第2話 閻魔と美女

 クォーターに出会うまで浜口は高橋教授の講義を欠席するつもりだった。

 でたらめをやっているようでも浜口は状況をきちんと分析している。

 妙に計算高いのが欠点だ。

 ──高橋先生は出席を取らない。だから、出席点は稼げない。それに講義を聞いていてもチンプンカンプンで分からない。欠席ばかりで困るとしたら、レポートの課題が出たのを見逃すことぐらいだ。けれど、高橋先生は、課題と提出期限を掲示板に貼り出してくれる。だから、全部さぼっても何も困らないはずだ。

 浜口は講義をさぼるつもりのようだ。

 だが、天然パーマを見付けようと講義室の前方のドアから教室をのぞく。

 途端にクォーターと浜口の目が合う。

 最前列の真ん中の席に座ったクォーターが微笑んだように浜口は感じる。

 浜口の心臓がドキドキと波打つ。

 思わず右手を前方に突き出し、

「やー」

 と、声をあげる。

 クォーターも左手をあげて軽く明るい挨拶を返す。

「シン先輩、おはようございます。もしかして去年は不合格だったの? それで、今年も受講しなければいけないのかしら」

 美女から「先輩」と呼び掛けられ、教室中の注目を浴びた浜口は、逃げるようにしてわずかに残った最後尾の席に思わず着く。

 クォーターのそばに行きたいのだが、照れくさくてできない。

 まして、講義を受けに来たのではなくクォーターの顔を見に来たのだと、他人に気付かれたくはない。

 しぶしぶ席に着いた浜口は、しまりのない顔で真剣に悩んでいる。

 ──彩、クォーター、本多先生。誰が一番の美人だ。これは難問だぞ。もし解けたら、きっと高橋先生の試験も合格だ。

 浜口が思案にふけっている間も、高橋節は快調にうなり続ける。

 突如女性の声を耳にした浜口は、びっくりして現実に引き戻される。

 前を見ると長身のクォーターが立ち上がって一礼し高橋教授に問い掛けるところだった。

 体育会系で育ったクォーターらしい礼儀正しい質問の仕方だ。

「定義は数学の出発点ではないのですか。今までそう習いました」

 高橋教授はこの質問が嬉しいらしい。

 鬼瓦のような顔が幾分ほころぶ。

「君、立ち上がらなくてもいいよ。座ったまま質問して構わない」

 クォーターは一礼して着席する。

 その後ろ姿がすんなりと美しい曲線を描いているに浜口は見とれている。

 弾力がありそう肩や腕の筋肉の美しさに浜口は溜め息をつく。

 サーモンピンクの薄手のカーデガンに包まれた若い健康的な肉体が匂うようだ。

 そして、

 ──去年もこんな質問が出た覚えがあるけれど、どうしてこんなことを気にするのだ。どちらでもいいじゃないか。それに、彩も最前列に座っていたけれど、クォーターもそうだ。どうしてだ? 美女はみんな最前列に座りたがるのだろうか。もっとも、メガトンも最前列だが。

 と、閻魔と美女のやり取りに注目する。

 高橋教授が丁寧にクォーターに答える。

「長い年月を掛けて整理整備された理論は確かに定義が出発点だ。けれど、定義が生まれて理論が発達した訳ではない。実際に役に立つ有用な数学の多くは、何を定義にしたらよいかが明確になった時点で完成する。分かるかな?」

 浜口は、クォーターがすんなりした首を傾げるのを見つめる。

 クォーターが高橋教授に別の質問を返す。

「実際に役に立つ数学って、いったい何なのですか?」

「19世紀にヘビサイドという、電気や通信の分野で数々の偉業をなしとげたイギリス人がいた。彼の提案した数学は、当時の数学では説明のつかないものばかりだった。しかし、電気の現象がきちんと解明できるのだから、『俺は正しい』とヘビサイドは譲らなかった。それに、彼を認めなかった当時の数学者に腹を立てていたのだろうね。『消化のプロセスを知らない私は、素敵なごちそうを断らなければならないのか?』と、言ったそうだ」

