第4話 最初の壁
高橋教授が教卓から最前列の真ん中の席をいつもの厳つい顔で見下ろしている。
去年はメガトンと彩が並んで座っていた席だ。
今年は、彩の座っていた席に天然パーマのすらりとした細面の美人が背筋を伸ばして座っている。クォーターだ。
出席を取らない高橋教授は、学生の名前と顔がなかなか一致しない。
けれど、クォーターの横顔をちらちらっと盗み見ながら、うれしそうに座っているラッキョウのような顔の男子学生に見覚えがある。
──メガトンが『シンちゃん』と呼んでいた学生のようだ。だが、なんでまた最前列に座っているのだ。少しは勉強する気になったのかな?
と、高橋教授は浜口の振る舞いが気になる。
その間も、高橋節は快調にうなり続ける。
1年後輩のクォーターから、
「何か分からないことあったら、シン先輩に質問するわ。教えてね」
と、ぱっちりした瞳で明るく言われた浜口は不承不承講義を聴いている。
講義が終わると、クォーターから早速質問が飛んだ。
甘えたような口調だ。
「高橋先生は、1次元の場合『上に有界な実数の集合は、必ず上限をもつ』が分かりやすい実数の連続性[注3]の定義だって言っていたわ。でも、そもそも実数の連続性って何なの? シン先輩、教えて」
浜口は先輩らしく、しかめっ面をして答える。
理解不足が露呈しないか内心ひやひやしている。
「実数が1点の抜けもなく数直線を覆い尽くしているというのが実数の連続性だ。分かりやすいだろう」
胸を張って答えたが、これが浜口の精一杯の答えだ。
クォーターが細い首をかしげる。
もっともらしい顔で答えた浜口にさらに質問をかぶせる。
「どうして、定義からそんなことが言えるの? それに、実数の連続性は何のために必要なの?」
1年後輩の美人に馬鹿にされるのは浜口には屈辱だ。
分かったような顔で逃げをうつ。
「俺は大局的な理解が得意だ。細かいことが得意なのは、ヤマちゃんや彩だ。あいつら、器が小さいのだ」
「メガトン先輩は駄目なの?」
浜口はメガトンを頭から馬鹿にしている。
「メガトンはメガトンなりの意見を持っているようだ。でも、メガトンの言うことは哲学みたいで、まったく意味が分からない。ちんぷんかんぷんだ。高橋先生と似てしまったみたいだ」
クォーターが茶色っぽい瞳をぱっちりあけて微笑む。
「メガトン先輩、やっぱりおもしろそう。高校時代も、メガトン先輩の回りはいつも笑いの渦だったわ。冗談を言っているとしか思えないけれど、驚いたことに本人はいつも大まじめなのよね」
クォーターは、『分からないことは分からない』と、すぐ他人に言えるおおらかな性格だ。
一人で悶々と悩んだりしないのだ。
メガトンとは大違いだ。
それからも、クォーターは矢継ぎ早に質問を重ねる。
浜口はほとんど答えられない。
とうとう音を上げた。
「ヤマちゃんや彩なら答えられると思う。相談してみるとよい。なんなら俺から頼んでみようか。俺の頼みは二人ともよく聞くのだ」
「そうしてもらえるとありがたいわ。わたし、よい先輩を持って幸せだわ。これからもお願いね」
これを聞いて浜口は来週からの高橋教授の講義を欠席しようかと思った。
講義のあるごとに、素敵な美人から毎回質問攻めにあって馬鹿をさらすのは耐えがたい屈辱だ。
しかし、クォーターと席を並べられる魅力も捨てがたい。
それから二時間後、浜口に指定された談話室をクォーターが訪れた。
まだ頼りがいのある先輩は来ていないようだ。
右から左へとゆっくり流れる多摩川が強い西日を浴びて談話室の窓から輝いて見える。
東京湾は引き潮のようだ。
談話室に居合わせた三人の男子学生は、クォーターのすらりと伸びた肢体に目を奪われる。
しかも、ボーイッシュの髪型だが女性の香りが漂う飛び切りの美人だ。
三人とも魅了されて呆然としている。
そんな微妙な空気の中、浜口が、山田と彩と、おまけにメガトンまで連れて足早にやって来た。
三人の男子学生は、クォーターとは異質の京人形のような長い黒髪の彩の美しさにため息をつく。
そんな中、メガトンが第一声を放つ。
「クォーター! 困ったことがあるって、なんなの?」
クォーターは浜口が状況をきちんとメガトン達に伝えていないのにすぐに気付く。
しかし、そのことはおくびにも出さない。
「私、『上に有界な実数の集合は、必ず上限をもつ』が分かりやすい実数の連続性の定義だっていう高橋先生の講義に付いていけないの。シン先輩に聞いたら、『実数が1点の抜けもなく数直線を覆い尽くしている』のが実数の連続性の意味だって教えてくれたわ。でも、それも私には理解できないで困っているの」
すると、彩が自信を持って明快に答える。
「それは公理よ。しっかり覚えて忘れないようにすることが大事だわ。余計な穿鑿は無意味よ。時間の無駄だわ」
