メガトン開基

@Kosuge-Yoshio

第1話 再会

 新学年の春、多摩川から強風が吹き付けている。

 鵜の木学園の鉄筋コンクリート造りの校舎が風の鼓動とともに大きく揺れる。

 西風のうなり声が教室に響く。

 入学時より顎髭の濃くなった浜口真一(シンちゃん)には、先生の声が届かない。

 みんなを笑わすのが得意な浜口は、今、真剣に悩んでいる。

 ──この講義は二年生の科目だ。だから、課題が出てもヤマちゃんや彩に全面的に協力してもらえる。少なくともヤマちゃんは助けてくれる。だから、レポートは何とか提出できる。問題は去年不合格だった科目だ。とくに高橋先生の『解析学特論』は絶望的だ。高橋先生のレポートの課題は、問題の意味すら分からない。どう考えても、白紙のレポートを出したら確実にまた不合格だ。しかし、単位取得済みのヤマちゃんや彩は、レポート作成を手伝ってくれないだろう。この難局を切り抜けるには特別な知恵と対策が必要だ。

 どんなに努力をしても高橋先生の壁は越えられないと、浜口は確信しているのだ。

 90分の講義の間、浜口は悶々と悩み続けた。

 だが、名案が浮かばない。

 講義がやっと終わった。浜口は、メガトンに軽口を発して美し過ぎる彩を盗み見る。

 春休みを境に彩は一段と美貌に磨き掛かったようだ。

 頭脳明晰な彩に自分の悩みを悟らせてはいけないと、浜口はことさらにはしゃいでみせている。

 顔もスタイルも数学も山田には到底敵わないと悟った浜口は、心ならずも道化役に徹することに決めたのだ。

 いつもの3人、山田、彩、浜口と連れだって教室を出たメガトンに、懐かしい聞き覚えのある陽気な声が背後から飛んだ。

 二年生最初の講義が終わるのを廊下で待ち構えていたようだ。

 いきなりの質問だ。

「メガトン先輩、ちょっとは膨れた?」

 声の主を見付けた浜口は口をあんぐりと開けて呆然としている。

 天然パーマのすらりとした細面の美人がぱっちりした眼で笑っている。

 それに向かって思わず右手で胸をおおいメガトンが反発した。

「馬鹿! 止めて! ここは、女の子ばかりの女子高じゃないのよ。そんなこと、男の人の前で、大声で言うなんて無神経過ぎるわ」

 メガトンの金切り声に、山田が素早く反応する。

「女性を容姿で判断するのはおかしいって、メガトンはいつも主張しているじゃないか。こんなこと、メガトンは気にしないよね」

 山田との言い合いは傷口を広がるだけなのをメガトンはよく承知している。

 腹が立つのをぐっと抑えて山田を無視し、天然パーマと向き合う。

「なぜクォーターがここにいるの? 一体全体どうしたの?」

 天然パーマが能天気な陽気さで答える。

「メガトン先輩にいろいろ教われると期待して、鵜の木学園数学科を選んだの。それに、長崎の大学には理学部はないしね。よろしくお願いね」

 腰を折って馬鹿丁寧な挨拶をするクォーターに、メガトンは納得できない。

 大きな目を怒らして詰問する。

「そんなわけないでしょう。医学部に行ったとばかり思っていたわ。本当の理由はなんなの?」

 一年後輩の天然パーマは、姉が妹をからかうような口調で尋ね返す。

 目が笑っている。

「やっぱりばれたか。メガトン先輩、本当の理由をどうしても知りたいの?」

 膨れっ面のメガトンが督促する。

「さっさと白状したらどうなの」

「本当はね。メガトン先輩が心配なの」

 意外な回答にメガトンの表情がやわらぐ。

「何が心配なの?」

「私がいないと、おつりの計算もできないメガトン先輩は卒業不可能じゃないかって。後輩に心配をかけるなんて、メガトン先輩は罪作りだわ。私は、メガトン先輩にとって、突如現れた救世主。あてにしていいわ」

