第3話 三人の美女

 浜口は講義『線形空間論』が大好きだ。

 もっとも講義の中身が好きというわけではない。

 まるで理解できないのだ。

 でも、教壇に立つのは憧れの本田准教授だ。

 動機は不純だが、浜口はこの科目だけは積極的に真面目に勉強する気になっている。

 先生に馬鹿と思われたくないのだ。

 先生に義理立てしているのかも知れない。

 講義が始まるのは五分後だ。

 嬉しそうに浜口が山田に質問する。

「鵜の木学園数学科三大美人って知っているかい?」

「そんなの聞いたことないな。僕の知っている人も入っているのかな?」

「うん。三人ともヤマちゃんのよく知っている人」

 そう言われても山田は答えたくない。

 口の軽い浜口に、

「ヤマちゃんは、誰それを美人と言っていた」

 と、あちこちに触れ回られては気恥ずかしいのだ。

 とくに本人には知られたくない。

 三大美人はまたたく間に学科に広がっていく。

 浜口の噂を広める希有な才能のおかげだ。

 充分予測できたが、山田は気付かない振りをする。

「数学科はメガトンを初め美人ぞろいだ。だから、三人に絞るのは僕には困難だな」

 とぼけ顔の山田に浜口は真面目に答える。

「メガトンだって? 数学は達者だけれど、ヤマちゃんは審美眼がないな。一番身近なのは長い黒髪が香る瓜実顔の市松人形のような美人。だーれだ?」

「彩かい?」

 山田の答えに、うれしそうに浜口が頷く。

「ヒントが良すぎたようだ。正解だ」

「二番目の美女のヒントは?」

「小顔ですらりとした曲線美の北欧風の美人」

 山田は今度もすぐに答えが分かる。

 でも、再び考え込む振りをする。

「なかなかの難問だ。もっと具体的なヒントがほしいな」

「長身だから、まるでファッションモデルみたいだ」

「分かった。クォーターだ」

 もうすぐ講義の始まる時刻だ。

 腕時計をちらっと見て、浜口は先を急ぐ。

「最後だ。濃いまゆで彫りが深い小判型の笑顔は、南太平洋の海辺に咲く清楚な原色の花のようだ」

「最後はシンちゃんお気に入りの本多先生かな。ほら、先生がシンちゃんの方を見て笑っているぜ」

「えっ!」

 浜口があわてて教壇を見る。

 教壇の前の席に彩とメガトンが仲良く並んで座っている後ろ姿が見える。

 先生の姿はまだない。

「ヤマちゃん、ひどいや。びっくりさせるなよ」

「ごめん、ごめん。正解かい?」

「ああ」

「ところで、シンちゃんは海外旅行に行ったことがあるのかい?」

 山田が浜口の美人評価の厳密性を追及する。

 北欧にも南太平洋にも浜口は行ったことがないはずだと感じたのだ。

 しかし、山田の質問の意図が浜口には分からない。

 浜口が返事をためらっていると、ポニーテールの本多先生が前のドアから入室する。

 さすがに新入生には見えない。

 でも、大学院生なら十二分に通用するはつらつさだ。

 山田と浜口のやりとりを聞いていた男子学生が、いっせいに小麦色の肌が綺麗なエキゾチックな美人に熱い視線を向ける。

 本多先生は後方席の異様な気配に怪訝そうな表情を浮かべる。

 でも、いつものように淡々と講義を始める。

 メガトンが食い入るように本多准教授を見上げている。

 相変わらずメガトンは、耳の上方で髪の毛を黒い輪ゴムで束ね左右の頬に垂らしている。前髪は額を覆っている。

 まずい顔を少しでも隠そうと、本人は工夫しているつもりなのだ。

 黒縁の大きなメガネが丸い大きな顔をさらに隠している。

 でも、少し上を向いた愛嬌のある鼻は丸出しだ。

 黒い大きなマスクをした方がよいか、メガトンは最近真剣に悩んでいる。

 パッドを胸にした方が良いかも熟慮中だが、買いに行くのが恥ずかしくて踏ん切りが付かない。

 それに、ずり落ちないか心配なのだ。

 メガトンも年頃の女の子だ。

 外見は去年と同じに見えるメガトンだが、『証明は頭で理解するのではなく、自力で証明できるようにする』のが抽象的な数学を理解するコツだと掴み掛けていた。

 とくに数行で済む短い証明が重要のようだ。

 メモを取らずにメガトンは本多准教授の講義を大きな目を爛々とさせて聞き入っている。

 あらかじめテキストを繰り返し熟読しているせいか、講義内容はすらすらと理解できる。

 メガトンは本多准教授の講義の流れに同化する。

 声を揃えてふたりで学生に講義をしているとの心地よい気分だ。

 あと30分で講義終了だ。

 本多准教授が演習問題を突然提示する。

 演習問題を課せられるのをいつもは嫌う学生だが、つぎの本多准教授の提案に大歓声をあげる。

「定期試験問題の半分は、講義中の演習問題をそのまま出そうかと思うの」

 一瞬おいて、いたずらっぽい目で一言付け加える。

「もしかすると全部」

 途端に、後方に陣取る学生達が机を叩いて大喜びだ。