 ぱっちりした茶系の眼を輝かせてクォーターが興味津々スポーツで鍛えた良く通る声で確かめる。

「今では説明がつくのですか?」

「説明のつく新しい数学が生まれたのだ。しかし、彼が亡くなって数十年の歳月が必要だった。彼の直観は正しかったのだ」

 高橋教授の意図をクォーターは誤解する。

「定義なんか気にせずに、私たちも直観に頼ればよいということですか?」

 高橋教授は慌てたようにクォーターの素朴な感想を否定する。

「ヘビサイドは大天才だから、未熟な理論でも間違いなく現象を解明できた。しかし、凡人はきちんとした理論を道具として駆使したほうが得策だ。そのためには、定義がどうして必要かを理屈だけではなく体感することが重要だ」

 クォーターは効率的な勉強の仕方を高橋教授から説明してもらおうとする。

「体感するためには、何をすれば私達はよいのでしょうか?」

「定義がどのように使われているのかをしっかり学ぶことが重要だ。そのためには、証明が自分の直感と同期するまで、繰り返し読むのが早道だ。短い証明は自力でさっと付けられようにするのも秘訣かな」

 高橋教授がこう力説しても、浜口は納得できない。

 ふて腐れたようにつぶやく。

 ──そんなの早道じゃない。かえって回り道だ。余計なことを言っていないで、さっさと単位を出せ。

 もちろん高橋教授には聞こえないような小さな声だ。

 講義がやっと終わった。

 それなのに、浜口は教室でぐずぐずしている。

 もしかするとクォーターが声を掛けてくれるかも知れないと期待しているのだ。

 でも、ストライドの大きな軽やかなステップでクォーターは前のドアから姿を消した。

 浜口は気落ちして前かがみの姿勢で顎髭を引っ張りながら教室を出る。

 すると、予期せぬ方向から声が掛かり、浜口はあわてて横を向く。

 先輩思いらしいクォーターが尋ねる。

「探したけれど、メガトン先輩は教室にいなかったみたい。ひょっとして単位は取れたのかしら?」

 浜口には面白くない話題だ。

 少し怒ったように答える。

「不思議だけれど取れたのだ。あのチビ、何か魔法を使ったのだ。でも、色仕掛けではない。これは確かだ。色気の皆無なメガトンには色仕掛けは無理な話だ」

 浜口はヤセチビのメガトンに負けたのが屈辱なのだ。

 声を荒げる浜口をなだめるように、クォーターは話題をさらりと変える。

「それにしても、高橋先生の講義は大人気ね」

 浜口が怪訝な顔で確かめる。

「閻魔の高橋が大人気だって?」

「だって、立ち見席がいっぱいになるほどの人気の講義じゃない。他学科からも受講生が来ているのかしら?」

 浜口は、クォーターと目の位置が同じなのに気づく。クォーターは男性なみの長身なのだ。

 それに、クォーターはスポーツで鍛えたせいか、女性にしては肩幅が広い。

 でも、長身なので均整が取れて格好良く見える。

 それに体の線が柔らかい。

「俺みたいな不合格組がいっぱいいるだけさ。今年も出席を取らないと分かったら、すぐ来なくなるに決まっている。あの先生、やることも話すことも、呆れるほどきついのだ」

「それで、閻魔の高橋なのね」

「そう。閻魔の高橋、仏の五島、観音の本多先生」

 浜口の口調の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、長い睫のクォーターが突っ込む。

「観音の本多先生は美人なの?」

「学生と見間違いそうな、はつらつとした美人だ」

「シン先輩は観音様に『ほ』の字なの?」

 クォーターがイタズラぽい眼で、そう問い掛ける。

 浜口は正直だ。

 いかにも悔しそうに答える。

「本多先生は、俺のことなんか子供としかみていないさ」