 衝撃を受けたようす丸出しで、浜口が突如現れた美女に見とれている。

 それが、彩にはおもしろくない。

 ラッキョウみたいな不細工な顔の浜口に興味は無いが、何でも常に一番でないと彩は気が済まないのだ。

 浜口が勢い込んでメガトンに尋ねる。よだれが落ちそうな笑顔だ。

「こちらの飛び切りの美人、メガトンの知り合いかい?」

「オランダ坂女子高等学校バドミトン部の1年後輩の深堀さん。長身からのスマシュが県内に鳴り響いていたわ。わたしと違ってネットプレーも巧みよ」

「メガトン先輩が鵜の木学園バドミントン部にいないのに、私びっくりしたわ。高校時代はバドキチ(バドミントン気狂い)だったのに、いったいどうしたの?」

 クォーターの長いまつ毛を見上げながらメガトンが言い切る。

「バドミントンは高校で卒業。今は数学」

「先輩とダブルスを組んで世界チャンピオンになるのが私の夢だったのに残念だわ」

 浜口は、天然パーマを見詰めながら素朴な疑問を口にする。

「深堀さんは、純国産?」

 浜口の疑問を即座に理解したメガトンは素直に解説する。

「深堀さんは天然パーマの西洋人っぽい容貌、容姿でしょう。でも、本人いわく、生粋の日本人。そうは言うけれど、ハーフのハーフで十分通用するわ。だから、みんながクォーターと呼んだの」

