百七十一話 瑞稀、処暑(五)
「ミズキさぁ、くまがミシクゲーじゃ」
冨嘉集落の端にあるおばぁの家から歩いて十五分。森の中を貫く一本道の先にぽっかりと開けた草っ原がありました。おばぁが一番のお気に入りと言うミシクゲーです。簡素な石組みで造られた井戸の底には波紋ひとつない真っ黒な水面が覗けます。
聖なる神の井戸として大切にされているという割に、ここの広場には祭事をイメージさせるものはほとんどありません。おばぁが担当する
「ここミシュクは、八重山の始祖神アマミキョとシネリキョがこの島で最初に見つけた井戸、なんだそうよ」
おばぁの言葉を待たず、祖母が説明を始めました。
「油の雨に追われてここに辿り着いたふたりだけの
「ひとぅいめーハブ。いっずーうぬ次じゃ!」
おばぁが大声で口を挟んできました。
「ハブ、魚の順番だ、って。ほんとにもう細かいんだから」
肩をすくめた祖母は、おざなりの訂正だけして話を進めます。
「土地が悪いってなって内陸の冨嘉の方に引っ越ししたら、ようやく人の子が生まれるようになったんだって。それがこの島の祖先たち。ちなみに土地がどうのってとこは、中学生時代のあたしが考えた創作部分ね。あたし、昔は少女漫画家になりたかったから」
「トキぃキジムナーぬ
つっかかってくるおばぁを、祖母はハイハイと軽くいなして笑いました。
「
やれやれと両手を広げる祖母をひと睨みしたおばぁは、私の手を引いて石積みの前に連れてきました。
「ミズキんかいキジムナーぬ
「瑞稀には聴こえないかぁって」
離れたところから通訳してくれる祖母の声を待たず、私は耳を澄ませていました。
帽子を透過して射し込む日差しと海から吹く柔らかい風が運んでくる潮と草の匂いに包まれて、私は目を閉じ口をつぐみます。意識を石積みの
さわ、さわわ。
耳に届くのは海風が奏でる木々のざわめきだけ。
「やっぱり駄目みたい」
頭ひとつ低いおばぁの頭頂のまばらに残った白髪を見つめながら、私はそんなふうに苦笑いしました。
まあしょうがにゃーんに、と応じたおばぁは
「最近どー儂んかいまい、るふにぃ、きぃーかいくーんすぃ」
「なによぉ。自分でも聞こえてないんじゃない」
草を踏み散らして近寄ってきた祖母が不満げな口調で非難してきました。顔はもちろん、笑っています。
*
「とにかく、元気そうで安心したわ」
日暮れ前の島一周道路を、祖母と並んで歩いています。
歩道も無く、車二台がすれ違うのが精一杯って感じの舗装路ですが、そもそも車なんか走ってないし、たまにスクーターがすれ違うだけ。両側には背の高いサトウキビが延々と地平線までつらなっています。視界の上半分を占めた抜ける青空と、緑一色の地平面。その真ん中に黒灰色の二等辺三角形が真っ直ぐ置かれ、鋭角が青の底辺に接するところまで伸びている。まるでデザイン入門の見本みたいな風景。
「悪かったわね。せっかくの夏休みをこんななぁんにもないとこにつき合わせちゃって。誰かいいひとと旅行にでも行く予定とかあったんじゃないの?」
すたすたと歩を進める祖母に置いて行かれないよう少し早足の私は、おおきくかぶりを振りました。
「ぜんぜん! ぜんぜんですよ。なんの予定もしてなかったし。だいたい、一緒に出掛けるいいひとなんて、皆目いませんから」
不必要なくらい大袈裟に否定してしまった私に、祖母はあらあらという顔を見せます。
「そんなに若いのに!? もう、なにやってんのよ瑞稀ちゃん。あなたいま二十六でしょ。その歳にはあたし、もうあなたのお父さんを産んでたわよ」
思わず地面に目を落としてしまいます。
すみません、その通りです。ホントどぉっしようもなく駄目ちんなんです、私。せっかくあったかぼそい縁も自分の都合で手放しちゃったくらいで。自作小説の中では、主人公の母親に十五歳で子ども産まさせてるのに。
「うちの中学生のちえちゃんも同級生とダブルデートで来週ディズニーランド行くって言ってるくらいなんだから、あなただって負けてちゃ駄目よ! 帰ったら早いとこいいの見繕って青春を謳歌しなさい」
いや、もう青春って歳でも……。
従妹の中学生にも完敗の私は、曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁すよりほかありません。
※「キジムナー」……妖精のような小人。沖縄・八重山地方に伝わる伝説の生き物。
「御嶽(ウタキ)」……沖縄・八重山地方の拝所。
「ユタ」……沖縄・八重山地方における民間の巫女。
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