百七十二話 笠司、処暑(五)

「お疲れさまでした」


 八月最後の日曜日、二日間の仕事を大過なく終えて控え室に向かおうとするえりかさんに、僕はミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。


「ありがとー! リュウジくんもお疲れさま。トラメガのサポート、ばっちりだったよ」


 トラメガのサポートとは今日三回目のステージでのこと。観客の子どもたちが参加するゲームが最終ターンに入る最中さなかに、電源機のトラブルで一切の音が止まってしまったのだ。BGMはもちろん、進行役であるえりかさんのワイヤレスマイクも機能を失ない、場内のスピーカーは完全に沈黙。張り上げるえりかさんの肉声も勝手気ままに喚いたり叫んだりする子どもたちには届かず、ステージはちょっとした危機状態に陥った。そのとき僕が、たまたま備品の中に入っていたマイク型拡声器トラメガを使える状態にして彼女に手渡したのだ。


「いやいや、アレ収めたのはえりかさんの手柄ですって」


 実際、トラメガを受け取ってからのえりかさんは、まさに独壇場だった。

 ステージの支配を取り戻した彼女は、右往左往する子どもたちや見守る観衆を予定通りの着地点へと導いた。返し用スピーカーに片脚を掛けてトラメガを振り回すその姿は、さながらハードロックのヴォーカリストだった。


 えりかさんはペットボトルをラッパ飲みしながら手を振った。


「あのタイミングでリュウジくんがパスしてくれなかったら、ステージぐちゃぐちゃになってたって。あのあと謝りに来たお店のひとも助かったって言ってたよ」


 そう。電源喪失の原因は、たまたま裏手を見物に来たお店側の支店長さんがケーブルに足を引っかけたためだった。おかげでこちらがペナルティを被ることも無く、なかったこととして終えることができたのだ。


「エムディスさんと私、次回はご指名でいいですよね、って念押ししといたから」


 さすがだ。さらりと恩着せたうえでちゃんと落としどころまで用意してあげるとは。僕は苦笑いしつつ礼を言った。


「いいってこと。サンタさんとエムディスさんにはいままでにもいっぱい借りがあるから。あ、でもどうしてもお礼がしたいってリュウジくんが言うんなら、このあと一軒つきあって。友だちに誘われてんだけど、一緒に誰か連れてきてって頼まれてるの」


 そんなふうに誘われてばっさり断るほどの無粋ではありたくない。もとよりとりたてての用事もないし、明日は代休だ。


「撤去が済むまでしばしの間待ってもらえるんなら、謹んでお付き合いさせていただきます」


          *


 えりかさんに連れていかれたのは恵比寿の小さなライブハウスだった。

 ワンドリンク付きの当日券を買って扉を開けると、ビートの効いた打ち込みが割れ気味になるほどの爆音と音程のあやしいユニゾン、それらに被さる怒声混じりの掛け声が耳に飛び込んできた。思わず立ち止まってしまう僕だったが、えりかさんに手を掴まれて人混みの中に引き込まれていった。


「なんですか、これは」


「見ての通り、アイドルのライブよ」


 耳元で叫ぶようにそう応えたえりかさんは、にやりと笑った。

 たしかにこれはアイドルのライブだ。前列では白やピンクに光るスティックをリズミカルに振り回す集団が並び、その向こうのステージでアニメの戦闘服みたいなショートパンツとノースリーブの女の子たちが歌いながら激しく踊っている。

 彼女たちのコールに僕の周りの男たちが腕を振ってレスポンスする。何人かの手には小刀サイズのライトセーバーが握られている。隣のえりかさんもその場に馴染んで身体を揺すっていた。



「どう? びっくりした?」


 幕間を見計らってドリンクバーに場所を移した僕らは、コロナビールを片手に壁にもたれていた。


「はじめて来たんで、正直面食らってます」


「ピンキーギャングってアイドルでね、リーダーのが私の後輩なのよ。むかしいた事務所での」


 聞いたことのないグループだ。いわゆる地下アイドルってやつか。


「さっき真ん中で飛び跳ねてたがいたでしょ、白い羽飾り付けてた。あれがリリン、私の後輩。ここでは最古参で一番人気。ほら、推しのキンブレも白いのが多いでしょ」


 キンブレってのはあのライトセーバーのことらしい。観客たちの持つそれは、たしかに白く発光しているものが他の色より多い。そうか。個々のメンバーと色が連動してるんだ。


「伸び悩んでるのよね、彼女たち。そろそろ三年目になるはずなんだけど」


 見回してみると会場自体もさほど広くはないし、観客も満員というほどではない。まばらというと語弊があるが、半分ちょいくらいの入りってとこか。


「そろそろ潮時なのかもね、彼女」


 遠くを見上げるような眼をしたえりかさんがぼそりとつぶやいた。


          *


「今夜はつきあってくれてありがとうね」


 駅前のカフェのガラスに映るえりかさんはそう言って笑った。時刻は十一時を回り、僕の前のコーヒーカップはもう空だ。

 ライブのあとの楽屋で、僕はリリンさんを紹介された。ステージで見た印象よりずっと小柄な彼女は、両手を包み込むような握手とにこやかな笑顔で応じてくれた。頬や目元が強調する厚い化粧が汗の伝った筋だけ剥げて、肌の地色を晒していた。

 そのときに運営の人が気を利かせて撮ってくれたチェキをカウンターからつまみ上げて眺める。リリンさんがつくるハートの片側は綺麗な曲線なのに、僕の手の側は単なる丸の半分。ひきつった顔の僕が占める右側と完璧なスマイルのリリンさんの左側は、モブとアイドルの偶然の邂逅を写真一枚で表していた。

 今頃はまだ、彼女たちは握手会で忙しくやっているのだろうか。


「どうだった、初のドルオタ体験は?」


「新鮮でしたね。知らなかったことばかりで。あと、ファンの年齢層が思ってた以上に高かった」


「そうなのよ。続けてるとどうしても固定のドルオタが目立ってきちゃう。基本、おじさんたちは礼儀正しくておだやかなひとがほとんどだけど、現場が重なればお互い顔見知りになるじゃない。彼らが集まってわいわいやってると、どうしたって圧は感じちゃう。新しいひとが入り込みやすい環境じゃないよね」


 ストローの先で氷をつつくえりかさんは、そう言ってため息をついた。


「えりかさんもアイドルやってたんですか?」


 僕の質問に彼女は照れ笑いを見せた。


「誘われたことはある。けど、結局やんなかった。そのころはまだグラビアがメインだったから。アイドルとファンとの距離感もなんか微妙に思えちゃって」


 それに、と言いかけたえりかさんは、いたずら小僧の目をして僕を見つめた。


「私がりたいのはロックの方だから」

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