 浜口がすぐに自分を売り込む。

「俺、浜口真一。みんなが『シンちゃん』って呼ぶクラスで一番の人気者だ。何か困ったことがあったら何でも相談してくれ。頼りになるぜ。本当だよ」

 深堀(クォーター)が無邪気な顔で問い掛ける。あっけらかんとしているので嫌みがない。

「シン先輩やメガトン先輩と大違いのこちらの美男、美女はどなた? お似合いのカップルになるわ」

 メガトンが馬鹿丁寧な調子で二人を紹介する。

「こちらは、山田君、通称ヤマちゃん。美女は中村さん、通称、彩。二人とも桁違いの秀才よ。クォーターと同じようにね」

 ここで、浜口が割り込む。

「俺も秀才」

 すると、彩がクスクスと上品な笑いを漏らす。

 それを見て、クォーターがすべてをかぎとったようだ。

「シン先輩は冗談が好きなのね、きっと」

 メガトンは単純明快だ。正論を吐く。

「シンちゃんは、わたしと、どっこいどっこいよ。去年不合格だった科目数も同じくらいだし。……シンちゃんが秀才なら、このわたしでも秀才だわ」

 メガトンにこう言われても、浜口は引き下がらない。

 堂々と反論する。

「数学科の学生はみんな秀才だ。その中でも、ヤマちゃんや彩は飛び抜けていると言うだけだ。……俺も普通に秀才!」

 山田も彩も浜口の主張を相手にしない。

 まずいと思い込んでいる顔の輪郭を覆い隠そうと工夫したつもりのメガトンの黒髪はお高祖頭巾のように見える。

 メガトンは、そのお高祖頭巾の髪をかき上げて向きになる。

「クォーターは、オランダ坂女子高等学校始まって以来の秀才よ。わたしやシンちゃんとはレベルが違い過ぎるわ。異次元よ」

 このメガトンの発言を聞いた途端、浜口に電撃が走った。

 ──高橋先生のレポートは、クォーターに頼ることができそうだ。このとてつもない美女は俺の人生の支えになる。

 浜口は、美女と親しく出来るし、卒業のための手助けも受けられると、メガトンと付き合う恩恵に驚喜した。

 幸運の女神が、要領の良さでは天才的な浜口に微笑みかけたようだ。

 そして、浜口は、彩とクォーターと見比べ、どちらの美女がより魅力的かと悩み始める。

 もちろんメガトンは浜口の比較対象にはならない。

 幸いなことに、それにメガトンは気付いていない。

 講義棟を出て食堂に向かう3人の女子学生は対照的だ。

 スラックス姿で日本人離れしたくびれたウェストと魅力的なヒップを無意識に強調して歩くのはクォーター。

 ショートヘアで、すっきりしたうなじを見せている。

 髪は、生まれつき少し茶色っぽい。

 光線の具合では、金髪にさえ見える。

 それに、女の子にしては背が高い。男子学生の平均身長を優に超えている。

 スカートを捲り上げるHな風なんか気にしないと突っ張って歩くのはメガトン。

 お高祖頭巾が飛ぶのを恐れて、しっかりと黒髪をおさえている。

 丈が短くなったと、浜口は、強風に煽られるメガトンのスカートを目で追う。

 意外なほど肉付きのよい白い太腿がちらちらっと見える。驚く程の筋肉質だ。

 しかし、スカート丈が短くなったのではない。メガトンの身長が、ここ1年で4センチ伸びたのだ。でも、誰も気付かない。

 彩は、強風が暴れる中、スカートを上品に抑えてしずしずと歩く。

 容姿も学力も強力なライバルが現れたと彩の背筋が凍り付く。

 しかし、学年が一年違うから成績で競うことはないはずだと安堵する。

 彩の最大のライバルは山田のままだ。

 ふくらはぎしか見せない彩に、浜口は、「メガトンを見習え。堂々と見せろ」

 と叫びたくなる。

 それに、今日の風は公平ではないと、彩のスカートを恨めしそうに眺める。

 山田は、冬が去り厚手のコートから解放されたメガトンが去年とはどこか変わったと感じる。

 でも、どこかはわからない。なぜか、メガトンの変化が気になる。

 からかい易かった妹が少し大人びてきたと戸惑っている風情だ。

 クォーターがメガトンを勧誘する。

「今からでも遅くないわ。メガトン先輩、バドミントンをやり直しましょう」

 メガトンは寂しそうに答える。

 本音は再開したいのだ。

「わたしは、今、数学で忙しいの。バドミントンに時間を取られたら、たちまち落第よ」

 クォーターは諦めない。

「数学は、私がお手伝いするわ。だから、大丈夫。二人で世界制覇を目指しましょう」

「まさか、そのために鵜の木学園に来たのではないでしょうね」

 クォーターはあっさり答える。

 真剣な目つきだ。

「その『まさか』よ。私の夢ですもの」

「医学部進学はどうしたの?」

「学校や両親の言うとおり受験したわ」

「大番狂わせで落ちたの?」

「受かったわ」

「それで、どうしてここにいるの?」

「受験すると仕方なく言ったけれど、進学するとは一言も言っていないわ。私は、メガトン先輩と組んでダブルスの世界チャンピオンになりたいの。それだけよ」

 山田がクォーターに訊く。

「メガトンはそんなにうまいのかい?」

「うまくはないわ。でも、背がほんの少しでも伸びたら、破壊力抜群のスマシュが相手を蹴散らすわ」

 浜口が当然の疑問をぶつける。

「シングルスは駄目なのかい?」

「私の繊細なネットプレーも、メガトン先輩の強烈な攻撃力も、それ単体ではシングルスの世界制覇は無理。でも、私の守備とメガトン先輩の攻撃が合体すれば、向かうところ敵無しになるわ。それに、メガトン先輩のスタミナ、超人的なのよ」

 浜口が納得する。

「それは俺にも分かる。学科対抗の駅伝大会で、メガトンは強力なライバルをゴボウ抜きにして、数学科初優勝の立役者になったばかりだ。あのスタミナとスピードは、まさに超人的だった」

 それを訊いてクォーターは大喜びだ。

「メガトン先輩、ひょとして今もトレーニングを続けているの?」

「テキストとにらめっこばかりでは気が滅入るわ。それに、体もなまってしまう。だから、毎日、ランニングと素振りは欠かさないわ」

「素敵! だったら、世界制覇は目の前だわ」

「駄目! わたしには同時に二つのことは無理。数学だけだって、わたしは落ちこぼれなのよ」

 クォーターの目がギラギラと輝き出した。

 地元の国立大学医学部を蹴って上京したのを正解にするチャンスは必ずある。

 そう確信したのだ。

 もちろん、メガトンはそんなことは知らない。でも、不安だった。

 ──わたしは今でもバドミントンに愛着がある。あり過ぎる。でも、バドミントンを再開したら、間違いなく数学はわたしから遠ざかっていく。そうしたら、天国のママさんとお話しするチャンスは二度と再び巡ってこない。

 数学を愛した天国の母と、数学を通して語り合いたいとのメガトンの夢は続いているのだ。

 その夢の実現のために難解な数学に無謀にも取り組み始めたメガトンだが、いつの間にか抽象的な数学のおもしろさに取り憑かれていた。

 鉄筋コンクリート造りの校舎を揺り動かす強風の中、メガトンは突然現れた一年後輩のすらりと肢体に得体の知れない強烈なパワーと恐れを感じていた。

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