百九十二話 笠司、白露(十)
「で、結局そのひととは会えなかったんですか?」
湯気あがる土鍋の向こうで真っ赤な甲羅から中身をこそげだしてるさわさんがそう尋ねてきたので、僕は力無く首肯した。
「まあ、今回は縁が無かったんだろうな」
そうつぶやく僕に向かって
「まるで次があるみたいな言い方」
知るか、そんなこと。月波さんの今後の予定なんて、僕がわかるはずない。
口に出すと新たな追究のネタにされるだけだから、黙ってとんすいに取り分けた春菊を口に運んだ。
*
大崎に行くつもりが電車を乗り間違えて大井町に着いてしまったというDMを受け取った僕は、次の上り電車で品川に戻るよう返信して大崎駅の改札を抜けた。
数分後に入線してきた山手線内回りに飛び乗って品川に向かっている途中、握っていたスマホが震えた。
月波@tsukiandnami
蔵六さん
ボクの不手際で振り回してしまってごめんなさい。
申し訳ないのですが、時間が無くなりました。
たいへん残念ではありますが、今回お会いするのは諦めます。
これからもツイートは拝見し続けて、陰ながら応援します。
お仕事も、創作も、がんばって。
―――午後6:21 · 2023年9月9日
ドア横のポールにもたれてスマホを見つめ、それから窓の外に目をやった。
そうか。タイムアップか。
月波さんがどのくらいの頻度で上京するのかわからないが、咄嗟とはいえ山手線と京浜東北線を乗り違えたくらいだから、そうそういつも来てるというわけではないだろう。かといって僕がここを離れて会いにいくというのも、今の仕事や手持ち資金からは考えにくい。
結局、会えず仕舞いなんだな。
流れる車窓のフィルターは、オレンジから藍色に明度を落していった。
迎えに行く理由の無くなった僕はとりあえず品川で下車し、二階の連絡回廊に上がった。彼女がさっきまでいたはずの大井町まで行って、そこから歩いて帰るつもりだった。
*
「でもさ、そのおかげで会えたんだよね。本命と」
リョウジの言い方はいちいち
僕は蟹の脚に手を伸ばした。
でも本命だかなんだかは別にしろ、たしかに
*
品川駅の広い連絡通路はいつも通り人で溢れていた。土曜の夕方だからなのかラフな服装のひとが多く、平日より色彩豊かな感じがした。
そのまま乗り換えて大井町に戻るのもなんとなく
新刊の平積みを眺め、雑誌コーナーをひやかしているうちに、そういえば『火星の人』をもう一度読みたいと思っていたことを思いだした。『プロジェクト・ヘイルメアリー』の作者が書いたあの出世作は、卒業の餞別でさっちーにあげてしまっていたのだ。
文庫コーナーの棚に寄って、数多の背表紙を目で追う。・・・・・・あった。
伸ばした手が、同時に伸びてきた手と触れた。
「あ」
女性の声に慌てて、すいませんと頭を下げる僕。本屋であるあるの他意のない接触事故だ。なんの問題も無い。だがそのひとは、片脚を下げてこちらに身体を向けた。
「皆川・・・・・・さん?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
目の前に、波照間さんが立っていた。
「こんなところでどうしたんですか」
「いや、波照間さんこそ、まだこちらにいたんですか。飛行機は?」
いかん。質問に質問で返してしまった。
僕の内心の反省をよそに、彼女は答えてくれた。こころなしか嬉しそうな口調で。
「このあと向かうんです。最終便なんで」
うなずく僕に、波照間さんは言葉を続けた。
「飛行機の中でなにか読む本はないかなって思って。ほら、持ってきたの全部スーツケースに入れて送っちゃったから」
苦笑する波照間さんが可愛い。レアだ。
「皆川さんお奨めの本、なにかあったりしません?」
おっと。へらへらしてたら想定外の重要議題を投げつけられた感じ。波照間さんにSFとか薦めても大丈夫なのかな。でもこの棚の前にいるし、ワンチャンありかも。
再度手を伸ばし、僕は『火星の人』を取り出して彼女に見せた。
「これ、読んだことあります? ちょっと前に映画にもなった。タイトルはたしか『オデッセイ』」
最初は首を傾げていた波照間さんだったが、映画のタイトルには反応して頷いてくれた。おお! SF映画を知ってるとは、素晴らしい。
「どんなお話かは知らないけれど、その映画の題名は聞き覚えがあります。面白いんですか?」
「面白いです。めっちゃ」
あえて内容には触れない。だって読めばすぐにわかるから。