 それに比べ、『それでは大きな差はつけられない』と彩の表情は固い。

 本多准教授が浜口に笑顔を向けて言う。

「シンちゃん、きちんと勉強するのよ」

 すると、真っ赤になった浜口を中心にどよめきが一気に広がる。

 去年の講義中に起きた『ナイスヒップ』事件がまだ記憶に生々しいのだ。

 本多先生の小玉スイカを二つ並べたような、つんと上を向いた丸いお尻のジーパン姿に思わず「ナイスヒップ」と大声をあげたのが浜口だった。

 ともあれ、試験を餌に学生の勉学意欲を本多准教授はうまく引き出したようだ。

 でも、試験の公平性は犠牲にしている。

 彩が怒るのも無理はない。

 講義が終わると、その不満を山田にぶつける。

 秀才の山田は自分と同意見だと彩は信じている。

 彩は、ライバルとは思ってもいない浜口やメガトンには意見を求めない。

「試験は講義の習熟度を計るためにあるはずよ。それなのに、あらかじめ、どんな問題が出るかを公表するなんて何か変だわ。インチキよ!」

 山田は彩の期待を裏切って言う。

「何をしたら単位が取れるか、本多先生は明らかにした。これでシンちゃんは、少しは勉強する気になったさ。なあ、シンちゃん」

「俺、数学科の数学で何を勉強したよいのか、さっぱり分からない。でも、ビリでもいいから4年で卒業したいのが正直なところだ。だけど、本多先生の講義だけは正々堂々ときちんと勉強する積もりだ。俺には、本多先生は観音様だ、女神だ」

 彩は自分以外に美人がいるのが気に入らない。

 皮肉っぽい口調になる。

「年は食っているけれど、本多おばさん、美人ですものね。事前に試験問題は漏洩するし、シンちゃんには、たしかに観音様だわ」

 彩の物言いに、浜口が珍しく憤然とする。

「俺だけの観音様じゃない。みんなの観音様だ。それに本多先生は断じておばさんじゃない」

 さらに言い合いになりそうな雰囲気にメガトンが割り込む。

「講義が始まるまえに、ちらっと聞こえてきたけれど、数学科三大美人って何のこと。ひょっとしてわたしのこと?」

 山田が思わず吹き出す。

 険悪な空気が一変する。

「おい! シンちゃんが説明する番だ」

 山田に促されるが、浜口も本人を目の前にしては照れくさい。

 何とか誤魔化そうとする。

「ヤマちゃんと集合論について話合っていたのだ」

 メガトンが追及する。

「集合論と数学科三大美人とどういう関係があるの?」

 浜口は、集合[注1]の定義を持ち出す。

「美人が1人か2人では集合とは言えない。少人数過ぎるものね。その点、数学科には最低3人の美人がいる。だから、数学科の美女全体は集合だ」

 こういう議論は彩が得意だ。

 習ったことは正確に記憶している。

 浜口をからかう。

「原点近くにある平面内の点の全体は集合かしら? シンちゃん、どう思う?」

 浜口は自信満々即答する。

「いっぱいあるから、もちろん集合だ」

 それを聞いて彩は

「シンちゃんはやっぱり本物の馬鹿だ!」

 と大喜びだ。

「シンちゃん、それは間違いよ」

 浜口がむくれる。

「なぜ集合じゃないのだ」

 彩が得意そうに解説する。

 機嫌が直ったようだ。

「原点に近いかどうかの判断は人によって違うわ。だから集合にはならないでしょ」

 浜口は彩の説明をもっともらしいと思う。

 だが、正しいかどうか判断が付かない。

 思わず山田に顔を向け尋ねる。

「そうなのかい、ヤマちゃん」

「集合に属するかどうかは客観的に判断出来なければならない。主観によってはいけない。シンちゃんの大好きな本多先生に、去年そう習っただろう」

 メガトンが澄まし顔で浜口に言う。

「彩やヤマちゃんの言う通りよ。数学科の美女全体は集合にならないわ。わたしのことを美人と思う人だっているわ。恥ずかしがってシンちゃんは認めないだろうけれどね」

 浜口が言いがかりのような反撃をする。

「確かに本人を目の前にして美人だなんて、恥ずかしくてとても言えないな」

 メガトンの緩んだ表情を見て、ニヤッと笑った浜口が付け加える。

「俺がド近眼だと皆んなに疑われる。そんなことを言ったらクラス中の笑い者だ」

 どうやら浜口は自分のあやまちに気付いたようだ。

 でも、おもしろくない。つい愚痴が出る。

「数学は、記号と定義の塊だ。実態がまるでない。だから嫌われるのだ。あんなものは役立たずの世迷いごとだ」

 メガトンは反論したいが何も思いつかない。

 代わりに山田が言う。

「プラスの記号『+』は万国共通だ。もしそうでないと、色々な文書の中で足し算の記号をいちいち定義する必要がある。みんながてんでんばらばらに違う記号を使ったら、すごく分かりにくくなると思うよ。微分や積分の記号だってそうだ。見た瞬間に万国共通ですぐ分かるのはとっても便利だ」

