『○×』問題に限らず、メガトンならおもしろそうな問題をいっぱい作られそうだ。メガトンが予測した問題と、高橋先生の問題がどのくらい一致するのか、僕は興味津々だな」
メガトンは単純だ。
山田の挑発に乗ってしまう。
「ヤマちゃんの言うとおり、おもしろそうだわ」
これで想定問題集が完成だと明るい顔になった浜口が、本音を見透かされないように言葉に気を使いながらメガトンに頼みこむ。
「おもしろそうな問題ができたら、メールで俺のパソコンに送ってくれ。そうそう、答えも忘れないように。もちろん詳細な解説付きだぞ」
彩が笑いながら浜口をからかう。
「それで閻魔の鼻をあかして卒業できたら、『メガトン大明神』とありがたく拝む必要があるわね。お賽銭も、たっぷり必要だわ」
メガトンの横で上品な仕草で箸を操る彩の発言に山田は違和感を抱く。
初対面の頃は彩の美しさに感激し満足に口も聞けなかった山田も、すっかりそれに慣れたのだろうか。
今では彩と対等に口が利ける。
でも、山田はからかいやすいメガトンの方が話していて楽しいのだ。
「メガトン。僕にも、メールしてくれる」
「いいわ。頑張って面白い問題を捻り出すわ」
彩は自分が主役ではないのが気に入らない。
棘のある言葉を吐く。
「あら、ヤマちゃん。そんなメール、何に使うの。単位の取れた優秀なヤマちゃんにはいらないのじゃなーい。もちろん、私は不要よ!」
一方、山田が浜口を心配する。
──さすがにシンちゃんだ。うまいことメガトンを下請けに使えそうだな。でも、高橋先生が一度も小テストをやらないと知ったら、メガトン、カンカンだぞ。一体どうするのだ! たしか講義はあと10回以上残っているな。
山田の心配をよそに、黒髪のお高祖頭巾をかぶったメガトンは、大好きなあじフライを噛み締めながら、よく当たる予想問題を作成できたら嬉しいなと大きな目をくりくり輝かせて大喜びだ。
浜口は、デザートがわりのラーメンの汁をうまそうに飲み干している。
いかにもしてやったりとの得意気な表情だ。
他人の力を借りるのが恥と考え、人の面倒をみない性格の彩は楽しそうなメガトンに無言で反発する。
──去年はお情けで退学を免れたようだけれど、単位をいっぱい落としているのでしょう。シンちゃんのことなんかほっといて、どうやったら留年しないですむかをメガトンは真剣に考えるべきだわ。試験が終わった科目に関わるなんてナンセンスの極み、本当に馬鹿げているわ。
調子に乗って浜口をたきつけた形の山田は、クォーターの浜口に対する気遣いを大事にしながら、メガトンを怒らせないですむ方法はないかと考え込む。
それにどこか憎めない浜口を大嘘つきにはしたくないのだ。
──小テストのことなんか聞いた覚えがないと、クォーターがメガトンにしゃべったらおおごとになる。その前に、何とかしなきゃ。これは、シンちゃんを焚き付けた僕の責任だ。
その日の夕方、先生を半分だますようで申し訳ないと内心思いながら、山田は高橋教授の研究室を一人で訪れた。
メガトンもお節介だが、負けず劣らず山田も相当なお節介だ。
[注5]実数の列anが、実数aに収束するとの極限の定義。
任意の正の数ε(イプシロン)が与えられたとき、少なくとも一つの自然数Nが存在し、この自然数Nより大きいすべての自然数nに対して、anとaの差の絶対値がεより小さい、つまり、anとaの差が、±εの範囲に収まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます