あんたのお立場“立件”します。〜三十路男の王立婚約婚姻相談室〜

向野こはる

あんたのお立場“立件”します。〜三十路男の王立婚約婚姻相談室〜




 三十歳にもなれば、人生いろいろあるなぁと実感する事が多くなる。

 例えば面倒な仕事をやらなくて済んだら、五倍くらい面倒な職に就くことになったり、十以上も年齢の違う婚約者ができたり、職場に王太子が訪ねてきて、自分が大層好きな女の婚約破棄依頼をしてきたり。

 俺は用意した紅茶を盛大に吹き出しそうになりながら、なんとか頑張って咽せた。鼻から出たかもしれない。とても痛い。


「…………は? 何? なんだって?」

「ですから叔父上! 私は彼女に一目惚れをしてしまったのです!!」


 この国の王太子ビスケイスは、爛々と目を輝かせて力説した。

 なんでも、今年入学した学園の学徒の中に、それはそれは美人な令嬢がいたのだという。その令嬢はショコラータ子爵家の長女で、名をガラナ・ミルキィス。柔らかな乳白色の髪に、宝石を思わせる紫の瞳が目を引く、美少女なのだそうだ。

 魔法始祖の血を引く一族で、本人も高い魔力を持っている。彼女が扱う魔法は極めて繊細で、授業で披露する魔法は、どれも見惚れるほどの出来栄えなのだとか。

 俺は相槌を打ちながら、甥っ子の夢見心地に辟易して、ひっそり溜め息を吐き出した。


「あー……はい、で、そのお嬢さんと結ばれたいって?」

「はい。ですので、叔父上にお願いに参りました」


 にっこりと笑う顔は、腹黒さなど微塵も感じない。本当に純粋な恋慕一筋で、その女の婚約破棄を望んでいるらしい。

 俺はいよいよ頭痛が襲ってきて、隠さず息を吐き出した。



* * *



 俺の仕事は、貴族専門の婚約・結婚に関する相談窓口業務である。

 貴族や王族の婚約・結婚は本当に特約が多く、家同士で解決できない問題が発生した時に、政治的観点からアドバイスを受ける事ができる窓口だ。

 なんでこんな窓口が出来たかと言うと、簡潔に言えば世界中で若者に流行している、婚約ブームに対応するためである。

 ここで間違えないで欲しいのは、婚約ブームである、ということだ。結婚ブームではない。

 男と女が婚約関係になり、結婚までの道のりやイザコザを楽しみ、いざゴールイン! を迎える前に婚約を解消するカップルが山のようにいるのである。

 ヤバいと思わんか? 少なくとも俺は世も末だなと思っている。

 若いカップルの間では、婚約破棄すら人生経験だと肯定する連中もいるくらいだ。


 さて、若者達の婚約ブームの裏で悲鳴をあげるのは、可愛い子息子女を育て上げた、親世代なのは言うまでもない。

 家同士、政略か恋愛かはさておいて、様々な未来を予想し結ばせた婚約が、ゴールインする前に破談するのは、家にとってはかなりの痛手である。

 もちろん、その状況を肯定的に捉えて、より良い家柄を取り込もうと画策する親もいる。というか今の状態では、知恵の回る方が勝ち残るので、そうならざるを得ないのかもしれない。

 とはいえ、そんな柔軟思考な家ばかりでないのは、お察しの通り。被害を最小限にするために開設されたのが、婚約・結婚相談窓口だ。


 対応職員は何人かいて、内容が内容だけに、就職するには国でも最難関と言われている。一応、俺の肩書きは責任者だ。まぁ職員みんなが優秀なので、俺は居なくてもいいんじゃないかと常々思っている。