波照間さんの決断は早かった。
じゃ、それにしますと言って僕の手から本を取ると、先に立ってレジに向かっていった。
*
「夜の空港ってなんかロマンチックですよねぇ。いいなあ、そおゆうデート」
積み上げた蟹の残骸の向こうでコップ酒に移行したさわさんが意味不明な発言をはじめた。僕は肩をすくめ、リョウジの隣に置いてあるバケツから白ワインを取り上げる。
いや、デートとかじゃないし。単に見送っただけで。
*
「なんかすみません。こんなとこまでつきあってもらっちゃって」
搭乗開始まではまだ三十分近くある。ちなみに食事は、向こうの空港まで迎えに来るという親友さんたちがご馳走してくれるそうなので、
「いいんですよ。僕が勝手についてきただけだから。どうせすることもなかったし、むしろこっちがお礼を言いたいくらいで」
それよりも、と僕は続けた。
「展望台にいってみませんか。滑走路が一望できるところがあるみたいなんです」
「行く。行きます。夜の滑走路、見てみたい」
即答する波照間さん。食いつきがいいなあ。薦め甲斐、めっちゃあるよ。
第二ターミナルの五階にある展望デッキは未来感覚の長い回廊だった。片側に並ぶ剥き出しのフレームの外側にガラス窓が張られ、その向こうに係留された旅客機が見える。回廊の端の方に行くと、暗闇の中に手前から消失点に向かう光点が転々と並び、両翼に強い光を点滅させる巨大な影が時折そこに降りてくる。
「皆川さん、見て。空の向こうに光が並んでる」
波照間さんが指差す方に目をやると、漆黒の闇の先に、たしかに白い光が奥に向かってふたつみっつ並んでいた。
「降りる順番を待ってる飛行機ですね。あんなに間隔が狭いんだ」
むろん暗いために空気遠近法が感じられない所為で近く見えるだけで、実際の機体間は数キロレベルで開いているに違いない。とは言えその到着間隔はかなり短く、一分に一機くらいのペースで着陸してるんじゃないかと思うくらいだ。
「なんかこういうの見てると、人間って凄いなあって思いますよね」
僕の台詞に、波照間さんはうんうんと頷いている。
「ほっとくとずーっと見てられるよね」
いつの間にか彼女の口調がくだけてきていた。距離が近くなってる。
フレームにかけて前のめりになった身体を支えている白い手に、自分の手を乗せたい。そんな衝動を抑え込むには意識を強く保つ必要さえあった。
「ねえ皆川さん」
窓際から離れ、回廊を数歩進んだ波照間さんは唐突に振りむいて僕に尋ねてきた。彼女のミドルボブの上には、いつの間にか、真っ白なベレー帽が載っていた。
モノトーンのボーダー柄カーディガンに薄いベージュのワイドパンツ。ショート丈のトレンチを羽織ったそのスタイルは、展示ブースに飾ったあの写真を撮ったときそのまま。
「私、似合ってましたか?」
見入っている僕は、返事を言葉にできない。陸揚げされたオットセイのようにただ首を振り続けるだけ。
にっこり微笑んだ彼女は僕を手招いた。
「せっかく皆川さんもあのときの恰好をしてるんだし、記念写真撮っちゃいましょ」
そう言って寄り添ってきた波照間さんは、自分のスマホを持った右手を前いっぱいに伸ばした。
出発ゲートの前で波照間さんと僕は最後の挨拶を交わした。
「思えば今回の東京出張は最初から最後までずーっと皆川さんと一緒だった。そんな気がします。なにからなにまでお世話になりました。言葉にはできないくらい感謝してます。本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。ずっと波照間さんの近くにいてお手伝いすることができたのは、僕にとって決して小さくない自信ととても大きな経験になりました」
言い足りない。なにかもっと大事な、伝えるべき言葉がある。伝えないと絶対に後悔する、そんな言葉が。でもそれがなんなのか、僕にはまだわからなかった。
そうして波照間さんは、ゲートの向こうに消えていった。最後に僕を振り返り、手に取った白い帽子を大きく振って。
*
「それってさ、リュウちゃん」
玄関の外まで見送りに出てきた
「プロジェクトの仲間じゃなくて、ひととして強い繋がりを感じてたってことなんじゃないのかな。リュウちゃんがまだ気づけてない気持ちを表す、世界共通のキーワードに基づいて」
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