 いつしか廊下には浜口とクォーターの姿しかない。

「大丈夫。シン先輩はメガトン先輩とは違うわ。もう大人だわ」

 メガトンと比べられても、浜口は嬉しくない。むっとした表情になる。

 それをクォーターは軽くいなす。

「ところで、シン先輩、今年は閻魔先生の単位を取れそうなの?」

 レポート提出に後輩をあてにしているとは、さすがに言いにくい。

 浜口は遠回しの言い方で本音を吐く。

「できの良い親切な仲間がいれば何とかなるかも知れない」

 しかし、クォーターは浜口の発言を別の意味に解釈する。

「それって、誰かにカンニングをさせてもらうということ?」

「俺はそんなに悪じゃないさ。レポート提出に参考意見がほしいだけだ。高橋先生は必ず課題を出す。でも、彩もヤマちゃんも単位が取れたから講義には出ていない。だから、手伝ってくれそうにないのだ」

 浜口が懇願するような目になる。

 それで、クォーターは浜口の意図を理解する。

「去年はどうしたの?」

「ヤマちゃんのレポートを参考にしたけれど、もう少しのところで不合格だった」

「試験のできはどうだったの?」

「『○×』問題だったから、全部『○』にした。だから、半分は正解だったはずだ。だのに不合格だ。高橋先生は本当に閻魔だ。むしろ悪魔だ」

 浜口が冗談を言っているのか、真面目に話しているのか、クォーターには判断がつかない。

 どちらにしても顔は不細工だけれど浜口を面白い人だと思う。

 しかし、卒業ができないタイプだと心配する。

 少なくとも毎回出席して、まじめに講義に耳を傾ける必要があるはずだとクォーターは思う。

「高橋先生は出席を取らないって言っていたわ。シン先輩は来週も講義を受けるの?」

「聞いていても分からないから、もちろん今日が最後だ」

 クォーターは人の面倒見が良い姉御肌だ。

 メガトンとダブルスを組んで世界チャンピオンになりたいのも、図抜けた才能の持ち主と信じているメガトンを開花させたい気持ちがあるからだ。

 眩しそうにクォーターを見つめる浜口に出席を促す対策を思いつく。

「一番前の席で講義を受ければ、先生の心証は良くなるわ。そうすれば、私も隣の席のシン先輩からいろいろ教われそうだし、来週からぜひそうして。お願い」

 小首をかしげるクォーターの提案に舞い上がった浜口だが懸念を口にする。

「俺、本当は出来が悪いのだ。メガトンといい勝負だ。学校始まって以来の秀才にアドバイスできることなんかないと思うけれどなあ」

 そんなことは百も承知のクォーターがさらに説得する。

「大丈夫、シン先輩には去年の蓄積があるはずよ。真面目に先生の話を聞いていれば、初めて講義を受ける私にアドバイスできるはずだわ。スポーツだって、初心者と経験者とでは大きな差があるでしょ。だから、期待しているわ。お願い。私を助けて」

「それは、そうだけれど」

 こうして鼻筋の通った絶世の美女と、ラッキョウのような顔が並んで最前列の中央の席で講義を受ける珍妙な風景が鵜の木学園に出現した。

 明るい笑顔で活発に質問するクォーターと、渋い顔で沈黙を守る浜口は好対照だ。

 翌週、クォーターと席を並べる浜口の無精ひげがきれいになくなっていた。

 浜口には閻魔の顔が憎たらしい。

 閻魔が睨んでいなければ、気付かれないようにそっと手を伸ばしてクォーターの細長い艶やかな指に触れられるかも知れないのだ。

 それを悶々と我慢するのは切なかった。

 でも、隣に座るクォーターの息づかいを感じて幸せな気分だった。

 そして、彩と出会ってもう1年になるのに、どんな指だったかを思い出せないのが浜口には不思議だった。

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