 俺の仕事など、時折舞い降りてくるクソ案件に対応するために、ふかふかの椅子に座らされていると言っても過言ではない。


 ──そう例えば、婚約者のいる王太子が相談室まで押し掛けてきて、冤罪による婚約破棄を求めるような。


「……ビスケイス。お前、もう一度、自分の発言を考えてみろ。お前にはカッフェス公爵令嬢がいるだろう? それなのに令嬢を二人も婚約破棄させて、自分は好いた女と結ばれたいって意味を分かっているか? だいたい、お前の父上が許可すると思っているのか?」

「ですから、叔父上の所に相談にきたのです。現状、父上は絶対に私の婚約破棄を了承しないでしょう。婚約破棄を可能にする立証を揃えて欲しいのです」

「…………マジで言ってる?」

「大マジです」


 お兄ちゃん、あんたの息子、めっちゃ馬鹿。

 心の中で字余りの一句を詠んでから、俺はますます痛い頭を片手で押さえて、思考回路を高速で巡らせる。

 馬鹿どころの騒ぎではない。王太子がこんなでは、国の根幹をも揺るがしかねない。言動だけ聞けば人格を疑うが、為政者になる器としてなら彼は優秀なのだ。きちんと正さなければ、王家は世継ぎを失ってしまう。

 ビスケイスを失うのは、俺としても惜しい。こんな男でも優秀で可愛い甥っ子だ。優秀すぎて昔から兄夫婦にゲロ甘に甘やかされて、自己肯定感及び自尊心が世界一高いだけで。


「……その、ショコラータ子爵令嬢の婚約者が、誰だか分かっているのか?」

「いいえ、わかりません。彼女も、子爵家も公言しないのです。だからこそ私は、彼女が望まぬ婚約をしているのだと確信しています」 


 貴族の身でありながら婚約者を公言しない、と言うのは、この国に限ってだが決して少なくない。

 親世代が、子供達が婚約を破棄してしまった場合の醜聞を隠す、という目的もあるが、未成年者を守る為という、正当な理由もある。


 婚約ブームは、おのずと婚約破棄の増加にも繋がったのは、言うまでもないだろう。


 婚約した家柄同士が明快になっていると、再び婚約者を探すときに、どの爵位と婚約していたのかが足枷となる事が多いのだ。

 実際、相談窓口が開設される前は、身分違いの婚約破棄騒動が原因で、貴族社会からハブられてしまい、爵位を返上した家もある。


 相手を隠す家は、確かに問題を抱えている事が多いのは事実だ。特に成人する前の令嬢で、婚約相手が成人済みだったりすると、周囲が勘ぐるのも頷ける。

 俺は冷めた紅茶を飲み干してから、改めて座椅子に座り直した。


「相手も分からない婚約者の婚約破棄を誘発させ、自身の婚約も穏便に破棄し、確固たる証拠を王と王妃に提出して納得させ、ショコラータ子爵令嬢とめでたく結ばれる……って、筋書きにしたいと?」

「さすが叔父上、話が早い!」

「いや何も進んで欲しくないんだが」

「私はミルキィス嬢を救いたいのです! 下賎な輩が彼女を汚す前に、彼女を救い出して、真実の愛によって彼女を幸せにしたいのです」


 お兄ちゃん、あんたの息子、やっぱ馬鹿。

 二回目の心の一句を詠んでから、俺はソファーから立ち上がらんばかりの甥っ子を、両手を上げて制する。

 何が真実の愛だ。言っている事が無茶苦茶である、控えめに言って持論が汚物。お育ちがよろしくない。

 

 おおやけにしていないが、確かに俺は相談者の要望で自分が扱える魔法を駆使し、事実を捏造して婚約破棄に持ち込んだ事がある。

 だがそれはあくまで、相談者の身体を守る為だ。

 性的虐待を受けていた相談者が、婚約者やその家族に罪を問うことができず、俺のところへ助けを求めにきた特殊案件。話を聞くだけではなく、相談窓口職員総出で相手の状況も踏まえて調査し、相談者の立場を明確にした上で、事実を捻じ曲げたのだ。