 浜口は山田や彩には数学のことでは反論しない。

 それでも疑問は口にする。

「定義だってやたら多過ぎる。共通集合[注2]なんか丸を2つ書けば、すぐ分かる話さ。2つの丸が重なる部分が共通集合だ。なんでややこしい共通集合の定義が必要なのだ。絵を描けば十分なのに」

 山田は冷静に反論する。

「3で割り切れる整数全体と、2で割り切れない整数全体の2つの集合を考えよう。シンちゃんは2つの集合の重なった部分が何か分かるかい? 絵が描けたとしても、何だか分からないのでは意味が無いだろう」

 頭の中で浜口は、一部分が重なる2つの丸を描く。

 しかし、答えは分からない。

 そして、山田に問う。

「ヤマちゃんは分かるのかい?」

 山田が即答する。

「nを整数として、6掛けるnをまず計算し、それに3を足した整数全体だ」

 浜口は確かめる。

「彩さん、本当かい?」

「ヤマちゃんの言う通りだわ。3で割り切れる整数全体は、6で割り切れるか、6で割ったとき余りが3のどちらかね。だから、3で割り切れる整数のうち2で割り切れないのは、余りが3の方だわ」

 どうしてこの二人は答えがすぐ分かるのだと、浜口は肩を落とす。

 メガトンが疑問を投げかける。

「わたし、集合の厳密な定義が分からないわ。本多先生が言っていた全ての集合からなる集合って何のことなのかしら?」

 山田が『公理的集合論』をかじった知識を披露する。

「僕たちが本多先生に習ったのは素朴集合論というのだそうだ。精神病院で亡くなったカントールが一人で作り上げた理論なのだって」

 メガトンの興味がカントールに移る。

「そんな天才がどうして精神病になんかなったの」

 山田がメガトンの質問に答える。

「苦労して作り上げた自分の理論が矛盾していることに気付いてしまったのだそうだ。しかも、間違った理論だと当時の大数学者達にきびしく糾弾されたのだ」

 メガトンは不安になる。集合論は数学の基礎のはずだ。

「わたし達は間違ったことをならったの?」

「矛盾した結果が導かれるけれど、間違っているわけではないらしい」

 山田に珍しく浜口が異議を唱える。

「そんな馬鹿な」

 山田が答える。

「厳密性もほどほどにした方が使いやすい数学ということのようだ」

 メガトンは納得できない。悲しそうだ。

「解析学も矛盾しているの?」

 山田は、メガトンにすまなそうに言う。

「証明できないこともたくさんある。それに、数学も直感が大事ということだろうな」

 浜口が笑みを浮かべる。

「それ、俺、大賛成」

 彩は浜口を認めない。

 怒ったような口調だ。

「証明が可能なのに、それを思い付かないだけなのは論外よ。それを直感では明らかだと、訳も分からず決めつける誰かさんは本当に能天気だわ」

 山田が彩に賛成する。

「彩の言うとおりだ」

 彩が浜口に追い打ちを掛ける。

「きちんと勉強しないと卒業できないわよ。まずは、去年不合格の単位を何とかすることね」

 メガトンがつぶやく。

「わたしも、そうだわ。頑張らなきゃ」

 浜口は、『解析学特論』のレポート作成に頼もしい味方が付いたはずなのを3人に内緒にしている。

 クォーターは浜口が期待する秘密兵器だ。

 そして、絶対に4年で卒業してやると闘志を燃やす。

 それには、クォーターだけではなく、山田や彩の暗黙の協力を得る必要がある。

 そのための『抱き込み作戦』を浜口は改めて練る決意を固める。


[注1] 集合(set)

 指定されたある特徴を有するもの、あるいは指定されたある条件に適合するもの全体を一つの組として考察する(0個の場合も考察の対象とする)とき、それを集合という。また、それら個々のものを集合の元(げん)あるいは要素という。

 たとえば、正の整数全体は集合である。この場合の元(要素)は、1や2や3などである。


[注2] 共通集合

 集合Aと集合Bとに共通な元すべてからなる集合をAとBの共通集合という。たとえば、Aが整数全体からなる集合、Bが正の数からなる集合のとき、自然数全体がAとBの共通集合である。

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