初雪
永山まい
初雪
Gift Novel
「初雪」
鈴本 小羽(スズモト コハネ)
相川 慎也(アイカワ シンヤ)
**
カプチーノ。厄介な数式をシャーペンで突きながら唱えると、案の定その言葉は復唱された。
「カプチーノ一つ。」
やっぱりな、と思わず口角が上がっていることに気付く。慌てて口元を制服の袖で覆った。
ここ所沢市日吉町にある「カフェネオン」は、家から最寄りである所沢駅の徒歩圏内に位置する。レトロな雰囲気を彷彿とさせるこのカフェは目立たない場所にあるものの、一定の人気がある。
何と言っても、粒あんの乗ったバタートーストがこのお店の絶品であり、ほとんどのお客さんがこのトーストを目的に訪れる。
この「あんトースト」に魅了されたうちの一人である小羽の前には、当然のようにあんトーストが置かれていた。
店員のお姉さんが運んでくれてから早五分以上が経過しているが、小羽はこのあんトースト手をつけられていない。小羽が決めてた「鉄則のルール」があるからだ。
「お待たせしました、カプチーノでございます。」
先ほどのお姉さんが今度は小羽の斜め前に座る若い男性客へカップとソーサーを丁寧に置いた。
「以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
まただ。小羽は周りには聞こえないように小さく溜め息を吐く。
小羽が受験勉強を本格的に開始し、その場所としてこのカフェに通い出してから早一年が経とうとしている。
周りの客など意識することはほどんどなかったが、よく来店するにも関わらず、頑なに「あんトースト」を注文しない男性客がいた。
小羽の特等席である窓際の席からほ左斜め前が彼の特等席であった。
いくら勉強に集中していても、注文の声は耳に届く。通算何度「カプチーノ」と聞いたのだろうか。
学校が終わり、そこから自転車を漕ぐこと約十分、小羽は決まって十六時半頃入店する。
「あんトースト」を注文するとすぐに最も苦手とする数学の問題集を机の上に広げる。
そこから必ず五問解かない限り「あんトースト」が届こうがて食べてはいけないという掟を設けることにより、無理やり数学への意欲を掻き立てていた。
そして今日もその男性客は十七時過ぎに来店した。
これがいつの間にか小羽にとって三十分が経過したといういよい指標となっていた。この時間になっても食べられない場合トーストが徐々に冷めてきてしまうため、焦るべき時間帯に突入したということになる。
そういう意味ではよかった。なのにその男性は、一度もあんトーストを頼まないどころか、カプチーノしか言わない。あんトーストの美味しさを知らないなんて、人生損をしてしまう。
そうこうしていると間にもトーストが冷めてしまう。小羽は目の前の数式に集中しようと肩を回した。
志望する東京の私立大学の試験日は三週間後にまで迫っている。追い込み期間にも関わらず、走らないペンにそ焦燥感を覚えずにはいられなかった。
三十分もしないうちに、カプチーノしか頼まない男性客はいつもの如く席を後にする。
いつかあの男性はあんトーストを食べてくれるのだろうか。
**
木々に付けられた電飾を横目に今日も自転車を走らせる。所沢駅は、いつも以上の活気があった。休日にしても人が多い。
ああ、そうか。今日はクリスマスか。忘れていた自分に呆れる。
世の中はクリスマスで浮かれ気分だというのに、受験勉強に勤しもうと「カフェネオン」に向かっていた。学校帰りの平日以外でこのカフェを利用するのは初めてである。休日は家で勉強することが多いが、入試を目前に控えた今、自分の機嫌を取らないことには集中できなかった。
「いらっしゃいませ、一名様でよろしいでしょうか?」
店内を見回すと、いつもより人も多く客層も何となく違った。落ち着いた雰囲気であるのがこのカフェの魅力であったが、何だかガヤガヤしていた。
勉強する場として「クリスマスのカフェ」はどうやら適していないようだ。
入店してしまったからには帰る訳にもいかない。小羽の特等席に目をやると既に別のお客さんが座っていた。
店員さんに促されたのは、カプチーノの男性が座っている席であった。いつもなら来店している時間であるが、休日であるからか姿は見当たらなかった。
席へ腰をかけると、店内はいつもと違った表情に見えた。小羽の席も様子が分かる。
「ご注文お決まりの頃にまたお伺いします。」
「あ、決まってます。」
考える間も無く、咄嗟にそう声をかけた。
「カプチーノをお願いします・・・。」
正直、コーヒーの苦さを味わえるほど大人の味覚は持ち合わせていない。数年前に一度飲んでみたことはあるものの、とても美味しいとは思えなかった。ましてや、コーヒーとカプチーノの違いもよく分かっていない。