 相談者の命が危険に晒されていたから、自分も納得して行った事であって、今、この状況で出来るわけがない。


 目の前にいる甥っ子は、自分がいかに彼女を好きか、自分がいかに彼女を救いたいか、朗々と語り尽くしている。お馬鹿すぎて目も当てられない。恋は盲目と巷で言うらしいが、目ん玉を自分で抉り出したのではないだろうか。

 呆れて閉口する俺をよそに、ビスケイスは興奮気味に息巻いた。


「それに! ミルキィス嬢も、私を好いてくれているのです」

「はぁ」

「二人きりになった時、私に身を預けてくれたのですから」


 からん、と。回していたペンが落ちた。

 俺は動揺してしまい、二の句が続けられず口を半開きにする。ややあってから意識を引き戻すと、まさか、という思いと、そんな、と言う困惑が頭を駆け巡った。


「……二人きり、だと?」

「そうです。彼女と同じ委員会の活動中に、運よく二人で行動する事が出来まして。エスコートしていましたら、ミルキィス嬢が、こう、体を預けてこられて……! やはり彼女も、私と思いあってくれているのです!」


 俺はペンを持ち上げようとして、失敗して再度落とした。

 もの凄い勢いのポジティブさ。逆に眩しい。とはいえ、俺としてはそうも言っていられない。尚も言葉を重ねようとする甥っ子を制し、なるべく声音を平静に保ちながら視線を下げた。


「……分かった。そこまで言うなら、まずはビスケイス、お前の婚約を破棄するよう誘導しよう」

「ありがとうございます! なんでも協力しますから、おっしゃってください!」

「ああ、はいはい、俺が動きづらい学内の事は、何かと頼むよ」


 片手を振って退出を促せば、ビスケイスは立ち上がり、どの貴族もお手本となるような気持ちの良い角度で挨拶し、相談室を後にしていった。

 完全に気配が遠のき、退出したことを確認してから、俺は思わずペン先を机に叩きつける。

 こうしてはいられない。俺は放置していた書類をそのまま、座椅子を蹴って立ち上がった。


 彼女が男と二人きりになるはずがない。彼女は常に細心の注意を払い、そんな状況にならないよう立ち振る舞っているのだ。俺は魔法を解除していないから、本当に二人きりになった事が事実であれば、作為的でしかない。

 俺は隣室で事務処理をしている他の職員に声をかけ、出かける準備をするべく、事務室の通路を突っ切っていく。

 いってらっしゃいませ、と背後で全員が頭を下げるのを尻目に、俺は扉を閉めて自室に向かった。途中で控えていた使用人たちが後に続く。


「……やってやろうじゃないか、事実無根の婚約破棄。絶対にあんたのお立場してやるから、覚悟しろよ……!」


 小さく呟いて、目を細める。

 悪かったな、彼女の望まぬ結婚相手で。そんなこと当人の俺が一番よく知っている。

 ガラナは意図せず男と二人きりになり、恐怖で身を強張らせていたのだろう。ビスケイスは身体を預けてきたと言ったが、彼女は意識的に、抵抗を最小限にしようと萎縮したのだ。

 抵抗すれば、殴られ蹴られる事が、彼女にとってごく最近まで、当たり前のことだったから。

 こんな事ならガラナには、婚約者だと公表しても良いと、言ってやればよかった。


 本当に冗談ではない。俺だって一人の男である。

 大切に愛しみたい相手一人、護る責務と意地があるのだ。



* * *



「……そうですか」


 話を聞いたビスケイスの婚約者、カッフェス公爵家の御令嬢、シュガルテ・アイス嬢は、ただ静かにそう言った。

 その隣では、俺の内密の婚約者であるガラナが、アイス嬢を見つめて唇を噛み締める。

 応接室へ二人を呼んだ俺は、これから婚約破棄の為に一芝居打ってくれるよう、王太子の世迷言を一字一句漏らさぬよう伝えた。令嬢二人が眉根を寄せたまま聞いているのが心苦しく、俺は針の筵にいるような気分である。

