人妻の女の子

淡園オリハ

1

「本当ですか?」

「えぇ、もちろん」


 胡散臭い眼鏡姿の男は鼻をフンと鳴らしながら即答する。にわかには信じがたい話だったけれど、目の前で2年前に死んだ愛犬のメロを生き返させらせられてしまったものだから、私はすっかりこの男の言葉を信じ込んでいた。


「時間を好きに巻き戻せる、って言いましたね。どうしてそんなことが?」

「企業秘密です」男は口元に人差し指を立て「それで、どうします?」真っすぐに私を見つめた。


 正直、迷っていた。十年以上連れ添った旦那。ありふれているけれど、唯一無二の幸せな家庭。

 私は今の生活を愛していた。けれど、満足しているのかは分からない。だから、迷った。


「女性にとって年齢とは罪深いもの。加齢による影響が男性よりも大きいこと、重々承知しています。だから、私が貴女の時間を巻き戻して差し上げます。もちろん、身体へのリスクは一切ありません。その後も貴女の人生は続きます」


 リスク。円満な家庭が最も嫌うその言葉に敏感に反応した私を見て、男はニヤリと笑う。


「ちなみに、この後も別のご家庭を訪問しなければならないので、決断は今ここで。あと――そうですね、五秒ほどお待ちします」

「五秒だけ?」

「えぇ」


 言っている間にも男は指を折りながらカウントダウンを始める。すでに細くしなやかな人差し指が折り曲げられていて、残ったカウントは三つ。旦那の顔がちらつく。2つ。若かりし頃の自分の姿を思い出す。一つ。私は家庭を守る主婦で……私は……私は。


 零。私は息を吸い込んで、一気に吐き出しながら答えた――。





「ただいま」と声がしたほうを振り返ると、見慣れた小太りの男性が、疲れた表情でリビングのドアを開けたところだった。旦那だった。今日は早帰りの予定だった彼は「おかえり」と告げた私を見て、三回丁寧な瞬きをしたあと、嘘みたいな尻餅をついた。口をぱくぱくさせながら、こちらを指差してあたふたしている。


「お、お前……なんだ、その姿……」

「どう、若返った私の姿は?」

「どうって言われても……夢でも見てるのか、俺」

「夢じゃないよ」


 自分でも分かるくらいにニコニコと笑いながら旦那に近付いて、そっと指を重ねる。触れた瞬間にお互いの体温が伝わる。旦那はもう一度私の顔をまじまじと眺めたあと、大きなため息を吐いた。


「いったい何がどうなって、そうなったんだ?」


 私は昼間にあったことを包み隠さず説明した。怪しい訪問販売員が来たこと、メロが生き返ったこと、私が若返ったこと。半信半疑だった旦那も、今まさに目の前でその恩恵を受けて若返った私を見て、信じるほかないようだった。


「それで、今、君はいくつなんだ?」

「そういえば……いくつなんだろう?」


 見たところ十代後半くらいの見た目だった。高校時代の自分はこんな感じだったんじゃないかと、美化しすぎないよう昔の記憶を引っ張り出して照らし合わせる。肌のハリやきめ細かさ、目元のたるみの少なさは、十代の自分そのものだ。


「巻き戻る年齢を聞かなかったのか、その訪問販売員に」

「聞いてなかった。ただ”お願いします”って答えただけで……」


 旦那はまた大きなため息を吐き、これからのことについてあれこれと考え始めた。近所との付き合いやすぐ近くに控えた旦那の実家への挨拶、終いには「僕の方が早く死ぬことになるけど、その時のお葬式でなんて言われるか……」なんて話にまで発展した。

 その中には一つも私が伝えてほしい言葉が混ざっていなかった。

「お風呂に入って寝るね」と伝え、何か喋っている旦那の横をすり抜けてリビングを出た。


 翌日、いつものようにお弁当を用意して、仕事に向かう旦那を見送った。結局、今朝も一言も「可愛いね」とか「綺麗だね」といった類の言葉は伝えてもらえず、目も見ずに「行ってきます」と口にして出ていった。私は何を浮かれていたんだろうと考えて、不意に視界が滲んだ。