カプチーノを頼んだのは、あんトーストを嗜みながら勉強ができる環境ではないことを悟ったからである。そして、偶然にもあの男性客の席に座ったからである。そうである。
もし口に合わなかったら、いよいよ文句を言ってみようか。あんトースト食べた方がいいですよって。
しかし小羽は我に返り首を横に振った。そんなことを突然言ってしまった暁には完全に不審人物になってしまう。男性客は到底こちらを認識していないだろう。
「お待たせしました、カプチーノでございます。」
「わ・・・可愛い。」
カプチーノの表面にはいわゆる「ラテ・アート」が施されていた。
「クリスマスに因んで、期間限定でハートのデザインになっております。」
写真なんかで見たことはあったが、実際に見ると想像以上に胸を打つものがあった。今日がクリスマスであることに初めて感謝する。
「ごゆっくりどうぞ。」
しかし、肝心なのは味である。カップを持ち上げた重量感に飲み切れるか不安が募る。
アートを崩すのが勿体無いと思いつつも、恐る恐る口にする。
「熱っ」
早く確かめたいが、味わうことができる温度ではなかった。トーストは冷ましたくないのに、カプチーノは冷まさなければ飲めないという皮肉ぶりである。
少しでもと、英単語帳を開く。すると、「wish-願い、希望。」という単語に目がとまった。
願い事か。受験に合格したい。ただそれだけのことがすごく難しいものだ。
やっとのことでカプチーノを口にする。思っていたより苦味が少なく飲みやすい。
あれ、美味しいじゃん。
バリスタの淹れ方が上手なのか、小羽の味覚が成長したのか、それともカプチーノそのものが美味しいのか、悔しいが好みであった。
**
数分でカプチーノを飲み干し店を後にした小羽は、帰路に着いていた。
家を出た時よりも一層気温が下がり、寒風が体の熱を奪うのを感じた。あまりの強風に耐えきれなくなり、自転車を降りる。このような日は、木々に囲まれた風の少ない裏道を通る方が妥当であった。
寒さのあまり俯むきながら自転車を押す。このペースだと家までしばらくかかりそうだ。
すると、地面に白い何かが舞うのが見えた。
「雪だ。」
顔を上げると、空一面に雪が広がっていた。
小羽が今年雪を見るのは初めてである。恐らく初雪であろう。
ふと、景色が一望できる「荒幡富士」という場所を思い出す。高台になっているため、そこからであれば雪景色が観られるかもしれない。
それにこの裏道からであれば十分もかからない。小羽は再び自転車に乗り直すと方向転換をし荒幡富士へと向かった。
高台の麓に到着すると、長い階段が見えた。ここから先は自転車では進めない。
どこかに駐輪しようと辺りを見回すと、路肩に別の自転車が倒れていた。この強風に煽られてしまったのだろう。
自転車を起こしてあげようと近づくと、籠に入っていたであろう物が散乱してしっまていた。
自転車を起こしがてら落ちている物を拾おうと、籠にかろうじて残っっていたビニール袋を手に取る。すると、中に「餡子」と書かれた瓶入っていた。その横には食パンとバターが転がっている。
どこかで見たような組み合わせ。この人は恐らく「あんトースト」を作ろうとしている。
気が合いそうな人だ。思わず笑みが溢れる。
この惨状を見た後に荷物置いていく気にもなれず、重いリュックを背負ったまま、階段を登る。
頂上へ着くと景色よりも先に一人の男性の姿が目に入った。雪景色を熱心に撮影している。
さらに近づいてみると足音に気がついたのか男性が振り返った。
「あっ」
思わず声が出る。そこにはカプチーノの男性客がいた。
「君も雪を観に来たの?」
戸惑う小羽に構わず、男性客は心地よい声で問いかけた。
「あ、はい、そうです」
「初雪ってさ、願い事すると叶うらしいよ。」
男性客は和かに雪に向かって手を伸ばした。
「無いの?願い事。」
「あります、それも大事な願い事が」
「いいじゃん。今から僕もお願いするよ。」
そう言って男性客は目を瞑り祈り始めた。それに倣い、小羽も雪に向かって祈った。
つまりそうか、あの自転車の持ち主はこの人なのか。
それに気がつくと思わず笑いが込み上げる。
「何がそんなに可笑しいの?」
「だってお互い様じゃんって思ったんです。」
「お互い様?」
「カプチーノ、悪くないですね。」
暫く目を丸くした後、小羽のリュックを見るなり男性客は続けた。
「君はもうあのカフェに行くことは無くなるよ。」
「え?」
それだけ言い残しこちらに背を向け男性客は階段の方へ遠ざかって行く。
訳もわからす呆然と見つめていると、突然振りこちらへ返り叫んだ。
「叶うよ、願い事。」
小羽が男性客の名前を知ることになるのは、まだもうちょっと先のお話し。
Fin.
初雪 永山まい @mainagayama-iu
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