この答えに思わずクォーターはメガトンに視線を送り、さらに彩に尋ねる。
「そもそも、『上に有界な実数の集合は、必ず上限をもつ』って、どんな意味なのかしら?」
彩は、
「こんなことも分からないの」
と、馬鹿にしたような顔で答える。
「それは簡単ね。『数直線のある点から左側だけにある実数の集合は、必ず右端がある』ってことよ。絵を描くまでもなく当たり前だわ」
納得できないクォーターは食い下がる。
「どうして、それが『実数が1点の抜けもなく数直線を覆い尽くしている』ことを意味するの?」
「それが『実数の連続性の公理』だわ。議論の余地のない事柄よ。単なる暗記対象だわ。さっきも言ったでしょう。しっかり覚えておくことが大事。そうすれば試験で困らないわ」
クォーターは、『彩が本質を気にしない』ただの学校秀才だと悟る。
学校秀才と話をしていても埒があかないと、クォーターは思った。
クォーターは解析学を理解するための最初の関門をこじ開けたいのだ。
矛先をただちに話しかけやすいメガトンに変える。
「メガトン先輩、『実数の連続性』って何なの?」
山田がメガトンの回答を興味深く待つ。
お高祖頭巾をかぶったような髪型のメガトンの瞳が鋭く発光する。
「シンちゃんは直感力が優れているわ。だって、『実数が数直線を1点の抜けもなく覆い尽くしている』のが実数の連続性だなんて、わたしにはとても思い付かないもの」
クォーターは怪訝そうな顔だ。
メガトンが補足する。
「数直線に抜けがあったとするわ。たとえば、πは神様のみの数値で、この世には無いとするでしょう」
山田はπの抜けた数直線を頭に描く。
クォーターがメガトンに先を促す。
メガトンが猛烈な早口で答える。
「πより小さい実数の全体は、彩の言う『数直線のある点から左側だけにある実数の集合』だわ。ある点が上界だから、この場合、上界は4や5みたいにπより大きい数ね。でも、上限である『右端』は存在しないわ」
山田が納得顔でうなずく。
「πが神の世界のみの存在でこの世に無いとすれば、たしかに右端はないな」
山田は理解したが、クォーターはさらに追及する。
「どうしてそんな訳の分からない変な公理が必要なのかしら? シンちゃんの説の方が分かりやすいわ」
この言葉に、美人のクォーターに褒められたと浜口の頬が緩む。
メガトンもクォーターに一部同意する。
「シンちゃんの説は分かりやすいわ。でも、道具として使うのは難しいわ」
クォーターは道具の意味が分からない。
「実数の連続性は何の道具なの?」
「何かが存在することの証明に使う道具だわ」
会話に入り込めない浜口が澄まし顔で尋ねる。
「お化けや幽霊の存在に使うのかい。どうせなら美人の幽霊の存在がいいな」
折角の冗談なのに誰も笑わない。
メガトンはクォーターに解説する。
「例えば、中間値の定理[注4]ね」
クォーターは高校で習ったことはきちんと記憶している。
「それ、高校で習った覚えがあるわ。どこかの二点で異なる値となる連続関数は、必ず中間の値をとるという定理ね。直感的には納得できるけれど、証明の出来ない定理だと思っていたわ。でも、メガトン先輩は、実数の連続性から証明できると言っているのね。意外だわ」
メガトンの早口が加速する。
「不思議なのよね。実数の連続性はほかの何かの存在の証明にもとても有効よ。どの証明も論理的で素敵だわ。それなのに、そのおおもとが公理で証明できない直感の産物だなんて本当に不思議。なぜなのかしら?」
メガトンが逆にみんなに問い返す。
しかし、深刻そうな表情のメガトンの質問に誰も反応しない。
メガトンが何を悩んでいるのか理解できないのだ。
浜口は来週の講義を心配し始めている。
クォーターからの鋭い質問に格好良く答えたいのだ。
でも、まともに答えられないのでは先輩として恥ずかしい。
講義を欠席すれば質問を浴びることはない。
でも、それでは美女と同席するチャンスを逃してしまう。
悩んだ浜口は、あらかじめ質問を想定して答えられるように準備しておく決心をする。
ただし、想定質問もその答えも山田から聞き出す予定だ。
山田の受け売りに頼る知ったかぶりのシンちゃんが、クォーターの疑問に格好良く対応できるか心許ない。
でも、脳天気な浜口は優秀な好青年を演じられると信じているのだ。
[注3] 実数の連続性
数直線は実数で埋め尽くされていることを実数の連続性という。なお、関数の連続性における「連続性」とは異なる意味である。また、実数の連続性は、実数の完備性ともいう。
[注4] 中間値の定理。
a以上かつb以下の数直線上の区間で定義された連続関数が、点aで正、別の点bで負ならば、この二つの点a,bの間のどこかで、関数の値は0になる。
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