 あんな王太子でも仲が良かった、冷静沈着なアイス嬢は、意外にもすんなり事実を受け入れた。公爵家の一員として、政略結婚として申し分ない相手だろうに、それを手放す意志が固いようにも見受けられる。


「……すまない、なるべく、公爵家に被害が出ないように進める」

「お心遣い感謝申し上げます。……それで、わたくしにどのような振る舞いをご命令でしょう」


 淡々と事務処理の如き返答に、俺の方が怖気付いて言葉に詰まった。


「……その、俺の魔法は、多少なりとも印象付ける事柄が必要だ。それでアイス嬢には、ミルキィス嬢から、時折何かを受け取ってほしい」

「何か、とは?」

「なんでもいいんだ。ただ、封筒のように、印象が一定のものだといい。それを不特定多数に目撃させ、俺が魔法で事実を捻じ曲げる」


 俺の魔法は、世間一般の魔法が使える人間の中でもかなり異質。記憶の改竄だ。発動条件は、他人の印象に残る事実。それに関連づけるように、記憶を捻じ曲げる。

 かいつまんで説明すれば、アイス嬢は頷いて、座った状態でゆったりと頭を下げた。


「謹んで、お受けいたします。……ショコラータ子爵令嬢様も、どうぞご協力を」

「は、はい」


 潔い言動に、罪悪感で押しつぶされそうである。退出の許可をとって立ち上がった彼女に、俺は思わず声をかけた。


「…………ごめんな、あんな甥っ子で。……貴女を幸せにできる男だと、思っていたんだがな」


 ソファーの横で立ち止まった彼女は、冷淡にすら見える双眸で、真っ直ぐに俺を見返す。流れるような艶のある金髪に、紅色の瞳の美女は、ドレスを持ち上げて軽く膝を折った。


「至らぬ発言をお許しください」

「あ、ああ」

「……ビスケイス様は、愛に盲目なのです。私と出会った幼少より、ずっと。それだけはどうぞお忘れなきよう、お願い申し上げます」


 極めて手本になる所作で深く頭を下げ、アイス嬢は颯爽と応接室を出ていく。

 俺は指先で頬をかき、長く息を吐き出した。

 

「……ガラナ、君も大変だっただろう…、なんか面倒な事になってしまって……」


 テーブルを見つめたまま口を引き結ぶガラナに、そっと声をかける。

 ようやくDV男から解放されたと思ったら、勘違い自己完結男に付き纏われているなど、どう考えても心労困憊だろう。ただでさえ、男女関係にはナイーブな子だ。我が甥のことなので、胃に穴でも開きそうなほどである。


 俺はガラナを呼んで隣に座らせ、そっと両腕に抱き締めた。最近ようやく、抱きしめるくらいの仲に発展し、少し感慨深い。

 事情があって婚約した仲だが、お互いに愛を育んでいけたらと思った矢先の、ビスケイスの問題行動だ。俺の煮えくり返ったハラワタが、口から飛び出なかっただけでも、褒めてもらいたい。


 彼女は肩に顔を埋めて深呼吸すると、おずおずと顔を上げた。そして迷う素振りを見せた後、意を決して口を開く。


「お、恐れながら……殿下。……か、っ彼らの、言動を、……鵜呑みにしては、いけませんわ」

「え?」

「わ、わたくしは学園の委員活動で、王太子殿下と、っ二人きりになど、なっておりませんの。……だって、殿下の魔法は、わたくしも解けないほど、強力ですわ。殿方と二人きりになるなど、あ、あり得ません」

「それは……」

「どうか、だ、騙されないでくださいませ。……殿下のこ、婚約者であるわたくしを、王太子殿下が本当に知らないなど、……有り得ると、思いますの?」


 

