二百十話 笠司、寒露(三)
「来年のよこはまパレードの全体テーマは「バラ」だからな!」
今年の
吉川さんが所属する横浜駅前商業施設のフロートも常連で、だいぶ以前からうちがやらさせてもらっている。僕らが担当した前回のチームはブラジルのサンバをモチーフにしていた。
「いや、去年も
去年の(そしておそらくその前のも)コンビを組んでいた森下さんが挟み込むツッコミになど、吉川さんは聞く耳を持つ気がないらしい。スルーして声を張り上げる。
「でもって、今回のうちのテーマはこれだ!」
テーブルの紙を指差す吉川さんに吊られ、僕らも事前に配られたレジュメに目を落す。大書されているテーマは『展覧会の絵』。
「曲名くらいは聞いたことあるだろう。元はピアノ曲だけど、オーケストラがやったバージョンなら耳にしたことだってあるんじゃないかな。ちなみに俺がこの曲知ったのはプログレバンドのELPが出したアルバムでだったけど」
ELPのくだりでサンタさんが口の端を歪めて反応した。あとで尋ねてみよう。
「モスクワの北西、いまのラトビア、エストニアとの国境にあるプスコフ州ってとこで生まれたムソルグスキーは、管弦楽『禿げ山の一夜』や各種オペラの作曲などで名を上げた。が、三十代中盤の酒に溺れたあたりから生活は乱れ、友人も離れ、評判なんかもがた落ちになった。でもまあ、作曲はやめなかったんだな。失意のその時期に書かれたピアノ組曲『展覧会の絵』は、親友で夭折した画家ヴィクトル・ハルトマンの絵画展に触発されての傑作だ。壮大な組曲の最後を飾るのは『キエフの大門』。いまで言やぁ『キーウ』だな」
資料を目で追う。テーマの欄の下には本テーマを選んだ意図が細かい文字でびっしりと書き記されていた。どうやら吉川さん自身による労作らしい。
「ご存じの通り、ウクライナはいま、ロシアによる不当な攻撃に晒され続けている。この曲の舞台となってるキエフの大門をはじめとして、彼の地に散らばる多くの歴史的建造物も、いまじゃ砲撃やらなんやらでめちゃくちゃになってるかもしれん」
咳払いをひとつして、吉川さんは間をとった。
「祭りに政治色は御法度だ。けどな、なんにも言わん、オラ知らん、ではやっぱり寝覚めが悪かろう。一方を批判するような立場を取ることはできないが、仲良くやろうやって言うことくらいしてもいいんじゃねぇかって思うワケよ」
俺の想いはこんな感じだと言い捨てて、吉川さんは上座の席にどっかと沈んだ。隣に腰掛けていたサンタさんが顔を上げ、ひと呼吸置いて口を開いた。
「そういうことで、いまの吉川さんの考えを汲み取りつつフロートのデザインや演出の方向性を図っていこうって話。
会議室代わりに急遽整理して席を並べた一階の第一制作室。そこに集まる十人ちょいの面々を睨みつけるようにざっと一瞥したサンタさんは、一転して相好を崩した。
「吉川さんは柄にもなく殊勝なこと言ってたけど、要はお祭りだ。楽しくなくちゃ意味がねぇ。だからよ、吉川さんの想いは踏まえつつ、右も左もみんななかよく楽しくやるのが一番じゃん、って企画を練ってくれ」
固くなっていた空気が一気に緩んだ。緊張と弛緩。こういうの、サンタさんは上手いよな。まぁもっぱら緩める方ばっかだけど。
「あ、そうそう」
思い出したかのようにサンタさんが声を上げた。
「吉川さんとも相談して決めたんだけど、今回のディレクターは皆川な。森下はサブでついてやってくれ」
え? ええーっ!?
「聞いてないッスよ」
末席に座る僕が張り上げる声に、澄ました顔のサンタさんはひとことで応えた。
「言ってないし」
*
屋上から見上げる空は見事な
週明けから雨だったり曇りだったりと中途半端な天気が続いていたので、ひさしぶりの快晴は気持ちを伸びやかにしてくれる。まるでお祝いしてくれてるみたいだ。
自信がないとか経験不足だとか、そんな不安を並べ立てたらキリがない。でもそれ以上に、大きな仕事を中心で仕切れるというわくわく感の方が遥かに大きい。
前回のはしくらの仕事は波照間さんに引っ張ってもらった感があった。彼女の指し示すレールに乗って、枝を払ったり小石をのけたりしてればよかった。大きな自信にはなったけど、結局は彼女や小竹さんのアイディアに乗っかっただけ。だから今回は、僕の色でやってみたい。
吉川さんの想いは僕の鬱屈とも繋がってる。それをどうにか形にできれば。
「あんま肩肘張るなよ」
心の隙をつくようなひとことが背後から被さってきた。
振り向くと、紫煙をくゆらせたサンタさんがいた。
「所詮はお祭りだ。大層な主義主張を込めたって、沿道の客なんてそんなもんは見ちゃいないし望んでもいない。テーマなんつーもんはよ、隠して隠して隠し通して、そんでも見つける奴がいて、勝手に議論してくれるようになるのがホンモノよ」
あさっての方を眺めながら悠然とひとり語りするサンタさん。でも、確実に僕に伝えてる。
「俺の話を聞け~♪ なんてのはよ、ケンさんあたりに任せときゃいいってこと」
そう締めたサンタさんは灰皿に煙草を押し付けてから、こっちを見てにやっと笑った。
屋上にひとり残された僕は、彼が去った扉を見つめ続けた。さっきまでの高揚感は、いつの間にか消えていた。
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