二百八話 笠司、寒露(二)
イスラエルで戦争が始まったらしい。
ネット上では耳慣れない「ハマス」という単語が飛び交い、音楽イベントの真っ最中に奇襲された参加者市民の逃げ惑う画像や動画がSNSで拡散されている。
夕方のリレー投稿を済ませたあとにそのまま彷徨っていたタイムラインで、僕はそれらを目にした。
この国で二十四年間ぬくぬくと過ごしてきた僕には、ちょっと想像することができない。暴力を行使する側のメンタリティはまったく理解不能で、ただただ逃げ惑う市民に感情移入するだけだ。純粋な怒りと憤りが胸の裡に湧き上がってきているのがわかる。
危険だ、とたしなめる声がした。僕の中のどこかから。
突然の暴力によって奪われたり損なわれたりしたひとたちを悼むのはいい。その気持ちは忘れてはならない。でも現場にいない、直接的な被害も受けてないニュートラルな僕が、目の前に流れてきた現場の情報だけで脊髄反射的に怒りを表に出すのはあまりにも短絡している。
遠方にいてなんの助力もできない立場にいるからこそ、多面的な視点を得られるよう努力すべきなのだ。そしてそれが叶わないのであれば、少なくとも誰か一方に怒りの鉾先を向けるべきじゃない。
ほぼ同じタイミングで、中東のアフガニスタンでは大きな地震があった。人道支援無しには立ちゆかない状況の国土では、耐震構造の堅牢な建物など望むべくもない。レンガで組んだ建物の多くがひとたまりもなくつぶれている様子が、これもSNSで流れていた。
ウクライナとロシアの戦火も未だ止む気配はない。
世界は混迷を極めている。そしてそのいずれに対しても、僕は無力だ。
銃後の遙か彼方にいる僕らのできることは、自らが混迷に陥らないよう柔軟を保ち、日々を真っ当に暮らすこと。僕は、少なくとも僕はそう思う。
うん。今夜は米を研ごう。
*
局所的でセンセーショナルな情報を垂れ流すTVを消して、スマホも部屋に置いたまま、僕は夜の散歩に出掛けた。
戸越公園まで、ゆっくり歩いて十分そこそこ。十月の夜風は過ごしやすく、動かないでいると肌寒く感じるくらいだ。雲は少なく、天頂からやや後方に向かってカシオペア座と北斗七星が並んでいる。上側に丸みを帯びた下弦の月が東の空の低いところに浮ぶ静かな夜。
園内の遊歩道を池を目指して進む。日付も替るこんな時間に散歩してる酔狂など、僕のほかには誰もいない。なんだかすごく得をした気分になる。
奥まったところに立つ外灯の足下で、石垣に腰を下ろした。大丈夫。気持ちは充分に落ち着いている。僕は順番に記憶を
彼女が来春結婚するという話を、僕の八割は慶んでいた。僕の中に棲む彼女は庇護すべき存在だったのだ。僕の覚悟が足りなくて傘の中に招き入れることができなかった彼女のことを、エラそうにも僕は、気に病んでいたのだ。鼻持ちならない若造の思い上がりは置いとくとして、
二割ほどある口惜しさは、彼女から告白されたという過去の実績にしがみつく他愛もない自尊心だから、全体で見ればきっちり吹っ切れてると断言できる。
うん。いいぞ。いい感じだ。
僕は正面の東の空を見上げる。木立の向こうで月はさっきよりもだいぶ高くなっていた。あの先のどこかで土曜日の午後を迎えているはずのひとを思い浮かべてみる。
鷹宮皐月。いや、もはや
御嶽さんとは、例えばいつか
でも皐月さんは違う。彼女とは、もう二度と逢わない方がいい。いや、遭いたくない。決別は済んでるしケジメもついている。でもそれらはまだ、わざわざ自分に言い聞かせないといけないレベルのものなのだ。逢わない、遭いたくないと宣言するのは、まだ拭い切れてない残心の裏返しだろう。
「それでも」
そう口に出して、僕は立ち上がった。
半年も過ぎ、すっからかんだった
梅雨時期に
次は、次に心が動くときには、きっと新しいなにかに向かって足を踏み出せる。そう予感がするのだ。
*
部屋に戻りスマホを起こすと、珍しいひとからのメールが届いていた。
―――――
リュウジ殿
なんか面白そうなことはじめたじゃないか。
いっしょに書いてる月波さんってのは、前におまえさんが話してたツイッター小説書きのひとか。随分と仲良くなったみたいだな。
いっしょに仕事したり研究したりすると、仲は急速に進展するものだ。
俺の職場でも、他校の先生たちとの勉強会で課題をやったり情報交換したりするんだが、日頃出会いの少ない若い連中なんかはその度に色めきたってる。
組み合わせが送られてきて最初の顔合わせのときなんか、マジで悲喜こもごもだ。
まあそんなことはどうでもいいんだが、例の話はどうする? おまえの薄い本の話。
もしも出すんだったら、今月中に第一稿を送ってくれ。プロットと、挿絵描いて欲しい場面の描写も。
表紙+挿絵×2くらいなら協力してやれる。
以上。
『うれしぐすくぬー』の続きも期待してる。
鍛冶ヶ谷
―――――
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