* * *



「シュガルテ。君との婚約を破棄させてもらう」


 卒業パーティの当日。長く、約三年の時間をかけて準備した、事実無根の婚約破棄による断罪劇は、ビスケイスの一言から始まった。


 先生方が退出し、学徒だけが華やかな衣装で集うホールが、一瞬で鎮まりかえる。俺は王族用の二階席の袖で、事の顛末を見届けるべく、一階を見下ろして目を細めた。

 片腕の中には、ハラハラと青い顔をしたガラナが、八の字に眉を下げて俺の胸に縋り付いている。優しげな印象の瞳は今にも泣き出しそうで、俺は細い肩を優しく撫でた。


「…………理由をお聞かせ願いますか」


 平坦な声音で、ビスケイスの目の前にいるアイス嬢が口を開く。王太子は得意顔で、自身の胸に片手を置いた。


「君が私に相応しくない女性だからだ。君がショコラータ子爵家の、ガラナ・ミルキィス嬢を犯罪者に仕立て上げようとしていたと、調べがついている」

「…………覚えがございません」

「しらばっくれるのか? 皆に愛される彼女がこの場に来ていないことが、何よりも証拠だと思うが? 君が彼女に違法薬物売買の中継役を担わせていたのだろう。皆が見ていたぞ」


 会場内が大きく騒めいた。

 違法薬物とは、魔法に対し使用が禁止された薬草類のことだ。異常に魔力を増幅させ、使用者の健全な精神と引き換えに、強力な力を得るチート兵器である。そして違法薬物には依存性があり、副作用の禁断症状が強く現れるのが特徴だった。

 この国では昔から、違法薬物の事件が多い。特に貴族の汚職ではダントツだ。

 アイス嬢は扇で口元を隠しながら、目を細める。


「…………覚えにございません」

「調べがついていると言っても?」

「…………本当に覚えがございません」

「なら、証明してもらおう。ミルキィス嬢に!」


 ビスケイスが片手で二階席を差し示す。それを合図に、俺はガラナの背中を押した。彼女は俺の顔を見て、瞳から涙を零して唇を噛み締め、一歩踏み出した。

 王族の席から現れた、学園一の魔法学士に、ざわめきは更に大きくなる。

 ガラナは大きく深呼吸してから、両手を胸の前で組み声を張り上げた。


「──それは事実無根です!皆も知っているはずです、見ていたはずです、カッフェス公爵令嬢様こそが、ビスケイス王太子殿下に蔑ろにされ、薬物の売買に加担させられそうになった事を!」


 美しい、朗々とした声が空気に透き通る。


「嘘と言うなら、反論なさい。我が婚約者、トリニタリオ王弟殿下の名の元に誓って、ビスケイス王太子殿下を糾弾いたしますわ!」


 いい終わるや否や周囲の喧騒は、もはや怒号に変わった。


「っそうだ、何を言っているんだ!」

「見ていたって、何よ。貴方がアイス様に接触しているのを見たわ」

「何か渡していたのを、わたしも見たわ!」

「殿下がアイス様を謀ろうとしたんだろう!」


 口々に放たれる野次に、ビスケイスは目を丸くして、キョロキョロと見渡す。アイス嬢は音を立てて扇を閉じると、宙に魔法陣を浮かばせ、数枚の写し絵をばら撒いた。


「……妄言は、こちらをご覧になってから、言ってはどうです?」


 魔法を込めた念写機が排出した紙が映し出すのは、明らかにヤバそうな連中と、何かを取引する王太子の様子である。最前列にいた学徒がそれを拾い上げ、数人は顔を真っ青にして写し絵を手放し、回れ右をして大急ぎで駆けて行った。

