第3話 リアンさんと咲かずの桜
強めの風が吹くとどこからか桜の花弁が幾枚も渦をつくって朝の空を流れた。薄手の上着一枚で丁度良い陽気だった。
使い慣れない道具を詰め込んだリュックを背負いはやる気持ちに急かされて集合時間の10分前に着いたものの先輩2人はいなかった。大学の音楽堂前を集合地点にしたが、ゴシック調だかバロック調だか知らないが無駄に荘厳な佇まいの建築は敷地内でも浮いた存在だ。主な利用者である音楽科の生徒がその他の学科生と交流が乏しいのは建物と対応しているように思ってしまう。
土曜日は当然講義がないため、いるのは研究や課題に追われる院生や教授陣、雑務を消化する事務方くらいで駅も含めがらんとしている。まして昆虫採集をする人なんて誰も想定してないだろう。いやリアンさんのいたあの部屋、あそこが部室なのだとしたら彼女たちが虫を生業にしているのは少なくとも大学側は把握しているかもしれない。結局あの部屋が何だったのか聞けずじまいなのをたった今思い出した。まあ大したことじゃないしそのうちでいいか。
今日はリアンさん、小栗先輩と3人で虫を採る。ついでに『咲かずの桜』を見に行く予定だ。俺にとって初めての本格的?な昆虫採集がどうなるのか、何を採るのか、どこに行くのか、何も知らされていない。言われたのは水分を取れるもの、財布、スマホ、動きやすく汚れていい恰好など最低限の持ち物と服装とここに朝9時に来る。それだけだ。
リアンさんは感情が読みやすいわりに脳内で何を考えているのかは俺の共感力の低さを抜きにしても分かりにくい。
だから不安もある。今は何となく新鮮さや興味心で俺を構ってくれているが気づけば距離が離れていくんじゃないかと考えて昨日は眠れなかった。花粉症も相まり閉じた瞼を擦りすぎて泣きはらしたように赤くなってしまった。
不安ごとは別にもある。小栗先輩、彼女はリアンさんが途方もなく明るい光源だとすれば眉目秀麗な人皮を被った暗黒そのものだ。外見で隠しきれないほど底抜けな不気味さを秘めている。初対面でそう思わされた。裏があるのは間違いないが何を考えているのか不明で、なぜリアンさんと仲がいいのかもよくわからない。できればリアンさんには距離を置いてほしいが、知り合って数日の俺如きが彼女の友人に口出しはできない。特大のため息が地面に落ちていった。
そうやってうつらうつらしていると講堂のある丘の上から手を振る影が見えた。片手には長い棒を持っている。
「おーい! おはよー!」
寝起きとは思えない声量を吐きながらリアンさんが走ってくる。目の前に来てから挨拶すればいいのに。
その後ろからてくてくと坂を下るのは張り付けたような微笑の小栗希乃先輩だ。俺と目が合うと片手をやや上げて軽く振った。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「朝から堅苦しいなー! もっとシャキッとしろよ!」
「リアンさんは…ちょっと元気過ぎませんか?」
「そりゃあ天気もいいし気温も高いし、絶好の採集日和だからよ! テンション上がって寝不足だわ~」
「ああ、くまができてますね」
「遅刻しそうでメイクしてこなかったしなぁ」とリアンさんは涙袋のあたりを指でぐにぐに触る。そういうのに疎い俺から見ればメイクしてないとは信じられないくらい綺麗な肌をしてると思うが……余計なことは言わないのが吉だと知っている。
そんなことより俺は彼女の背後から静かにやってくる先輩の方に意識が向いてしまう。
「……小栗先輩もおはようございます」
「うんおはよう後輩君。それとも高橋君? どっちがしっくりくるかな?」
「えっと、どちらでもお構いなく」
「つれないね君は。梨杏だけでなく私のことも相手してほしいのに」
先輩の白銀の髪が額に落ちた。あからさまな上目遣いで懇願されても俺には恐怖心しか湧きませんよ――とは言えない。臆病な俺にはせいぜい、
「あはは…勘弁してください」と早めに降参するしかない。
小栗先輩は気にせず、
「そうね。なら高橋君にしよう」
「はい。それでいいです…」
「さあさあ2人とも、こんなとこでいつまでも喋ってないで早く目的地まで行くわよ!」
2人の会話の切り良い所を待って棒を空に突き出すリアンさん。それに同調したいがまず聞いておかなければならない。
「今からどこに行くんですか? 何も知らないままなんですけど…」
「あらそうなのね。ダメじゃない、初心者の後輩君に説明しておかなきゃ」
早速呼び方ちがうんですけど。
「ごめんごめんっ。当日までの楽しみにしといて法がいいかなーって」
「大丈夫ですよ。顔に出てないだけでワクワクはしてますから」