 その日も、また翌日も、旦那はいつもと変わらない態度で私と接し続けた。

 変化が起きたのは、私が若返ってから、実に三か月が経過したある夜。旦那と出産についての話をしているときだった。


「僕たちもそろそろいい年齢だし、子どものこととか考えないといけないのかな」

「どうなんだろう? 子ども、欲しい?」

「よくわからないな……君は?」

「私は欲しいよ」


 旦那は私のことをまじまじと見つめる。久しぶりに見つめられたからか、むず痒いような、じれったいような気持ちになった。身体が熱い。


「そういえば」旦那が言う「その身体で出産できるのかな?」

「あ」


 確かに、もし私が出産すらできないほどに時間を巻き戻していたら、子どもを産むなんて夢のまた夢だ。

 その言葉がきっかけとなって、翌日、私はかかりつけ医のもとを訪れた。

 若い女師はいつの日かの旦那と同じように口をぱくぱくさせながら呆けた顔で私を見る。


「な、なんですか……どうされたんですかその姿……」

「ちょっと諸事情で若返りまして。先生に少し相談したいことが……」


 信じられない、という表情のまま固まる先生に、私は自分の年齢を診断してほしいと頼んだ。困った表情を浮かべながらも、先生は内臓や皮膚といった年齢が出やすい身体の部位を調べて暫定的な年齢を教えてくれた。結果、今の私は十五歳くらいらしい。

 思ったより若いなぁ、と考えていると、先生は少し神妙な面持ちで私のほうに向きなおった。


「その、こういうケースは初めてでなんとも言えないんですが、お身体におかしなことって起きてませんか?」


 変なことを言うな、と思った。十年以上も身体が若返ったのに、これ以上どんなおかしなことが起こるというのだろう。


「細胞分裂の回数や速度が異常なんです。それに、抜け毛の速度も。今髪の毛を触ってみてもらえませんか?」

「髪の毛……?」


 言われた通りに手櫛を通すと、尋常でない量の髪の毛が指の間に絡まっている。背筋がピクリと固まって、嫌な汗が流れた。


「若返ったというのは百歩譲って信じます、ただ、お身体に生じている変化はそれだけじゃないような気がします。これから何かあったら、また相談しに来てください」


 先生に見送られながら家路に着く。気持ちはずっと落ち着かない。旦那の帰宅を今か今かと待って、今日あったことを話した。


「変なこと、かぁ……。まぁ、若いから新陳代謝がいいってことなんじゃないか?」

「それだけかな? 本当に?」

「分からないよ、そもそも僕は何も分からないんだから。それこそ訪問販売員に訊いておくべきだったんじゃないのか?」


 口論になりそうな予感がしたから、私は適当なところで部屋を出て布団にくるまった。翌朝、枕には昨日よりも遥かに多い抜け毛が散らばっていて、いよいよ気分が悪くなる。吐き気を鎮めようと洗面所に向かい、自分の顔を見る。どこか違和感があった。


「若いって言うか、幼い……?」


 どことなく身長も低くなっているような気がする。昨日まで丁度よかった丈のパジャマが、少し大きく感じる。旦那は「気のせいじゃない?」と気にも留めない様子で家を出た。恐ろしくなって、病院へ行こうと思ったその時、チャイムが鳴った。


「こんにちは、先日こちらのお宅で奥様の時間を巻き戻した者です」


 どんな存在よりも心強い声だった。ほとんど転ぶような格好でドアを開けると、眼鏡の男は微笑みながら私を見下ろす。


「どうですか、その後の調子は」

「おかしいの。聞きたかったのよ、私は何歳で、これから何か身体に変化が起こったりする?」


 落ち着いて、と宥めつつも彼は愉快そうだった。微笑みを崩さないまま、事もなげに言う。


「今の貴女は十三歳くらいですね。そして、もうすぐ亡くなります」

「亡く……え?」


 亡くなります、ともう一度繰り返す男の言葉が耳に入ってこない。耳には入るけれど、頭には入ってこない。理解できずにいると、男はさらに面白そうに笑う。


「私は巻き戻す、と言ったんです。ですから、巻き戻り続けているんですよ、貴女の身体は」

「巻き戻り続けると、どうなるの……?」

「生まれる前の状態に戻りますから、まぁ、ご想像のとおりに」


 想像なんて出来るわけがなかった。男は言う。


「せいぜい楽しんでくださいね、束の間の少女の時間を。それでは」

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人妻の女の子 淡園オリハ @awazono_oriha

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