 俺は逃げ出した学徒の顔を懸命に記憶し、呆然と立ち尽くすガラナを抱き寄せ、二階席を降りる階段へ急ぐ。彼女は堪えきれずに、しゃくり上げて俺の腕にしがみついた。


様……!わ、わたくし、ほ、本当に、こんな、こんなぁ……!」

「いい、よくやった。俺も泣きたいよ。終わったら一緒に泣こうガラナ」


 怒号が収まらない会場を、学徒の目を盗むように抜けながら、俺は彼らの様子を見る。

 ぽっかりと空いた人だかりの中心で、言葉の暴力を浴びながら、ビスケイスがじっとアイス嬢を見つめていた。俺の位置からは、彼女の顔は見えない。それでも僅かに肩が震えて、扇を持つ手に力が入っていることだけは窺えた。

 辛かっただろう、苦しかっただろう。この約三年、アイス嬢は本当に良くたち振る舞い、立ち向かった。

 ホールを出る直後、少し驚いた顔をしたビスケイスが、柔らかく笑って呟いた声だけが、なぜか喧騒をすり抜けて俺の耳に届いた──気がした。


「……まだ泣かないで、シュガー。愛してるよ」



* * *



 俺たちが行った記憶の改竄は、大いにビスケイスを貶めた。

 俺の魔法を打ち消せない代わりに、唯一介入できる魔力を持つガラナが、ビスケイス王太子に変身したのだ。

 違法取引に見せかけた現場は、本当ならガラナとアイス嬢が顔を合わせていた。しかし他者の目に、ビスケイスとアイス嬢が行っていると、錯覚させたのである。

 そこに俺の記憶改竄魔法を流し込み、目撃者の記憶はビスケイスを悪役に仕立て上げた。後は俺が介入しなくとも、噂は根も葉もついて飛び回り、増幅させて悪意を持っていく。

 全て狙い通りに運べただろうか。

 実の父親を王座から引きずり下ろすために、自らの貴族生命を投げ打った甥っ子の断罪劇は。

 俺は顔面蒼白で王座に座り込む国王を見下ろし、眉を寄せる。


「……やっぱその王冠、似合わないんじゃないか?」

「…………待ってくれ、わ、私は、違う、全て息子がやったことで……」

「それは無理だろ。カッフェス公爵が死に物狂いで集めた証拠が、こんなにあるのに」


 国王の足元には、アイス嬢がばら撒いた写し絵……の本物が散らばっていた。その他にも、アイス嬢がガラナを通し、内密に俺に届けてくれた告発文が、公爵家の家紋と共に羊皮紙に刻まれている。

 卒業パーティーの会場で広げたのは、写っている人物をビスケイスに偽造したものだ。普通そんな芸当、到底無理なのだが、それを可能にするのが我が婚約者、ガラナである。

 写し絵を飾るのは、国王の側近たち。事実無根の婚約破棄騒動から逃げ出した、学徒の親や親族たちだ。

 俺は羊皮紙で国王の王冠を軽く叩き、冷めた顔を隠さず表情を歪ませる。


「あんた、ガラナの一件で俺に言ったよな? 薬物だけは使用していないって。子爵家を脅して、あの子を無理矢理妻にして、口答えできない状態で毎晩クソみたいな行為に及んでたのは、薬物のせいじゃないって」

「ほ、本当だ、私はそんな」

「だから俺は、あんたに温情をかけた。更生するだろうと期待して、記憶にも配慮してやった。二度とあの子に近づかない事を条件に、いろんな事をのんでやった。それなのに今度は、アイス嬢を同じ立場に晒す気だったって?」


 魔法始祖の直系である子爵家の血筋を、確かに王家は欲しがった。だが、十分に発展している子爵家は望む地位も褒美もなく、王家に入る事を辞退した。それを国王は、王命によって無理矢理召し上げたのだ。


 国王の婚約側妃だったガラナ。最高権力者に逆らえず、苦しんでいた少女。男不信で怖かっただろうに、俺なんかに縋らないと、誰も助けの手を差し伸べられなかった、最愛の人。