「そう?ならよかった! 今日するのはズバリッ、花掬いです!!」
「いえ~い」
「…はなすくい?」
時は満ちたと言わんばかりのリアンさんの発表に飄々としながらも浮かれ気味な小栗先輩の嘘くさい歓声が挟まれる。独特な盛り上がりをみせる2人のノリにいまいちついていけない。これが陽キャってやつなのか……。
花を掬うことのどこが昆虫採集なんだ? まあタンポポや花壇の花の周りをハチやチョウが飛んでいるのは想像できるが、それを掬うと言われると変な言葉の違和感を感じる。
「ねえ梨杏。どうやら後輩君は何のことだが分かっていないみたいだ」
「え、花掬いわからない? 咲いてる花を網で掬って虫を採るんだけど、伝わってる?」
「いえあの言いたいことはわかるんですけど、想像する虫捕りとだいぶイメージが違ったので…ハチやチョウを採るんですか」
「違う! いや違うこともないんだけど、今日はそっちは外道。本命はあたしの一番好きな虫。覚えてる?」
こないだ部室で言われた。あの熱量を忘れるわけがない。
「…カミキリムシ?」
「大正解!! 今回はカエデの花掬いで春のカミキリ採集に行くのよ!」と、棒を地面に突き立て言葉を続けた。
「季節的にはちょっぴり早いんだけど下調べで咲いてるのは確実だから期待していいわよ。虫慣れしてない高橋の入門にぴったりなはず!」
先輩なりに、やはり色々と俺のことを考えてくれているみたいだ。この程度のことなのかもしれないが優しさに胸が熱くなってしまう。
「ありがとうございます。今日誘ってくれて」
「ま、まだ何もしてないのになに言ってんの! もう、さっさと向かうわよ! ちょっと歩かなきゃいけないから」
「は、はい!」
感情を隠すようにリアンさんはペットボトルを取り出しつつ歩き出した。俺と小栗先輩も後ろをついていく。すると隣で、
「…なんだろう。2人見てると付き合いたての中学生カップルにしか見えないね」
「カップッ!?!?」
リアンさんが盛大に吹き出した。
いきなり何を言い出すんだこの先輩は。
「いいいきなりなに言い出してんのよ希乃!」
平静のフリをする俺の心の声と丸被りした。なにこれ恥ずかし。
「いやあ君たちって純粋というか無垢というか。お子様だなあと思ってね。可愛らしくていいと思う」と言ってのける先輩の顔は誰がどう見ても人の恥を肴に愉悦に浸っていた。
「へっ変なこと言うな!! 別に高橋のことなんて何とも思ってないんだから!」
「本当に?」
「ほんとよ! 当たり前でしょ!?」
「でも後輩君の方はそう思ってないかもよ」
先輩はさらに余計な言葉を囁いた。
「へ……ええ!?」
「うううそでしょ?! あんた本気なの!?」
「いやいやいや違いますって! リアンさんのことは尊敬してますし、優しくて可愛い人だなとは思いますけど、別に恋愛とか、そんなのは一切なくて!」
「かわ、っれん!? あんたも何言ってんの?!!」
「ふーんそうなの。後輩君の恋路を手伝ってあげようと思ったのに」
「たかはしいいい!!?」
「ちょっとまっ、ちがいます!!」
何でこうなった。話がゴロゴロ転がっていき修正できない。
小鳥のさえずりが響くのどかな森にはかつてない喧騒が轟いていた。振り回されるリアンさんも可愛らしいがそれどころじゃない騒ぎが俺の精神的疲労を増大させる。ただでさえ対人スキルが低いのにこの環境は過酷過ぎないか?
どれもこれも一人だけ心底楽しそうなこの人のせいだ。常に微笑む柔らかい口からは人をかき乱す言葉ばかり発せられる。小栗先輩は人間じゃないと思っていたが、これは悪魔にしかできない所業だ。無駄に美形な顔立ちからは想像もできない悪人。第一印象通りの危険人物と一日過ごさなければならないなんて……地獄かここは。
パニック&ショートなリアンさんはコントロール不可なので先に小栗先輩に事態の収拾まで黙ってもらうしかない。俺の必死の懇願であっさりと、しかし玩具を取り上げられて残念そうに承諾してくれた。
俺は深呼吸をした。ようやく落ち着いて本来の目的で動ける。リアンさんはまだ、
「かわい…こい…れん…」と意味の分からないことを呟いているが足取りはしっかりしている。そのうち元に戻るだろう。
大学内のアスファルト舗装の道をしばらく歩くと景色の雰囲気も変化してきた。周囲は穏やかな手入れされた森から手つかずの荒々しい山林に移り変わっている。初日の学校案内でも来たことがない奥地までやってきたようだった。
みえる先輩とムシしたい 夏野篠虫 @sinomu-natuno
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