幽香

風凪 颯音

幽香

ふわりと柑橘の甘い香りが鼻をくすぐる。匂いの元は、先輩の手の甲に出された白いクリームからだ。それを、私が広げていく。柑橘の香りがほのかに広がる。

「ごめんね。急に呼び出しちゃって」

向かいの席に座る先輩は照れくさそうに笑う。

「全然大丈夫、です。私も暇だったので……指、開いて下さい」

目を合わせずに、私は答える。はーい、という力の抜けた返事と一緒に開かれた先輩の指の間にも満遍なくクリームを塗っていく。

 試験の前に、少し手伝ってほしい事がある。電話の向こうから聞こえる先輩の声は 不思議とどこか楽しそうに聞こえた。待ち合わせ場所に指定された場所はピアノ練習室。

「手がひび割れちゃいそうでさ。クリーム、塗ってくれない?」

練習室に入った私に、細い指を見せながら先輩は私に言った。この後には学科の試験が控えていて、気になったのだろう。

 どうして私なんですか、と喉から出かかった言葉を飲み込んで、私は差し出されたクリームを手に塗っている。人望のある先輩の事だ。他にも頼める人はいるだろうし何より自分で塗ることだってできるだろう。少し顔をあげて、先輩の顔を盗み見る。

と、目が合った。二重の、少し細い目が悪戯そうに私を見つめていた。思わず目を逸らす。

「なんで私なんだろう、とか思ってたんじゃない?」

楽しそうな声が聞こえる。返事をする代わりに、少し力を込めて手を握る。その返答のように、私の手の中で細い指がキュッと動く。思わず頬が緩んでしまう。

 二日前に、私は先輩に自分の思いを告げた。先輩は驚いた表情をした後に、少し考えてから返事をくれた。少し待ってほしい、と。先輩の志望している音楽大学への校内推薦。その校内選抜試験が終わるまでは少し待っていてほしい。真剣な表情だった。

もちろん私はそれを受け入れた。受け入れるしかなかった。先輩のピアノの腕は学年を越えて有名であったし、将来は音楽の道を志している事も噂で聞いていた。その夢への一歩目ともなるだろう試験を邪魔する事なんて、私にはできない。

 ふと、意識が先輩の指へ向く。この細い指が奏でる音が、私が好きだ。その指が私の手の中にある。少し、力を入れてしまえば折れてしまいそうなしなやかな指。もしこの指が、音を奏でなくなったら……

「もしもーし。ちょーっと痛いんだけどなー?」

はっと我に帰って顔を上げる。目に映るのは、悪戯そうに笑う先輩の顔。思わず手を

引いてしまう。

「うん、ありがとうね。これで試験もばっちりだ。」

私の考えなど分からないだろう先輩は、両手の裏表を見て満足そうに微笑む。それは

良かった、という言葉が喉から出る前に私は椅子を立ち歩き始める。先輩へ抱いて

しまった考えが許せなくて。すぐにでもこの場を去りたかった。

「待ってよ」

不意に、手を掴まれる。しっとりとしたその手がどこか気持ちがいいな……と思う

前に、体が引き寄せられる。振り返って見えたのは、細い一重の目。が、すぐに視界が塞がれる。ふわりと香る、柑橘の香り。そして、唇に触れる柔らかい何か。一秒か

十秒か。その何かが唇を離れるのが、どのくらいの間かは分からなかった。

ふっと視界が開けて、唇が自由にになる。見えたのは、頬を赤らめ悪戯そうに微笑む先輩の顔。

「唇、乾燥してるじゃん。」

あっけにとられる私の手に握られるものがある。細い形からしてリップクリームだろうか。

「行ってくるよ。あと少しだけ、待っていて。」

ニカっと笑った先輩は、そう言って音楽室を足早に出ていった。

 部屋に残されたのは、甘い柑橘の香り。この匂いと、唇に残る感覚。多分、忘れられないんだろうな、とぼんやり私は考えていた。

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幽香 風凪 颯音 @komadenx

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