 俺は自らの魔法と立場を駆使して、彼女を助けることができたが、ビスケイスは違う。王太子である彼はまだ、立場も戦略も、大人相手に戦うには拙すぎる。

 だから彼は、俺に相談しにきたのだ。

 婚約者であるガラナの話題を出せば、自ずと動いてくれるだろうと確信を持って。

 

 酷い三文芝居だ。酷すぎて涙が出て、悔しくて、笑いすら込み上げてくる。本当に彼は、愛情に盲目な男だった。

 婚約破棄の全ての責任を自らに被せて、彼は悪役となった。アイス嬢の立場や尊厳を一つも貶める事なく、王家に疑いの目を持たせる為に。

 結婚によって国王から逃げ場がなくなる、愛する女の為に。


「奥方の記憶を改竄して、仲の良い夫婦にしてやったのは誰だ? 周囲の人間の記憶を改竄して、立場を守ってやったのは誰だ? 俺との妙ないざこざが起きないよう、俺の記憶にすら蓋をしたのは、あんたが泣いて俺に縋ったからだ」


 俺は羊皮紙を投げ捨て、踵を返す。王座を降りる階段を進み、何も言い返せず、口を半開きにしたまま硬直する国王を見上げた。


「俺だって、自分の記憶に蓋した事を、もう一度こじ開けたくはなかったよ」

「っ待ってくれ、違う、私は違う、全て息子がやったんだ! 私はただ、馬鹿な息子からカッフェス公爵令嬢を、救いたいと……!」

「同じような事を言うなぁ、やっぱ親子だな。……逃げても隠れても無駄だ。俺の優秀な部下がもう、側近たちを捕縛し始めている」


 指先で緩やかに、空中に魔法陣を描いて展開する。彼が目を見開いて立ち上がった。泡を吹いて倒れそうな勢いで、王座から転がり落ちた彼を、俺は無表情で見つめる。


「あんたの立場、必ず立件してやるよ。……いいか、。必ずだ」



* * *



 俺は長い廊下を歩きながら、はーあとため息をついた。隣を歩くガラナが、眉を下げつつも微笑んで腕を絡ませる。

 面倒な仕事をしなくて良くなったと思ったら、やはりお鉢は回ってくるらしい。半分は自ら引き寄せたので文句は言わないが、ため息くらいはつかせてもらいたかった。

 ふと気配を感じて顔を上げると、中庭を挟んだ反対側に、ビスケイスとアイス嬢が居るのが見えた。

 柱の影になっているので、俺の位置から甥っ子の顔は見えない。アイス嬢が両手で数回、ビスケイスの頬を叩いたかと思えば、幸せそうに抱きしめられているのを、悪くない気持ちで少しの間、眺めていた。


「……び、ビスケイス王太子殿下は、廃嫡されて、っしまうのでしょうか……? 親の責務は、子の連帯責任に、な、なりますものね……」


 同じく見つめていた婚約者が、小さく呟く。


「いや、俺の養子に入れるから、大丈夫だろ。大丈夫にする。そうじゃないと、学生生活を台無しにしてまで互いを守ろうとした、未来の国王夫妻の頑張りが報われない」


 彼女を促した俺は、次の算段で思考回路を動かしながら、歩みを進める。やる事は山積みだ。記憶を改竄するより、現実は無情で慈悲がない。

 立場が己の手に戻ってくるというのは、全く面倒至極である。

 再三のため息をついた俺の手に、ガラナが控えめに指を絡ませた。少し低い体温に目を向けると、彼女は華のように美しく、柔らかな笑みを浮かべる。


「大丈夫ですわ、ラスティ様。必ず、立証しましょう、ね」


 出来ると思えるのだから、恋に盲目なのは血筋なのかもしれない。

 愛しさと、照れくささが入り混じる顔で笑って、俺はガラナの唇に吐息を近づけた。

 

 

 


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